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11/21update
当教会は、聖書に基づく伝統的なプロテスタント教会です。エホバの
証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教とは一切関係ありません。
毎週日曜の集会
初めて礼拝へ出席される方は、何も持たずに
お越しください。貸し出し用の聖書と新聖歌をご利用
ください。
礼拝の中で献金の時間がありますが、洗礼を受けて
いない方はパスして頂いて結構です。
☆☆コロナウイルス感染防止のために☆☆
・各自マスク着用の上、玄関で手指のアルコール
消毒を行ってください。
発熱のある場合は集会出席を控えてください。
・窓やドアの開放に加え、換気扇により常時換気を
行っています。
証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教とは一切関係ありません。
毎週日曜の集会
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礼拝の中で献金の時間がありますが、洗礼を受けて
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☆☆コロナウイルス感染防止のために☆☆
・各自マスク着用の上、玄関で手指のアルコール
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発熱のある場合は集会出席を控えてください。
・窓やドアの開放に加え、換気扇により常時換気を
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※当教会はエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。
お困りの方はご相談ください。



礼拝 10:30〜11:30
教会学校(ファミリー礼拝)
礼拝後10分程度(←時間帯が変わりました)
(乳幼児から大人まで対象)月刊誌「ハッピー月号掲載
2025年
11月23日
洗礼式
10:00〜教会中庭にて
聖日伝道礼拝
10:30〜11:30
11月16日聖日礼拝
ローマの百人隊長は、病気になったしもべをまるで
自分の息子のように憐れみ、イエス様のところへ来て
癒しの懇願をしました。
「しもべ」(6節)とは、奴隷とか少年のことを指します。
当時のローマ法によれば、奴隷の生き死には主人の
権限にありました。主人が奴隷に対してこのような愛を
表わすのは極めて異例でした。ここに百人隊長の人柄
がよく表わされています。
今も神はすべての人に目を留めて、相手にどのよう
な愛を表わしているかをご覧になっておられるのです。
Aみことばの権威 7-12節
イエス様は百人隊長の懇願に対し、「言って直して
あげよう」とお答えになりました。
ところが、百人隊長は「主よ。あなたを私の屋根の下に
お入れする資格は私にはありません」とイエス様に答え
て言いました。当時のユダヤ人は異邦人を汚れた者と
みなしていたので、「屋根の下」すなわち家に入るだけ
でも汚れると考えていました。そのことを百人隊長は
知っており、イエス様の申し出を謙遜な態度断ったの
です。
百人隊長は続けて「ただ、おことばを下さい。そう
すれば、私のしもべは直ります」と言いました。軍人は
上官の命令には絶対服従です。彼は百人隊長としての
権威を持っており、部下に一言命令すればその通りに
なった。
同じように、救い主として来られたイエス様が絶対的
主権を持って命じれば、自分のしもべは癒されると彼は
信じました。彼は職業柄、また経験から「権威」が何か
よくわきまえていた。百人隊長は神のみことば、すな
わちイエス様のおことばに絶対的な力があることを信じ
たのです。
イエス様は彼の信仰を称賛しました。民族や血筋では
なく、神に対する真実な信仰を持った人が救われること
をイエス様は示されたのです。
B信じたとおりになるように 13節
イエス様が彼に「さあ、行きなさい。あなたの信じた
とおりになるように」と言われると、ちょうどその時しもべ
はいやされたました。イエス様はみ旨にかなう祈りに
応え、時間や空間を超えて御業を行われます
これは現代でも同じです。
私たちもイエス様のこの認証のことばを頂くためには
次のことが必要です。
・神の御心、すなわち聖書にかなう祈り
・動機が不純でないこと
・信じて疑わない、神への全面的な信頼
・すでに祈りがかなえられたと信じる
・つぶやかない
11月2日聖日礼拝
私たちはこの世から救い主キリストによって召し出さ
れて救われた者(救われるべき者)で、たくさんの恵み
を預かっております。それゆえ、私たちは主人である
キリストに忠実に仕え、預かったたくさんの恵みを忠実
に管理しなければなりません。
「奥義」(1節)とは字義的には「私たち人間に救いを
与える神の知識」を表わしますが、すなわち「キリスト」
のことです。それは生まれながらの私たちには隠され
ていて、神の側からの働きかけによって初めて明らか
にされます。その「奥義」の内容は「キリストの福音」で、
教会を通して知らされます。
「奥義」には、救いが完成する世の終わりのこと、終わ
りの日の復活、全イスラエルの救い、大バビロンの
滅亡も含まれています。
A裁き主の前で忠実に歩む
主イエス様に救われた私たちは、最終的に主から
だけさばかれる身分とされました。
終わりの日に責められるところの無いように、日々
主の前に罪を悔い改めて、忠実に主に仕えて生活
して参りましょう。
私たちが永遠のいのちを頂いて天国へ行けるか
どうかという決定的な裁きは、イエス様を信じた時に
すでに行われています。
それとは別に、私たちの地上での歩みがどうだったか
は神が善悪を裁き、それに応じて報いを与えるのです。
B聖書のみことばを越えて高慢にならない
私たちは聖書のみことばが示す以上に、人を過大
に評価してはいけません。使徒パウロが本書を通して
コリント教会へ書き送っているのは、同教会内に一方
をほめ、もう一方をけなす党派心があり、それは高慢の
表われだったからです。
それは神にではなく、人間に栄光を帰すことになる
からです。
聖書のみことばを越える過ちの代表例が、キリストの
再臨の日を特定してしまう試みです。イエス様は「子
(イエス様ご自身)も知らない」(マタイ24:36ほか)と
言われました。これは「知るべきではないし、知る必要
もない」との意味です。
私たちが地上で知るべきことは、すべて聖書66巻の
中に書いてあります。聖書に書いてあることに一生
懸命にならなければなりません。
10月26日聖日伝道礼拝
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。」(71節)
私たちの苦しみには、神のご目的があります。
@罪への罰と救いへの招き
神は正しいお方ですから、私たちの罪をそのままに
はなさいません。罪を必ず裁き、罰するがゆえに、
神の正義が成り立つのです。
それと同時に、神は愛なるお方です。神は私たち
人間を愛するがゆえに、罪を罰するだけでなく滅びを
警告し、救いへと導こうとされます。
以上のことは、イスラエルの歴史を通して現わされ
ました。
A罪をきよめ、信仰を深める
イスラエルが神の正義と愛を破って逆らい、神は
イスラエルの民を罰してバビロンという国へ追いやり
ました。そこで民は罪がきよめられ信仰が深められた
のです。
その経験を通し、イスラエルに罪なき者が罪ある者
を救い出すため、身代わりに苦難を受けるという信仰
が与えられました。
それは後に、イエス・キリストが救い主として地上に
来られ、全人類の罪を背負って十字架に掛かるという
形で実現します。
Bキリストの苦難に与かる
神の定めた時が来て、ついにイエス・キリストが
地上に来られました。私たちはこのイエス様を信じて
救われると同時に、信じたがゆえの苦難に遭うこと
があります。
しかし、それはキリストの苦難に自分も共に与かる
(参加する)ことなのです。この苦難を通して、私たち
もキリストの復活のいのちと栄光に与かる者とされる
のです。
C忍耐力、品性、希望を生み出す
苦難は私たちに忍耐力を生み出し、忍耐力は練ら
れた品性を生み出し、練られた品性は永遠の希望を
生み出します。
このように神は苦難を含むすべてのことを互いに
働かせて、最終的には私たちの益としてくださるのです。
「おきて(律法、戒め)」についてイエス様は、「神を愛し、
あなたの隣人をあなた自身のように愛すること」が最も
大事だと教えらえました。
つまり、神は苦しみの体験を通して私たちを救い、
神を愛し隣人を愛するように造りかえて下さるのです。
そのお手本がイエス様だったのです。
10月19日聖日礼拝
イエス様が切に願い(ヨハネ17:22-23)、使徒パウロ
が願ったことは、教会のクリスチャン同士の間に御霊
による一致が与えられることでした。私たちの生まれ
つきの「肉」の働きによっては、真の一致はありません。
この一致が与えられるためには、私たちがイエス様
に倣って、愛(アガペー)と謙遜によって人の益を求め
なければなりません。
A模範であるキリストの謙遜 5〜11節
