4月20日(日)「復活のいのち」説教要旨

           聖句
旧約
 「わたしは答えた、『主なる神よ、あなたはご存じです』。彼はまたわたしに言われた、『これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る』。」   (エゼキエル37:3-6)

新約
 「この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村に行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。イエスは彼らに言われた、『歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか』。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。どのひとりのクレオパという者が、答えて言った、『あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか』。『それは、どんなことか』と言われると、彼らは言った、『ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起こってから、きょうが三日目なのです。ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当たらないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果たして女たちが言ったとおりで、イエスは見当たりませんでした』。そこでイエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、『わたしたちと一緒にお泊まりください。もう夕暮になっており、日もはや傾いています』。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』。」  (ルカ24:13-32)

  旅していたふたりの弟子は、悲しみに沈んでいたのです。最近起こった十字架の出来事を思い起こし、全く愛する主を失い、絶望的になって悲しみに沈んでいたのです。今までよりたのんでいた主が、十字架というむごい刑によって非業な最後をとげたことは、弟子たちには、絶望的なことにちがいありません。それは弟子の身にも及ぶかも知れません。このいまわしい十字架の地エルサレムを少しでも遠く離れればよいと考えるのがふつうでしょう。つまりふたりの弟子は、逃亡をくわだてエルサレムからエマオへと逃げて行ったのです。エマオは、彼らの故郷か、せめて知人のいる町かも知れません。そこで知った友人の人間的慰めを受けようと思ったのでしょう。ひたすら十字架、いまわしい十字架の場所から離れて、故郷のエマオへ行きたいと思ったのでしょう。彼らが十字架の忌まわしい思い出から逃れる手段は、外でもなく故郷の人間関係です。したがって、「彼らは悲しそうな顔をして立ち止まった」というのがそのことを表しています。彼らは、そのころ「悲しかったのです」。つまりイエスという愛する師が、十字架というむごたらしい最後を遂げて、悲しい思いを心に秘めて、故郷へと逃げ帰る以外には方法がなかったのです。

  しかし、復活の主は、ここでは、この悲しんでいる二人に近づいて来て、一緒に歩きだすだけでなく、彼らに話しかけたのです。「歩きながら互いに語り合っているその話は、なんのことなのか」と。いわば話している、その内容を聞きただしているのです。彼は逆に問いかけて来ました、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起こったことをご存じないのですか」。彼らが、問題にしたのは、イエスの十字架の本質やその信仰内容ではありません。その世間的な噂話としての、出来事です。なんと低次元のことでしょう。イエスの十字架は本来信仰の出来事としてしか語りえないのです。しかし、それを世間的な噂話の題材として示したのです。この人たちも、事の本質は何一つしらなかったのです。おそらくエルサレム中がそうだったでしょう。弟子たちとても最初のうちはことの外面だけしか分からなかったのです。しかし、かれらに近づいたイエス・キリストのみは、このことの本質を知っている唯一のお方だったのです。彼らは事柄の外面だけはよく知っていました。しかし、それは十字架で裏切られた。ところが婦人たちがイエスは「生きておられる」と告げたのです。「イエスは生きておられる」、これは何と端的にイエスの十字架とその復活について語っていないでしょうか。
   


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