3月16日(日)「祝福の杯」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。」   (申命記32:17)

新約
 「それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起こそうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。」  (Ⅰコリント10:14-22)

  偶像に供えた物に何か神的価値を認めることは、一種の偶像礼拝です。しかし、供え物を食べることは、決して礼拝の行為ではありません。ここには区別がなくてはなりません。この区別は、正しい信仰的態度です。私たちは厳格にすべきことと、寛容にすべきこととを明確にしなくてはなりません。皆さん、偶像とは、どういう時にできるのでしょうか。その昔、出エジプトの際、モーセが山に上って十戒を受けている時、山の下では、モーセがいなくなったと大騒ぎで、アロンに迫って金の子牛をつくり、これを神にみたててその回りを踊り狂いました。偶像とは、人間が自分の都合で、自分の安心のためにこしらえた物体に過ぎません。またこのような目に見える物体でなくても、知的社会では、知識を偶像にしたり、理論を偶像にする場合もあります。見えるにせよ見えないにせよ、地上のものを神のように崇拝することは、偶像礼拝にほかなりません。今日の高度に成長した工業社会では、成長率が偶像になる場合もあるでしょう。学生には受験の神様というのがあります。お札をもらって安心するのも偶像礼拝です。私たちは宗教において心の安心を求めます。しかし、その安心立命が神さまになれば、それも偶像礼拝です。精神的にせよう物質的にせよ、神でないものを神にすることは、すべて偶像礼拝にほかなりません。

  高度成長の偶像神は、生産増強のために多くの人間をその犠牲にします。つまり偶像礼拝とは、自分の姿の映し出されたものに過ぎません。すなわち、偶像礼拝とは利己主義の固まりなのです。パウロは、このような偶像礼拝と私たちの真の信仰との違いを説明しています。それは私たちがサクラメント(聖晩餐)と呼んでいるものによってです。サクラメントとは、何か永遠の神のものを、地上の目に見えるものによって示すことです。ただやたらに何でも、地上の物を神の真理にするわけにはゆきません。そこには天から地上に来られた救い主の言葉がなくてはなりません。主はその生涯の間に、二つのものをそのようなサクラメントとしてお示しになりました。一つは「洗礼(バプテスマ)」です。もう一つが聖晩餐です。それは単なるシンボル(象徴)ではありません。アウグスチヌスは、それを「見えない御言葉の見えるしるし」と言いました。カール・バルトは、それを「出来事としてのしるし」と言いました。両方とも真理です。洗礼は昔からありました。特にバプテスマのヨハネが行った洗礼はキリスト教会に受け入れられ、信仰者の信仰の現れとされました。

  私たちは今日、洗礼と聖晩餐の二つを主の定められた聖礼典として、守っています。洗礼はキリスト教信仰の始まりを表し、聖晩餐はキリスト教信仰の継続をあらわしています。

  しかし、よく言われるように、「たとい何千回キリストがベツレヘムに生まれても、もしあなたの心の中に生まれなければ、それが何になろう」、しかし、また同時に次のようにも言われています。「たとい何千回キリストがあなたの心の中に生まれても、ベツレヘムに生まれていなければ、それが何になろう」と。この二つは、共に真理です。どちらが欠けても、イエス・キリストの降誕の秘義は明かになりません。サクラメントとは、ベツレヘムに生まれ、ゴルゴタで十字架につけられたイエス・キリストが、今、このパン、ブドウ酒を食する時、そこに現臨したもうという信仰によって支えられているのです。この見えざる信仰の見えるしるし、それが洗礼であり、聖晩餐なのであります。生けるキリストが、信仰をもってパンとブドウ酒を食する時、そこに現臨するのです。

  「わたしたちがさくパンはキリストのからだの交わりではないですか。またわたしたちが祝福する杯は、キリストの血による交わりではないですか。パンがひとつですから、わたしたちが多くいても、ひとつからだです。みながひとつのパンを分かちあっているからです」と言われています。わたしたちの真の一致は、キリストの犠牲と十字架の愛から来ます。そのことに行動的に参加することが求められています。サクラメントの意義は、このわたしたちの行動的参加による一体です。それがイエス・キリストのからだなる教会にほかなりません。
   


Copyright(c)2014 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.