イエス様は私たちに愛と謙遜の模範を残されました。
「・・神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を
無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになら
れました。
・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死に
までも従われました。」
B救いの達成に努める 12〜16節
私たちの救いは神からの一方的な恵みです。しかし、
その救いを生涯継続してついに達成し、完成する
ためには、私たちの努力も必要です。
それは私たちが「恐れおののいて」、つまり「慎み深く
して」神に従うことです。
神は私たちの信仰を通して、私たちの内側に聖霊を
与えて下さっておられます。私たちはこの聖霊によって
与えられる志を通し、事を行わせて頂けるのです。
その目的は、私たちが純真で、傷のない神の子となり、
いのちのことばをしっかり握って、世の光として輝く
ためです。
こうして使徒パウロは自分の導いたピリピ教会の
信徒たちが、イエス様が再びこの世に来られる時まで
信仰を継続し、ついに救いを達成することを切に願った
のです。
そうすれば、パウロは自分の努力や苦労がキリスト
の日(イエス様の再臨の日)に、主にあって誇ることが
できると言っています。
私たちも先に救いを達成して天国に召された信仰の
先人たちのように、地上生涯の最後までイエス様の
残された愛と謙遜の模範に倣い、自分の救いを達成し、
ついに天国にて神からの栄冠を頂ける者となりたいと
願います。
10月12日聖日礼拝
エジプトで400年間奴隷となっていたイスラエル人は、
神が建てた指導者モーセに導かれて、紅海を渡り、
エジプトを脱出しました。しかし、荒野で神に逆らい、
40年間さ迷い歩くことになりました。本日の聖書個所
は、モーセに導かれてエジプトを出たイスラエルの民が、
神を恐れないアマレクから戦いを挑まれる場面です。
本日の聖書個所を新約聖書の光、イエス様の十字架
の光で解釈しますと、「アマレクと戦う」(9節)とは
「この世との戦い」、「古き自分との戦い」を指します。
(エペソ6:12参照)
この世に勝利するには、人間の力ではなく、祈って
聖霊の助けを頂かなければなりません。
A役割を分担する
モーセは役割を分担しました。モーセは若きヨシュア
にアマレクと最前線で戦うよう命じ、自身は戦場が
見渡せる丘の頂に立つと告げました。モーセは戦況
を見極めながら、とり成しの祈りを神に捧げようとしま
した。次世代を担う若きヨシュアは経験を積むことに
よって、次期の指導者として訓練されて行きます。
私たちの信仰も先人達と共に過ごすことによって
養われて行くのです。
ここで不思議なことが起きました。モーセが手を上げ
ている時は、イスラエルが優勢になりました。逆に、
モーセの手が下がるとアマレクが優勢になったのです。
モーセの「手」(11節)は、「祈りの手」を表わしている
のです。神の民は武力や数の多さによって前進する
のではなく、祈ることによって前進するからです。手を
上げて祈るモーセの姿は、天にて地上の私たちのため
にとりなしの祈りを捧げておられる、イエス・キリストの
ひな型です。
B複数人で心を一つにして祈る
しかし、80歳を越えていたモーセも疲労し、手が
下がって来ました。すると、一緒に丘に登っていた
兄のアロンと、義兄のフルがモーセの手を片方ずつ
支えたのでした。モーセ・アロン・フルは心を一つに
して前線部隊の為に、イスラエルの為に、神の栄光
の為に必死で祈りました。そしてついにアマレクに
打ち勝ったのです。
複数の兄姉で心を合わせる祈りは主イエスがそこに
臨在して聞いてかなえて下さると約束されています。
(マタイ18:19-20参照)
10月5日聖日礼拝
コリント人への手紙12〜14章には聖霊による賜物
について記されています。当時のコリント教会には聖霊
の賜物を頂いている人が多くおり、異言をあまりにも
強調していました。そこで神は使徒パウロを通して、
最高の賜物である愛(アガペー)を求めるよう促して
おられます。なお、本日の聖書箇所で「愛」と訳されて
いる言葉は、すべて原語では「アガペー」です。
@愛(アガペー)の絶対的必要
〜アガペーが無ければすべては虚しい
私たちの周りには様々な愛があります。古代ギリシャ
人は愛を4つに区別しました。
1)エロース 相手に価値があり、見返りを求める愛
2)ストルゲー 家族への愛
3)フィリア 友への愛
4)アガペー 価値のない者への愛で、見返りを求めない。
人間が生まれながらには持っていない神の愛のこと。
アガペーは神のご性質です。人間の感情や理想では
ありません。聖霊による最高の賜物、また最も優れた
道です。
「人の異言や御使いの異言(一般には理解不能な
外国語や天使の言葉)」(1節)で話すことは、「自分の
徳を高める」(14:4)が、アガペーが無いなら、当時の
異教宗教が礼拝で行っていた「やかましいドラやシン
バルと同じ」なのです。
預言、奥義、知識、信仰があってもアガペーがない
なら価値がありません。すべての財産を貧しい人に施し
たり、自分の体を焼かれるために渡しても、アガペーが
無いなら役に立ちません。その動機が大事なのです。
A愛(アガペー)の実践
アガペーはイエス・キリストの十字架において頂点に
達しました。このアガペーが、イエス様を信じてクリス
チャンとなった人の心に、聖霊を通して注がれ、教会に
具体化されます。アガペーは必ず他者との関わり
(交わり)を持つからです。その表われが4〜8節に
「寛容、親切、ねたまず、自慢せず・・・」と記されて
います。私たちは神から頂いたアガペーが、自分の
身を通してこの世に現わされるよう祈り、励まなければ
なりません。
B愛(アガペー)の永続性
預言、異言、知識は一時的な役割を果たせば、過ぎ
去ってしまいます。しかしアガペーはいつまでも続きます。
イエス様が再びこの世に来られる時には、まるで顔と
顔を合わせるように、神を完全に知るようになります。
その後も永遠に続くのが信仰、希望、アガペーであり、
その中で最高はアガペーです。
アガペーは神からの賜物ですから、祈り求めないと
与えられません。よって、私たちは永遠に価値がある
アガペーを追い求めて歩んで参りましょう。
9月28日聖日伝道礼拝
「神はすべての人が救われて、真理を知るようになる
のを望んでおられます。」(4節)
神の目には滅んで良い人、救われなくて良い人など
一人もいません。
神はすべての人が罪の滅びから救われて「真理」、
すなわち「イエス・キリスト」を知って欲しいと望んでおら
れるのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして
滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)
A神は唯一、仲介者(橋渡し)もキリストのみ
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一
であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
(5節)
神は、今日もこの聖書を通してご自身を私たちに
現わされ、他の神々を必要としません。十分にして
完全な唯一のお方です。神はすべての人の造り主で
あり、霊の父親なのです。
また、私たちのように罪深い人間が罪の滅びから
救われるように、神との間に立ってとりなしをして
下さるお方も唯一イエス・キリストのみです。
以上のことが世々変わることのない永遠の真理なの
です。このことが分かると、私たちの心に平安と確信
が与えられます。
Bキリストの十字架による救い
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、
(十字架上で)ご自身をお与えになりました。これが
時至ってなされたあかしなのです。」(6節)
「贖いの代価」とは奴隷の身代金のことです。
私たちは罪の奴隷でした。天国に入れてはいけない
ものは「罪」です。イエス様が「門」となって、罪を裁いて
おられます。私たちは罪があるままでは天国へ行け
ません。
しかし、罪を裁くはずのイエス様ご自身が私たちに
代わって十字架に掛かって罪を背負い、罪の罰を受け
て下さいました。罪の身代金を全部肩代わりして下さい
ました。罪によって断絶していた神と私たちの仲介者
(橋渡し)になって下さったのです。
それゆえイエス様を信じた者は罪を赦され、罪なき者
として天国に入国できるのです。
9月21日聖日礼拝
されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない
ものと私は考えます。」(18節)
@被造物のうめきと万物の革新 19〜22節
神に造られたすべてのもの(全被造物)は、人間の
罪による滅びの法則の中でうめいています。
しかし、やがてキリストの再臨によってキリスト者が復活
させられる時、全被造物もまた滅びから解放され、栄光
の自由の中に入れられることを待ち望んでいるのです。
それゆえ、全被造物のうめきは「産みの苦しみ」であり、
