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4月8日(日)「いのちの夜明け」説教要旨
マタイ28:1-10
 復活とは、「再び生きる」ことです。「再び」という以上、一度死ぬことが前提になっています。
 しかし、今、死んで、この世に生き返るなら、それは「蘇生」であって、「復活」ではありません。復活とは、死んで、新しい永遠の世界に生き返ることであります。
 これは実際あった話ですが、小学校3年生の女の子が、重い病気で、死を宣告されました。「あと3日しかもたない」と。お父さんお母さんは、そのまくらべで、声を上げて泣きました。しかし、その子は、にこにこしていて、「お父さんお母さん、泣かないで、私はイエスさまのところに行くのだから」と言いました。この少女の信仰に両親は打たれ、信仰に入り洗礼を受けたと言われます。
 小学生が死を恐れないで、両親を教会に導いた話は胸を打ちます。幼稚園の子や、小学生の方が、生と死について素朴で、生き生きとした考えをもっている場合があります。これは、すべてがそうだと言っているのではありません。ままそういう場合があるのです。ここで女の子が、生き生きとして、イエス・キリストのもとにあるいのちをもっていたのです。ではそのイエスさまと一緒のいのちから考えると、今、私たちがもっているいのちは、どうなのでしょうか。それは、確かに大切ないのちには違いありませんが、これは短い、壊れやすい、いつなくなるか分からないいのちです。このことは、誰しも同意すると思います。しかし、話はそこからです。
 はっきりしていることは、その永遠のいのちから見て、今のいのちは、取るに足りないつまらないいのちではありません。
 なぜなら、もしそうなら、早く死んだ方がよいことになり、生きていることは意味がないことになるからです。その証拠に、イエスはここで復活して、「行って、兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」と言っています。ガリラヤでの生に、意味を見いだすゆえに、イエスはそう命じたのではないでしょうか。
 また復活の主は、さらに、「行ってすべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(19-20節)とも言っています。また主の祈りでは「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈ります。「初めに神、天地をつくりたまえり」、「新しい天と新しい地とを見た」とあります。
 イエスのよみがえりによって、実に、この短い生にも、意味があるのです。長いとか短いとかは関係ないのです。弱いとか小さいとかに関係ないのです。病弱のからだを横たえるそこでもよいのです。ただ、私たちのこれまでの生が、この永遠のいのちの光の中に見られるのです。
 さらに言いましょう。そのいのちは、天地創造の初め、「光あれ」といった、あの「大いなる生命の流れ」であります。
 「初めにことばあり、ことばは神と共にあり、ことばは神であった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1:1-3)。これにいのちがあったとあります。
 「ことばのうちに命があった、命は人間のを照らす光であった」(1:4)ともあります。
 これが「大いなるいのちの流れ」です。
 この流れから、最初の話にもどると、もっとよく分かります。あの子の生命は、この大いなるいのちの流れの中にあるのです。そのことが、復活のイエスによって示されたのです。ご両親は、このいのちの流れに導かれ、洗礼を受けたのです。だからこのいのちの流れを示すために、洗礼は水を使うのです。それは父と子と聖霊の交わりです。たとい短くても病弱でも命があり意味があるのです。それは両親を教会に走らせ、洗礼へ導いたのです。地上における父と子の交わりです。復活の光は、この地上にも照って、いのちの流れを生み出したのです。それは永遠の父と子と聖霊の交わりの証しです。
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