希望に満ちた目的のある苦しみなのです。
A今のうめきと永遠の栄光 23〜25節
キリスト者はイエス様の十字架によって罪が赦されて
いるが、この地上にあってはまだ救いが完成していま
せん。いまだにその肉体は弱く、滅びの法則の中でうめ
いているのです。
しかし、この苦しみには目的があります。キリスト者
には「御霊の初穂」が与えられています。それは初穂に
続いて必ず大きな収穫があることを示しています。すな
わち、必ず完全な「からだの贖い」(23節)があります。
このからだは、イエス様の再臨の時に与えられ、「復活
のからだ」「栄光のからだ」とも呼ばれます。
私たちのこのからだのために、いま産みの苦しみをして
おり、「私たちは、この望みによって救われているのです」
(24節)
B御霊がうめきをもって祈りをとり成して下さる
26〜27節
人間を含めた全被造物だけでなく、御霊(聖霊)も
うめいておられます。すなわち神も私たちと共に産みの
苦しみをしておられます。
神と御霊は一致しておられ、その御霊がキリスト者
のために祈りをとりなして下さるのだから、祈りは必ず
神の前に届けられ、聞かれるのです。こうして御霊は
神の御心と私たちの思いとを一致させて下さり、
私たちを御心にかなう者・御心にかなう歩みへと導いて
下さるのです。
C神はすべてのことを益にして下さる 28〜30節
神のキリスト者に対する大目的は「神のかたちと同じ
姿」(29節)、すなわちキリストに似た者とすることです。
この大目的のために、「神を愛する人々、すなわち、
神のご計画に従って召された人々(救われたキリスト
者)のためには、神はすべてのことを働かせて益として
くださる」(28節)のです。
9月14日聖日礼拝
神の報いが記されています。
@長生きと平安 1〜2節
旧約時代、「長寿」は神からの祝福の象徴でした。
また「平安(シャローム)」は救いと同じ意味で使われて
います。
「シャローム」のもともとの意味は、「完全」「満ち足りて
いる」です。これが完全に実現するのは神の国(天国)
ですが、それがこの世にあって部分的に実現していく
のです。
A神と人からの好意 3〜4節
神の私たち人間に対する御旨は「恵みとまこと(真実)
」です。やがて神の時が満ちて、神は愛するそのひとり
子イエス様を地上に送られました。イエス様は「恵みと
まことに満ちていた」(ヨハネ1:14)のです。
私たちはこれをいつも心に留めて忘れてはなりません。
そのような信仰者は、神の前にも、人の前にも好意と
聡明を得ることが約束されています。すなわち、神にも
人にも喜ばれる存在とされるのです。
B神による導き 5〜6節
私たちは「心を尽くして主により頼み」、「どこにおいて
も主を認め」なければなりません。「そうすれば、主は
あなたの道をまっすぐにされる」と約束されています。
「まっすぐ」とは「義」のもともとの意味で、私たちは
神の導きによって正しい道を歩むことができ、ついには
神の定めた目標である天国に達することができるのです。
C健康と元気 7〜8節
「自分を知恵ある者と思わない」・・・つまり、神の前に
謙遜になること。私たちの知恵は神からの恵みだから
です。
さらに「主を恐れて、悪から離れる」ことの報いは、
「健康と元気」です。
D物資的繁栄 9〜10節
「あなたの財産とすべての収穫の初物で主をあがめよ」
とあります。神を認めない世界では、「そんなことをした
ら、自分の財産が少なくなって、損してしまうだろう!」
と考えるでしょう。
しかし、信仰者は財産も収穫もすべて神の恵みとして
与えられたことを感謝します。
神へ感謝のささげ物をすると減ってしまうどころか、
神はますますその人の信仰を祝福して、実際に財産や
収穫を満たして下さるのです。
9月7日聖日礼拝
ユダヤ教の儀式や伝統にとらわれない、新しいいのち
と喜びでした。
@イエス様が共にいて下さることは婚礼の喜び
当時のパリサイ人などは週に2回断食をしました。
しかし、それが神に対するものから人に見せびらかして
賞賛を求めるものに変わっていました。
そこでイエス様は、婚礼のたとえを通し、「花嫁である
イエス様がいるのだから、婚礼のお客である友人には
断食はさせられない」と語られました。断食は「悲しみ」
であるが、「婚礼」は喜びなのです。
イエス様を信じて救われた人には、イエス様が聖霊と
なって共にいて下さいます。私たちはこの世にあっては、
試練や困難に遭い、まるで婚礼の喜びがないような時を
通ります。しかし、イエス様は深いところでは勝利や恵み
を下さり、苦しみのすっぱいぶどう酒をやがて喜びの甘い
ぶどう酒に変えて下さいます。
Aイエス様の福音は古く形だけの律法主義に合わない
次に、イエス様はつぎあてのたとえを通し、新しい着物
のつぎあてによって旧い着物をだめにしてしまうことを
告げられました。新しい着物とはイエス様の福音であり、
古い着物とは古くなっていのちと真の自由を失ったユダヤ
教のことです。
イエス様は私たちの「古い性質」をつぎあてして改良する
のではなく、「全部」を内側から新しく造り変えて下さいます。
B新しい命と喜びをもたらす聖霊は新しい心の皮袋に
入れる
皮袋は羊の皮で出来ており、古くなると弾力性が無く
なります。そこへ新しいぶどう酒を入れると、強い発酵力
によって皮が破けてしまうのです。
「古い皮袋」とは律法学者の信仰姿勢のことで喜びが
薄れていました。「新しい皮袋」とはイエス様によって
新しくされた心のことで救いの喜びがあります。
「古いぶどう酒」とはユダヤ教の古い習慣や儀式の
ことです。
「新しいぶどう酒」とは聖霊による喜びのことで、私たち
にこの世の苦難に打ち勝つ力をもたらし、飲んで無く
なるどころか、ますます良いものとなって増えて行くの
です。
それゆえ、私たちは毎朝新しい心(新しい皮袋)で主を
求め、聖霊という新しいぶどう酒を頂いて歩んで参り
ましょう。
8月31日聖日礼拝
クリスチャンたちに書き送りました。彼らは異教社会に
囲まれた少数派でした。それは今日の日本も同じです。
そうした中でキリスト者としてどういう生活を送り、キリ
ストを周囲に証ししていくべきかが示されています。
@肉の欲を遠ざけ、良きわざに励む
私たちはイエス様を信じてキリスト者とされ、「私たちの
国籍は天に」(ピリピ3:20)あります。しかしこの世にあって
は、天へ向かう「旅人であり、寄留者」です。
しかし、この世の欲は私たちのたましいに戦いを挑み、
天へ向かう旅から引き離そうとします。この世の欲に打ち
勝つ道は、積極的にそれらを「遠ざける」ことです。
そして私たちには「立派なふるまい」、すなわち「良き
わざ」に励んで、周囲の人々が神をあがめるようにする
役割が与えられています。
A主のゆえに社会の制度に進んで従う
私たちはこの世にあっては良き市民・良き国民として
進んで「主のゆえに」人の立てた社会の制度に従います。
「主のゆえ」とは、まず「主に反しない限り」、つまり
「聖書に反しない限り」という意味であり、次に「存在して
いる権威はすべて、神によって立てられたもの」(ローマ
13:1)だからです。
神は人間社会の秩序を保つために、王を立てられ
ました。今日の日本では総理大臣が相当します。その
背後におられる「主のゆえ」に、王を敬わなければなり
ません。そして善を行って、まだ神を知らず批判してくる
人の口を封じなければなりません。
Bキリストにある自由人としてこの世の主人に従う
キリスト者は罪の奴隷からイエス様の十字架によって
買い戻され、自由を与えられた者です。その自由とは
「仕える自由」です。いやいやながらではなく、喜んで
神に従う「神の奴隷」とされました。私たちはこの「仕える
自由を与えられた自由人」として、自発的に「この世の
主人」に従うのです。
Cキリストの模範と十字架による救い
横暴な主人に対しても、「善を行い、それでも苦しみ、
耐え忍ぶ」なら神に喜ばれることです。「あなたがたが
召されたのは、実にそのため」・・私たちがキリストの
模範に従って生活することによって、キリストが証しされ、
ほかの人々を十字架による救いに導くことにつながる
のです。
8月24日聖日伝道礼拝
払っても惜しくはないほどの価値があることを示されました。
それはまた、私たちに天国という宝を手に入れるため
には、どんなものでも捨てる覚悟が必要だと決心を迫って
います。
@畑に隠された宝のたとえ
当時、ユダヤでは戦争や盗賊の被害を避けるために、
宝を土の中に埋めて隠す風習がありました。しかし、
隠した本人が亡くなったり、避難先から帰って来なったり
する場合がありました。それを知らない人が、畑を耕して
いる時などに隠されていた宝を偶然見つけることがあり
ました。
すなわちこのたとえは、人の目にはまるで偶然のように
神の救いの恵みに与かる人のことを指しています。
測り知れないキリストによる救いという宝は、聖書という
畑の中に隠されています。
A良い真珠を捜している商人のたとえ
ユダヤの商人は良い真珠を求めて、遠く旅して手に入れ
ました。このたとえは、熱心に神の救いを求めて救いに
与かる人のことを指しています。
以上@Aのいずれにしても、イエス様による救いの
恵みは、この世の全財産にまさる価値があるのです。
すでに神の側で、私たち一人一人を「価値あり」として贖う
(罪の奴隷から買い戻す)ために、イエス・キリストを代価
として十字架上で支払って下さったのです。
B地引網のたとえ
地引網とは人をイエス様による救いへと導く、福音宣教の
ことです。これは世の終わりまで、網が一杯になるまで続け
られます。そして最後に、何が良いか悪いか神が選別される
のです。
永遠に残るもの、いつまでも価値のあるものは、神の救い
であり天国なのです。
C学者とされた者の責任
学者とは、イエス様を信じてその弟子となった人のこと
です。その人は、まるで一家の主人が倉から何でも取り
出すように、天の御国についての知識を豊かに持つ者
とされます。
イエス様は「学者」という言葉を、当時の律法学者
(旧約聖書の専門家)と比べるために使われました。
律法学者は古いものに固執するあまりイエス様の教え
を拒否しました。しかし、イエス様の弟子とされた人は、
天の御国の奥義を教えられ、律法学者よりもすぐれた
「学者」とされたのです。
それは同時に天の御国に入るまで師であるイエス様
から学び続けなければならないことを指しています。
そして学んだことを、他の人にも必要に応じて取り出し、
提供しなければならない責任があるのです。
8月17日聖日礼拝
使徒パウロはこの手紙をエペソ教会の監督をしていた
弟子のテモテに書き送りました。エペソ教会の人々は、
異教徒に囲まれ、「祈り」の対象はせいぜい自分たちの
関係者くらいに考えていたのかもしれません。
しかし、神はパウロを通して「すべての人のために
・・願い、祈り、とりなし、感謝が捧げられるようにしなさい」
(1節)と勧めました。
自分の好きな相手だけでなく、自分にとって敵だったり
嫌いな相手のためにも祈るべきです。実際に、教会では
「未信者」と呼ばれる多くの人々によって、私たちが支え
れられている部分も多いのです。謙遜になって、「感謝」
を忘れてはなりません。
次に、「王とすべての高い地位にある人たちのために」
(1節)祈るよう勧められています。エペソ教会の人々に
とって、「王」とはローマ皇帝を指しました。皇帝を神と
して礼拝しないことを理由に、時として迫害してくる相手
でもありました。
しかし、人の目には悪い王であっても、すべての王
(為政者)は神の許しのもとで立てられています(ローマ
13:1-3)。自分にとって悪い王とであっても、国や国民の
ために働き、社会の秩序が保たれるなど様々な恩恵を
実際に受けているのです。為政者が神を恐れ、神の
恵みを頂いて神のみこころにかなう良い政治ができる
よう祈るべきです。
A個人の平安と社会の平和のために
こうした祈りの目的は、「私たちが敬虔に、また、威厳
をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(2節)
「そうすることは、私たちの救い主である神の前において
良いことであり、喜ばれることなのです。」(3節)
「キリスト者の平安」は「社会の平和」を意味します。
使徒パウロがローマ世界で福音を宣べ伝えることができ
たのは、平和で安全な旅行が保証されていたからです。
B神の望みはすべての人の救い
「神はすべての人が救われて、真理を知るようになる
のを望んでおられます。」(4節)
私たちも「あの人たちは決して救われない」などと偏狭的
な考えにならず、すべての人が救われるよう祈ります。
「真理」とはイエス・キリストのことです。
C神の真理
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一
であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(5節)
真理はいつも単純・明快です。
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、(十字架
上で)ご自身をお与えになりました。」(6節)「贖い」とは
奴隷の身代金のことです。私たちは罪の奴隷でしたが、
イエス様は十字架で身代わりとなって、私たちを救い
出して下さったのです。
8月10日聖日礼拝
8月3日聖日礼拝
主の御名を賛美いたします。父の勤務していた立川
飛行場がアメリカ軍の標的になり、悪夢のような生活が
始まります。空襲警報のサイレンとともに防空壕に避難
します。物置の下に穴を掘っただけのものです。
爆弾で体が宙に浮きます。一部屋位の穴が開き、親子
が抱き合って亡くなっています。毎日のように目の前を
担架で運ばれて行きます。明日はわが身か恐怖におの
のく日々でした。
疎開先の母の実家はすでに見ず知らずの家族が居て、
蚕を飼っていた中2階を住み家にしました。おじが前山に
登り、東京が燃えているぞと叫んでいます。
今その前山に大学が建ち、多くの若者が学んでいます。
そこで一首
防空壕に重なり合って
避難した当時が浮かぶ
戦時下の子ら
住家があって、家族が居て、食べ物もある、夢の様な
生活。神様に感謝します。
メッセージ要旨
イエス様は私たちを罪に縛られる生活から自由に
され、神の国に加わる具体的な道が示されました。
私たちがイエス様の恵みの呼びかけを実行する時、
神の国はすでに自分の中で実現していることを経験
します。
@神との平和を実現した人
平和(ヘブル語でシャローム)の根源は神にあります。
神はイエス様を平和をつくる者として地上に遣わされ
ました。この平和は、私たちがイエス様の十字架に
よって罪が赦されて神との関係が正しくされることに
よって実現します。それは単に争いがないことではなく、
イエス様が共にいて下さることによって、たましいも
心も体もあらゆる面が満ち足りている状態を指します。
現在の世界ではこの平和はまだ完全ではありません
が、イエス様が再び来られる世の終わりには完全に
実現することが約束されています。
A他人のために平和を実現する人
イエス様によって神との平和を得た人は、イエス様に
倣って自分の周りに平和をつくることが求められて
います。イエス様は敵を愛し、敵のために祈り、罪を赦し、
人と人との間をとりなし、食事を共にし、言葉を交わされ、
十字架に掛かられました。それはこの世の損得の基準
では割に合わないことでした。私たちも他人のために
平和を実現しようとする時、イエス様の通られた苦難と
愛の労苦を覚悟しなければなりません。
B神の子どもとされる
イエス様に従って平和をつくり出す人は、神の恵みの
わざに加わることであり、「神の子ども」と呼ばれます。
これは「神に属する者」を表わし、そこから「神の性質を
持つ者」という意味を持ちます。
7月27日聖日伝道礼拝
近づきます。取税人や罪人(つみびと)がそうでした。
イエス様はこうした人々を喜んで受け入れ、共に食事を
されました。
@見つかった1匹の羊のたとえ
羊は聴力は良いが、近視眼で方向感覚が弱いので
迷いやすい動物です。防御の武器を持っておらず、
群れから離れて飼い主である羊飼いの保護を離れれば、
オオカミなどの野獣に襲われたり、谷に転落するなど
死が待っています。
飼い主のもとを離れていなくなった「1匹の羊」は、
神のみもとから迷い出た私たち人間の姿とその結末を
示しているのです。
飼い主は持っている100匹に名前を付けて大事に
します。そのうちの1匹がいなくなったら、残りの99匹を
残して捜し回ります。
その1匹はほかの羊で埋め合わせることができない
のです。そして、飼い主である羊飼いは、大切な羊を
野獣から守るために、自分のいのちを失うこともあった
そうです。
このことは、この地上にどれほど沢山の人間がいよう
とも、神の愛は分割されず、一人一人に100%の愛を
注いておられることを示しています。私たちの飼い主で
あるイエス様は、迷い出た私たちを救うために、十字架
でいのちをお捨てになられたのです。
それはこの世の基準では、割に合わない損で愚かな
ことです。しかし、人の目には割に合わず愚かな愛の
中からでなければ、神の救いのみわざは実現しなかった
のです。
「99匹の正しい人」(7節)とは自分の罪を認めず、悔い改めようとしないパリサイ人や律法学者のことです。彼らもイエス様にとっては「いなくなった羊」なのです。一人の罪人が悔い改めるならば、天に喜びがあるのです。
A見つかった銀貨1枚のたとえ
女の人が持っていた「10枚の銀貨」は、貧しい女性が
結婚の時に、新郎の家からもらう結納(贈り物)です。
10枚をつないで首飾りのようにしていました。1枚でも
無くしたら大変なことでした。当時、一般の家ではほと
んど窓が無く、昼間でも物を捜すには灯りが必要でした。
無くなった「1枚の銀貨」は、神のもとから失われた
私たちを表わしています。聖霊の灯りで罪に覆われた
心を照らして頂き、神に見つけて頂いた時に、本来の
価値を発揮できるのです。私たちの持ち主である神は、
私たちが見つかるまで熱心に捜し求めておられます。
しかし、私たちが神に見つけられた時、すなわち罪を
悔い改めて神に立ち帰ったとき、天では神の御使い
たちに喜びがわき起こるのです。
7月20日聖日礼拝
ました。先ぶれの男が「そら、花婿だ。迎えに出よ」と言うと、
花嫁の友人たちがともしびを持って花婿を出迎えたのです。
それから花婿と花嫁は招待客と一緒に行列を作って花婿の
父の家に行き、そこで婚礼が始まったのです。
イエス様はご自分が再びこの地上に来られる「再臨」の時を
婚礼にたとえました。このたとえでは、花婿はイエス様、花嫁は
教会、10人の娘はクリスチャン、ともしびは信仰、油は聖霊を
表わしています。
@愚かな娘たちと賢い娘たち
愚かな娘たち5人は「ともしびは持っていたが、油を用意して
いなかった」のです。これはイエス様に救われ、信仰は持って
いたが、神様とお交わりしていなかったため、信仰のともしびを
燃やし続ける聖霊の油が無くなったことを表わしています。彼女
たちは普段からイエス様にお会いする準備をしていなかったのです。
一方、賢い娘たち5人は「自分のともしびといっしょに、入れ物
に油を入れて持っていた」のです。彼女たちは普段から神様と
お交わりして聖霊の油を頂き、イエス様にお会いできる準備を
していたのです。この聖霊の油は、他の人に分けてあげることが
できません。
A夜になって来た花婿と迎えた娘たち
何と花婿は夜中になって来ました。実際、結婚式の準備に
時間が掛かると、花婿が、真夜中になって来ることがあったそう
です。
花婿であるイエス様は「来るのが遅れた」のです。娘たちは
思っていたよりも花婿が遅かったので、「みな、うとうとして眠り
始めた」のです。
このことは、イエス様が私たちが一人も滅びるのを望まず、
忍耐をもってこの地上に来るのを遅らせていることを示しています。
世界中が闇に覆われ、暗くなってから突然イエス様は来られる
のです。
花婿であるイエス様をお迎えできる条件は、「ともしびを持って
いる」ことです。その人は婚礼に招かれます。信仰のともしびを
灯している人は、天国の宴会に招待されるのです。
B信仰の目を覚まして準備をしておく
「目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らない
からです」
私たちはいつ神様から「あなたの地上生涯そこまで」と声を掛け
られるか分かりません。それゆえ、いつでも直接イエス様にお会い
できるよう備えをして歩んで参りましょう。
7月13日聖日礼拝
何が頂けますか」とイエス様に質問しました。
それに対し、イエス様は「天の御国でではその幾倍も受け、
永遠のいのちが与えられる」と答えました。そして「先の者があと
になり、あとの者が先になることが多い」と言われました。
それに続いてイエス様はぶどう園の労務者のたとえ話をされ
ました。「ぶどう園」は教会、「労務者」はクリスチャン、「主人」は
神、「監督」はキリストをそれぞれ表わします。
当時、ユダヤでは日雇い労働者たちの労働時間は朝6時〜夕方
6時でした。賃金は1日1デナリです。ぶどう園の主人は朝6時、9時、
・・・に労務者を雇います。これは私たちがそれぞれ神に召される
(救われる)時期を表わしています。作業時間の終わる夕方6時に
なったので、主人は監督に命じて賃金を払います。ところが、監督
は最後の夕方5時ごろに雇われた者たちから賃金を1デナリずつ
払います。
@神の恵みに頼る者
遅くなって雇われた者ほど、雇い主の恵みに感謝して謙遜になり、
短い時間を一生懸命働くものです。雇い主である主人はその働き
ぶりを見て、相場以上の賃金を与えました。
このことは、神が私たちの働きの時間や量ではなく、心をご覧に
なっている(Tサムエル16:7)ことを示しています。
神が私たちに与えるのは、働きに応じた賃金ではなく、贈り物で
ある豊かな「恵み」なのです。
A自分の行いに頼る者
しかし、最初の6時から働いた者たちは、賃金が1デナリと同じ
だったので、主人に文句をつけます。
彼らの姿は、早く救われ神のために働くこと(教会生活をすること)
は恵みであるのに、いつの間にかそれが報酬を受け取るための
義務になってしまう姿勢を指します。すると喜びは消えて辛いだけに
なってしまうのです。自分の行いに頼る時、高ぶりと不平不満が
出てくるのです。
B神の恵み
神は救いの早い遅いに関わらず、「(恵みを)同じだけ上げたい」、
「わたしは気前がいい」と言われます。神の恵みには限りなく、
それを自由な裁量で与えになられるのです。
7月6日聖日礼拝
イエス様はパリサイ人シモンの招きに応じ、彼の家で食卓に
着かれました。すると、罪深い女がイエス様の足もとに近寄り、
涙で足をぬらし、髪の毛でぬぐい、その足に口づけし、香油を
塗ったのです。
彼女はイエス様の前に自分がどんな者であるかを自覚して
いました。しかし、彼女は罪の赦しを求めてイエス様の所へ来た
のではありません。彼女は直接あるいは人づてにイエス様の福音
を聞いてイエス様を信じ、罪の赦しと救いが与えられたことを確信
していたのです。彼女は過去の罪を深く悲しむと共に、罪の赦しの
感謝と救いの喜びを身をもって表わしたのです。
なお、彼女が髪の毛でイエス様の足を拭うのは、自分の歩みを
イエス様に捧げて、従って行くことを表わしています。香油を塗る
のは、イエス様に対する尊敬と礼拝を表わしています。
A多く赦される者はよけい愛する
イエス様はシモンにたとえ話をします。金貸しからふたりの者が
金を借りていたというのです。金貸しとはイエス様のことです。
シモンを「500デナリ(1デナリは労働者の一日分の日当)」借金
のある者に。罪深い女を「50デナリ」借金のある者にたとえました。
この「500」「50」という金額は、罪が多い少ないということではあり
ません。本人たちが、どれだけ自分の罪を認識しているかを
指しています。
しかし、シモンは自分の罪の自覚が薄く「あの女は重い罪人だ。
俺は違う」と心の中で見下げ、イエス様を少ししか愛しませんで
した。
一方、彼女はイエス様から多くの罪を赦して頂いたことを感謝し、
よけいにイエス様を愛したのです。
イエス様はこのたとえ話を通して、シモンにイエス様による罪の
赦しが必要としていることに気づかせ、救おうとされたのです。
同じように、私たちもみなイエス様の前には罪人であり、十字架
による罪の赦しと救いを必要としているのです。
イエス様は罪深い女に「あなたの信仰があなたを救った」(50節)
と救いの確信を与え、「安心して行きなさい」(50節)と今後の歩み
の平安を約束されました。現代でもイエス様を信じると、心とたま
しいに平安が与えられるのです。
6月29日聖日礼拝
これは天国に至る門、つまりイエス・キリストのことです。
(ヨハネ10:9)
多くの人が応募する受験や就職試験のことではありません。
むしろ多くの人々が見向きもしない門です。この門は罪があるまま
では通ることができません。それゆえ、イエス様が私たちの罪の
身代わりに十字架に掛かって死んで下さり、罪が赦されて天国
へ行けるよう招いて下さっています。
しかし、多くの人は自分の罪が明らかにされ、悔い改めるのを
嫌がってここから入ろうとしないのです。イエス様は1人も滅びるの
を望まず、すべての人に門を開いているのですが、私たち人間の
側で門を狭くしているのです。
また、この門に至るまでの道には試練と困難があり、窮屈で
不自由そうに見えます。しかし、ここに真理と自由があり、
永遠のいのちに至る門なのです。
A大きい門
これは滅びに至る門のことです。自分の力で幸せになろう、
天国へ行こうとする生き方です。多くの人々が、まるで楽で安全
そうに見えるこの門を目指すのですが、これは真理ではないのです。
この門のたとえ話は、すべての人が必ず門を通らねばらない
ことを示しています。その門とは、私たちが地上の人生を終えた
後に待ち構えている神のさばきの門であり、人生の審査が行わ
れます。しかし、生きているうちにイエス様を信じた人は、十字架
によってすでに罪がさばかれたので、この門での裁きは免除され
るのです。(ヨハネ3:18)
B実によって見分ける
当時は人を惑わす多くの偽預言者が広い通りで活動し、人々が
狭い門に入るのを妨げていました。今も神やキリストの名をかたる
偽預言者が世界中で活動しています。
彼らの真偽はその実、すなわち彼らの行いや生き方によって
見分けることができます。私たちも神のみことばから脱線しない
よう自戒し、神のみこころと自分の歩みが一致することを生涯
求めて参りましょう。
6月22日聖日伝道礼拝
伝道礼拝は、教会は初めての方や初心者の方向けの
内容になります。
1)不意に襲って来る人生の試練
2)終末における神の審判
「家」は私たちの人生のことです。
@岩の上に自分の家を建てるとは
イエス様のみことばを聞いて、それを実際に行う人のことです。
その人はイエス様の目には「賢い人」です。なぜならイエス様を
信じ、聞き従っているからです。
岩の上に建てられた家はどのような嵐にも耐えて立ち続けます。
同じように私たちも、岩であるイエス様のみことばの上に自分の
人生を建て上げなければなりません
家の真価は、嵐に遭って明らかになります。私たちの人生も
試練に遭った時、本当に価値あるもの、永遠に続くものが明らか
になるのです。
A砂の上に家を建てるとは
イエス様のみことばを聞いても、それを実際に行わない人の
ことです。せっかくイエス様がことばをかけて下さっているのに、
自分の人生からイエス様を除外し、関係を持とうとしないからです。
イエス様は私たちを罪の滅びから救い、永遠のいのちを与える
ために地上に来られたのに、そのみことばを無視することは救い
を拒むことになるのです。
砂の上に建てた家は、どんなに立派であっても、嵐に遭うと
完全に崩れ去ってしまいます。これは「自分には嵐は来ない」、
「生きている間は大丈夫だろう」と、人生の見通しを甘く考えて
しまうことを指しています。
すべての人は地上の生涯を終えた後、必ず嵐に遭うことが
定められています。それは人生のすべてを審査する神の審判で
あり、究極的な嵐なのです。
しかし、イエス様のみことばに聞き従う人には素晴らしい祝福が
約束されています。「私たちの住まいである地上の幕屋(テント:
私たちの肉体)がこわれても、神の下さる建物があることを、
私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある
永遠の家です。」(Uコリント5:1)
6月15日聖日礼拝
神、「2人の息子」は全人類を表わしています。そして私たちの内側
に、この2人の性質が備わっているのです。
@失われた弟
弟は直接的には取税人や罪びとたちを指します。弟の姿は、
父のもとで何不自由なく生きることが「束縛」と考え、父から離れる
ことが自由だと考えてしまう、私たちの人間の心を表わしています。
弟は父から離れた国で、父から頂いた財産を使い果してしまい
ます。すると彼は飢餓に見舞われます。このことは、人は神から
離れて自分の人生を使い切ってしまうなら、そのたましいは飢え
渇いてしまうことを指しています。
父にとって弟は、いなくなって失われ、まるで死んでいたのと同じ
なのです。
それは父なる神に罪を犯し、神のみもとから迷い出てしまった
私たちの姿なのです。
A弟の立ち帰りと父の喜び
弟は財産も友達も失い、奴隷の仕事であった豚の世話をします。
その時、我に返り彼は父の家へ立ち帰ります。
その弟を迎える父の姿は、私たちが神に立ち帰って来るのを今か
今かと待つ神の愛と喜びを表わしています。
この愛こそ、「あなたの子と呼ばれる資格はない」私たちへの
神の愛(アガペー)を表わしているのです。
B失われている兄への父の愛
兄は直接的には宗教エリートであり自称義人であったパリサイ
人や律法学者を指します。兄は父の弟に対する寛大な態度に
怒ります。彼は自分は正しいと思い、弟を見下していました。
彼はいやいや父に仕え、その心は父から離れていました。父の
家にありながら、彼もまた弟と同じく、「失われた息子」だったの
です。
しかし、父にとっては兄も弟も大事な息子であり、一貫して愛と
真実を持って接しています。これは神の私たちに対する姿勢を
示しています。
C十字架による罪の赦しと和解
神に対する私たちの罪はイエス・キリストの十字架を信じること
によって赦され、和解し、親しい交わりが回復されます。それだけ
でなく、人間同士も和解させ、キリストにあって一つとされるのです。
6月8日ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝
の」という意味です。イエス・キリストの復活から数えて50日目に
聖霊がくだったことから、この日をペンテコステあるいは聖霊降臨日
と呼ばれ、教会が誕生した日です。
神の霊である聖霊は「風」や「炎」、「舌」にたとえられています。
@「風」が象徴するもの (2節)
「風」には「息」の意味もあり、「神の霊」を表わしています。
「激しい風が吹いてくるような」とは、神が人にいのちを与え、力ある
お方であることを象徴しています。
神は人にいのちの息を吹き込み、またいのちの息を引き取ら
れるお方です。
A「炎と舌」が象徴するもの (3節)
「炎」は【1】神の臨在、【2】人間の罪を焼き尽くし、心をきよめる
火、【3】愛(神の愛であるアガペー)を表わします。
「舌」には「言語」の意味もあります。神のことばを語る神の舌を
象徴しています。
B聖霊で満たされ他国のことばで (4節)
聖霊を注がれた人たちは「聖霊に満たされ・・・他国のことばで
話しだした」のです。これはやがて全世界の人々が自分の言語で
神の救いのことばであるイエス様の福音を聞く日が来ることを象徴
しています。
聖霊を注がれた人は誰でも、相手がイエス様の福音を理解できる
ことばを語ることができるのです。
C世の終わりまで救いの門が開かれている (21節)
イエス様が再び目に見える形でこの世に来る前に、天変地異や
民族同士の戦争、疫病などが予告されています。
しかし、たとえ困難な時代にあっても、「主の名を呼ぶ者は、みな
救われる」と約束されている通り、救いの門が開かれているのです。
6月1日聖日礼拝
「バプテスマ」とは、とは「全身を水に沈める」という言葉に由来します。
それは今まで神を無視して神に敵対して来た自分の罪を悔い改め、
古い自分に死んで神に従って新しい自分に生まれ変わるしるしとして行われました。
それに対し、聖霊のバプテスマは、イエス様を信じる決心をした
者に神から霊である聖霊が下り、新しいいのちに生かされることを
表わします。
復活されたイエス様は「父の約束を待ちなさい」と弟子たちに
言われました。父なる神の約束を祈って待つことが、私たち人間の
できる最大の準備です。
A復活のキリストを証しする力
聖霊のバプテスマを受けると、死から復活されたキリストを証し
する力が与えられます。この「力」とは具体的には、イエス様の福音
を正しく理解し、敵さえも愛する力です。
この証しはすべてのキリスト者の役割です。その働きはイエス様が
目に見える形で「またおいでになる」時まで続くのです。
B心を合わせて祈る
弟子たち120名は「みな心を合わせ、祈りに専念していた」と記され
ています。彼らは自分たちの思いが、イエス様のみこころと一致する
ために祈りました。私たちの願い以上に、イエス様の側では最も良い
道と祝福を先々まで用意しておられるからです。
それゆえ、現代の私たちも「みこころの天になるごとく、地にもなさせ
たまえ」と毎週礼拝でも祈っています。
この後、聖霊が注がれて教会が誕生します。教会はキリストを
かしらとする一つのからだです。そしてキリスト者一人一人はその
各器官で、聖霊の働きによって一つのからだとされます。
私たちは「教会」というと、目に見える建物や集会に注目しがち
です。しかし、神が計画された教会は、時代や民族、距離を越えて
キリストを信じる者がキリストにあって一つとされる霊的な教会です。
地上の教会はそのひな型です。神はこの教会の働きを通し、世の
終わりに神の国が実現し、まことの教会が完成するのです。
(黙示録21章)
5月25日聖日伝道礼拝
に「ラザロは眠っています。わたしは彼を眠りからさましにいくの
です」と言われました。ところが、弟子たちはラザロが体を休めて
眠っているものだと思いました。
さらにイエス様が「彼のところへ行きましょう」と言われたことに
対し、弟子のトマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうでは
ないか」と言いました。
このようにイエス様は永遠のいのちと魂のことについて語られ
ました。一方、弟子たちはこの地上のいのちと肉体のことを語って
います。
@イエス様こそよみがえりであり、永遠のいのちを与える方
「わたしはよみがえりです。いのちです」
この後、イエス様はラザロを死からよみがえらせます。しかし、
これはまだよみがえりのひな型に過ぎませんでした。やがて
イエス様ご自身が私たち全人類の罪を背負って十字架で死なれ、
三日目に死人のうちよりよみがえられました。その体はラザロとは
違い、死ぬことのない栄光のからだ(復活の体)でした。
神のみこころは私たちが今の肉体でこの地上に永遠に生き続ける
ことではなく、イエス様を信じる者がみな永遠のいのちを持ち、世の
終わりの日に栄光のからだを与えられてよみがえることだからです。
(ヨハネ6:40参照)
Aイエス様を信じる者は肉体が死んでも、もっと良い世界に生き続ける
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」
イエス様を信じるならば、肉体が死んでもその魂は生き続けるだけ
でなく、今のこの世界よりもはるかに良い世界に行くことが約束されて
います。
Bイエス様を信じる者はすでに永遠のいのちが始まっている
「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
そのことを信じますか」
イエス様を信じる者は、すでに永遠のいのちが始まっている
のです。イエス様は私たちにとって最大の問題であり、解決不可能な
死の問題を解決し、その呪いから救い出して下さいました。
それならば、私たちの抱える他の問題も必ず解決して下さいます。
イエス様は永遠の視点で私たちを導き、先回りして問題を解決して
下さるのです。
5月18日聖日礼拝
弟子のペテロは、イエス様が十字架に掛かられる前、三度イエス様を
「知らない」と言って逃げてしまいました。今度は復活されたイエス様
から、三度「わたしを愛しますか」と問われました。
イエス様は二度「アガペー」で問い、三度目に「フィレオー」で問われ
ました。それに対して、ペテロは三度とも「フィレオー」で答えています。
「アガペー」は神の愛、価値なき者への愛を表わします。「フィレオー」
は友愛、信頼、きずなを表わします。
ペテロはこの失敗から謙遜になっており、イエス様に「私には
アガペーはありません。フィレオーで精一杯なのは、イエス様ご自身が
よくご存じの通りです」と答えました。
それに対し、イエス様はへりくだりの愛を表わされました。三度目
の問いで、ペテロと同じ「フィレオー」を使って、ペテロと同じ目線、
ペテロの友となられたのです。
イエス様はあえてペテロに自分に頼る失敗を経験させて謙遜にし、
イエス様に頼る者とされたのです。
A主の愛に支えられて人に仕える
イエス様がペテロに望まれたのは、自分の力に頼っていのちを
捨てることでも、人と比べて一番堅い信仰を持つことでもありません
でした。イエス様の愛に支えられて、人に仕えることでした。ペテロは
やがて多くのクリスチャンの群れを導くリーダーになっていきます。
イエス様は私たち一人一人にも、神の愛に支えられて互いに仕え
合うことを命じておられます。
B主の愛に支えられて主に従い通す
ペテロにとってイエス様に従うことは、投獄と殉教の死を意味
しました。これは強制ではなく、イエス様の愛に支えられた、自由で
自活的な服従でした。後に彼の死によって神の栄光が現わされます。
私たち一人一人もイエス様によってこの世から召し出されて救われ
それぞれに尊い役割が与えられています。
私たちもイエス様の弟子として苦難を経験し、いずれは肉体の
死を経験しなければなりません。しかし、その死を通しても神の
栄光が現わされます。そして私たちは天の御国で神の永遠の
栄光に与かるのです。
5月11日聖日礼拝
弟子たちは、イエス様がいなくなり、がっかりして郷里のテベリヤ
(ガリラヤ)湖で漁をしていました。しかし、この湖を知り尽くしている
彼らが夜通し働いても小魚1匹獲れませんでした。このことは人間
の経験や知識、努力では、人のたましいを捕らえる(救う)ことは
できないことを示しています。
約3年前、イエス様はこの湖で彼らにこう言って召し出しました。
「わたしについて来なさい。あなたがたを人間を獲る漁師にしよう」
イエス様はもう一度彼らに同じ経験をさせて、再度召し出したのです。
夜が明けそめた時、復活のイエス様は岸辺に立ち、弟子たちに命じ
ました。
「舟の右側に網をおろしなさい」
「右側」とは「神の側」という意味。そして「神の言われる通りに
聞き従いなさい」とも受け取れます。
弟子たちはその声の主がイエス様だと分からなかったのですが、
そのことばにすぐ聞き従って網をおろしました。すると、おびただ
しい魚が網にかかったのです。
このことは、私たちも神の側(みことば)に自分の歩みを委ねて
いくなら、必ず良い実を結ぶことができることを示しています。
Aあらかじめ必要を備えてくださる神
弟子たちは疲れてお腹を空かせていました。イエス様は彼らに
「子どもたちよ。食べるものがありませんね」と声をかけます。彼らが
陸に上がった時、そこにはすでに炭火とその上に載せた魚とパンが
用意されていました。このことは、たましいを救う働きをしていく時に、
必要も必ず満たされることを示しています。
同じように、イエス様は現代の私たちの必要をよくご存じで、
先回りして必要を満たして下さるのです。
そして「あながたの今とった魚を幾匹か持って来なさい」と、私たちが
労して得た収穫の一部を味わい、それを喜ぶ恵みをも備えていて
下さるのです。
5月4日聖日礼拝
イエス様が復活されたその日曜日、二人の弟子が、エルサレム
から11キロ離れたエマオと言う村へ歩いて向かっていました。
二人はイエス様の十字架の死から今朝の復活までの出来事を
話し合っていました。
すると、いつの間にか復活されたイエス様が近づいて来て、
二人と会話をしたが、二人はそれがイエス様だとはわかりません
でした。二人はイエス様の復活の事実を弟子仲間の女性たちから
聞いても信じられず、それをそのままイエス様に話しました。
すると、イエス様は聖書全体の中で、ご自身についてある事がら
を彼らに説き明かされたのです。このことは、イエス様は私たちが
イエス様を信じる前から共に歩んでくださることを表わしています。
そして、その人の求める度合いや目線に合わせ聖書を説き明か
して救いへ導いて下さるのです。
A私たちの霊の目(信仰の目)を開かれるイエス様
二人の弟子はイエス様に「いっしょにお泊まりください」と無理に
願いました。復活のイエス様に出会うためにはこの求めが必要です。
イエス様は彼らの求めに応じて、家に入り食卓に着かれると、
「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された」のです。
イエス様はパンを裂くしぐさを通して、彼らの霊の目(信仰の目)を
開いてくださいました。彼らはイエス様が生きておられ、共におら
れることを知りました。
この出来事は彼らにイエス様の最後の晩餐を思い起させました。
これ以降、教会はイエス様の十字架と復活を覚えて、パンとぶどう
酒を頂く聖餐式を守り行って来ました。
これは私たちがこの地上生涯を終えた後、神の国でイエス様と
共にパンとぶどう酒を共に頂くことのひな型です。
復活されたイエス様は、現われたり消えたりと、物質や空間、
時間には束縛されず自由でした。これは世の終わりに、私たちに
与えられる栄光(復活)のからだを表わしています。
4月27日聖日伝道礼拝
日曜日にイエス様が復活されて弟子たちに姿を現わされた時、
そこにトマスはいませんでした。彼は他の弟子たちから「私たちは
主(復活されたイエス様)を見た」(25節)と告げられても、信じられ
ませんでした。
トマスは「私はその(イエス様の)手に釘の跡を見、私の指を釘の
ところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、
決して信じません」(25節)と言いました。しかし、彼はイエス様に
お会いすることをあきらめず求め続けました。彼は信じる者たちの
集いの中にふみとどまりました。このことが後に、彼に大きな恵みを
もたらすことになります。
現代でも、最初は分からなくても礼拝や集会に出続けるならば、
やがて神からの大いなる救いの恵みがもたらされるのです。
A見ずに信じる者は幸い
イエス様は次の日曜日にも現われて下さり、トマスに「あなたの
指をここにつけて・・・信じる者になりなさい」(27節)と言われました。
イエス様はトマスのことばを聞いておられ、それを引用して言われ
たのです。
イエス様はトマスと自分と同じ目線にまでへりくだり、愛の招きの
ことばをかけて下さいました。するとトマスは、「私の主、私の神」
(28節)と告白しました。
今日もイエス様は私たち一人一人と個人的な救いの関係を持ち
たいとお働きになっておられます。私たちが見たり、触ったりする
ことではなく、イエス様のみことばを聞いて信じ、救われるよう導か
れるのです。
Bイエスの名によって永遠のいのちを得る
本書が書かれた目的は、イエス様が救い主であることを私たち
が信じ、イエス様の名によって永遠のいのちを得るためです。
4月20日イースター(復活節)礼拝
マグダラのマリヤたちは、土曜日の日没後にイエス様のご遺体に
塗る香油を買っておきました。日曜日の日が上る前に墓に行こうと
準備しました。そしてちょうど日が上った時に墓に到着できるよう
時を見計らって家を出発しました。
やがて彼女たちがイエス様の復活を目撃し、人々へ伝えると
いう大事な役割を果たすことになります。
私たちもイエス様の復活された日曜の朝を普段から待ち望み、
準備する者でありたいと願います。マリヤたちのような段取りの
良さや周到な準備は、普段の実際生活で益をもたらすことになり
ます。
A神の先回り
マリヤたちは墓の入口を塞ぐ大きな石を取り除く手段を持たないで、
墓へやってきた。そこにはローマの兵隊が警護しており、死体を
盗まないよう見張っていました。
しかし、彼女たちはイエス様の復活を前もって聞いていたにも
関わらず、現実問題の"大きな石"のことを心配していました。
「ところが、目を上げて見ると」(4節)とあります。私たちも、
困難に直面した時、「神を見上げ」なければなりません。神が
脱出の道が用意されているからです。
「その石がすでに転がしてあった」(4節)
段取り・準備の良い彼女たち以上に、神が先回りして問題を解決し、
道を備えて下さっていたのです。
B復活と勝利の宣言
マリヤたちはイエス様のご遺体のない空っぽの墓に入りました。
神の御使い(天使)が既にそこにいて、彼女たちに言います。
「ここにはおられません。よみがえられたのです」(6節)
神はイエス様に全能の力を働かせ、死を打ち破って復活させました。
イエス様の復活は、私たちの罪が赦された証拠です。そして、私たち
の体もまた、世の終わりにイエス様にならって復活させて頂けることの
保証なのです。
私たちもイエス様の復活を信じると、死への根本的な恐怖が解決され、
この世の困難や命の危険を乗り越えていく勇気と力が与えられるのです。
4月13日聖日礼拝
はじめイエス様をののしっていた二人の強盗のうち一人は、
イエス様のとりなしの祈りに心が打たれました。
彼は罪の無いイエス様が全人類の罪の身代わりに十字架で死んで、
神のみもとに行こうとされているのを知らされたのです。
彼は心砕かれて謙遜になり、遠慮がちにイエス様の憐れみに
すがりました。
「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い
出して下さい」
Aイエス様による天国の約束
強盗の求めに対し、イエス様は即座にお応えになられました。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたはきょう、わたしとともに
パラダイスにいます」
「パラダイス」とは天国のことです。私たちが天国に行くためには、
この強盗のように、ただ自分の罪を悔い、イエス様の憐れみに
より頼むだけで良いのです。
B神にゆだねる
「神殿の幕は真っ二つに裂けた」とあります。これは神と人との
交わりを遮断していた「人間の罪」という幕が、イエス様によって
取り除かれたことを意味します。イエス様を信じる者は、だれでも
恐れることなく、大胆に神様の前に立ち、神とお交わり出来る
ようになったのです。
イエス様は最期に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と大声で
叫んで息を引き取られました。「ゆだねる」とは相手を全面的に
信頼して、主導権を明け渡すことです。
イエス様のこの言葉は、ユダヤ地方で親が子どもに教える
最初の祈りとも言われています。子どもは夜寝る時、親から神様
にお祈りするよう教えられ、自分のいのちを父なる神様におまかせ
して眠りました。イエス様はこの祈りをもって地上生涯を全うされたのです。
私たちもイエス様に倣って、日々神に自分をゆだねて、天国
への道を歩んで参りましょう。
4月6日聖日礼拝
イエス様は二人の強盗と共に十字架につけられました。二人の
強盗は自分の犯した強盗の罪で十字架につけられました。しかし、
イエス様は罪がないのに十字架につけられたのです。
聖書では「罪」とは、人の物を盗んだり、人を傷つけたりといった
実際の行い以前に、「ハマルティア:的外れ」という言葉で表わして
います。人は生まれながらに、神との関係が的外れなので、親から
教えられなくても、罪の行いをするようになるのです。
イエス様の罪状は「自分を神と等しくしたこと」、つまり神と自称した
ことでした。しかし、これは真実であり、神の前に全く正しいことでした。
罪なきお方が、まるで重犯罪人のように十字架にかけられる。これ
こそ、私たちの罪の身代わりであり、罪の滅びから救い出すための
死なのです。
A十字架上のとりなしの祈り
イエス様は十字架上でこう祈られました。「父よ。彼らをお赦し
ください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
「彼ら」とは私たちを含めて、すべての人のことです。十字架の
死を目の前にして、私たちのために愛に満ちたとりなしの祈りを
神にささげました。この言葉は私たち聞く者に悔い改め(神への
方向転換)を迫るものです。
Bご自分を救わなかったイエス様
イエス様は救い主でしたが、十字架から降りてご自分を救おうとは
しませんでした。私たちを罪の滅びから救い出すためです。
イエス様は私たちの罪の罰を一つも残さず、すべて引き受けて
下さったのです。その結果、イエス様を自分の罪からの救い主だと
信じる人は、罪が赦され、神と和解して関係が正され、永遠の
いのちと天国の約束が与えられるのです。
3月30日聖日礼拝
弟子たちは、イエス様に「お尋ねする必要がないことがわかり
ました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます」
と言いました。しかし、実際は彼らは何も分かっていませんでした。
「分かったから」信じるのではなく、まず「信じる」ことが大事です。
イエス様のことばは、心を虚しくして、まるで幼子のように素直に
信じ、謙遜になることによって分かるのです。
A神が共におられる
イエス様は「分かった」「信じます」と口にする弟子たちの弱さを
全てご存知でした。イエス様は彼らがこの後イエス様を捨てて
逃げ去ってしまうことを予告されました。
しかし、イエス様そんな彼らを愛し続けました。そして、たとい
人から捨てられても父なる神が共におられると語ります。これは、
やがてペンテコステ(聖霊降臨)の後に、クリスチャン一人一人に
実現するのです。
Bイエス様に従い行く者は世に勝つ
「あなたがたは、世にあっては患難がある。しかし、勇敢であり
なさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
イエス様の十字架は罪と死に対する決定的な勝利です。イエス様
の十字架の贖いの死、復活、そして聖霊の派遣によって世に勝利
されるのです。
弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ去ってしまったが、彼らは
その失敗を通してかええって真の望み、真の平安を得ることに
なります。
イエス様は、私たちが誰からも助けがないように思える時でも、
平安を与えて下さいます。なぜならイエス様が私たちと共にいて
下さるからです。
"もし死んだとしても父なる神のみもと(天国)に行ける"という確信
は、私たちに平安を与え、イエス様にように世に打ち勝つことが
出来るのです。
3月23日聖日伝道礼拝
最後の晩餐(夕食)の後、弟子たちに対する別れのメッセージです。
イエス様はこれから悪魔(サタン)と対決して、勝利するために
十字架に向かわれます。先行きの不安を覚える弟子たちに、
「あなたがたは心を騒がしてはならない。神を信じ、また私を信じ
なさい」と言われました。
これは現代の私たちに対することばでもあります。心騒がす
私たちを、偉大なお方が守り支えて下さっています。私たちは心の
騒がしさを祈ってイエス様にお委ねし、平安を得ることができる
のです。
続いてイエス様は「わたしの父の家には、住まいがたくさんあり
ます」と言われた。イエス様は弟子たちを慰め、励まし、その目を
天国に向けさせて、希望をお与えになりました。そこにあなた
がたは永遠に住むのだからと。
この後イエス様は私たちの罪を背負って十字架にかかられて
死に、三日目に死人の内よりよみがえって、天に上られる。
そして天に私たちの場所を備えたら、私たちを迎えに再びこの
地上に来て下さる。
それは私たちがこの地上での生涯を終える時、または世の
終わりにもう一度イエス様が来られる時です。
@イエス様は道
神への道は神ご自身が与えて下さるイエス様です。人が考え
たり、作り出した道ではありません。イエス様は、私たちを天の
父なる神のみもとに連れて行って下さるただ一つの道なのです。
Aイエス様は真理
イエス様は永遠の真理であり、変わることがありません。今ある
天地はやがて滅びますが、イエス様が語られたことばは決して
滅びることがないのです。
Bイエス様はいのち
私たち歩む道の最終的な目的地(ゴール)は天国において
永遠のいのちに与かることです。イエス様を信じる時に、その
人の生きる動機が死から逃れることではなく、永遠のいのちと
天国を目指すことに変わるのです。
3月16日聖日礼拝
イエス様は「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言わ
れました。「人の子」とは、救い主のことです。一般に「栄光」とは
勝利のしるしです。イエス様はご自身が死ぬことによって神の
栄光を受けると予告さました。これはこの世の考え方とは正反対
です。
イエス様は私たちを罪の滅びから救い、永遠のいのちを与える
ために「一粒の麦」となって死ぬ決意をされました。
私たちもイエス様の弟子として一粒の麦となる時があり、また
そうならざるを得ない時があります。しかし、イエス様を通して頂い
た神の愛ゆえに、自分を虚しくして相手のために愛の労を負う時、
豊かな実が結ばれるのです。
A自己中心を神の前に捨てるなら永遠のいのちに至る
「自分のいのちを愛する」とは、自分の利益ばかりを求める自己
中心のことです。しかし、その生き方は、結局そのいのちすら失う
ことになります。
反対に、「(自分の)いのちを憎む」とは、何でも自分の思い通り
にしたいという自己中心を神の前に捨てて、自分の主導権を神に
明け渡すことです。そうすると自分の性質が変えられて、神に用い
られ、豊かな実を蒸すことが出来ます。
この世のいのちよりも大切な永遠のいのちがあることを知って、
この世のいのちにこだわらないでイエス様に従う者は、この世に
ありながら永遠のいのちが与えられるのです。
Bイエス様に従い、苦しみを共にする者は必ず報われる
「わたし(イエス様)についていく」とは、自分を第一としないで、
イエス様すなわち神を第一とすることです。イエス様に従い行く
者は必ず苦しみを通らなければなりません。それはイエス様と
共に、相手の益のために愛の労苦をすること。十字架を負うこと
なのです。
しかし、イエス様は共にその十字架を負って、私たちが耐えら
れるよう軽くして下さるのです。そのようにしてイエス様に従う者には
必ず神が報いて下さるのです。
3月9日聖日礼拝
イエス様は「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい」
(31節)と言われました。「あなたがた」とは12弟子たちだけでなく、
すべてのクリスチャンのことです。「神の国」とは「神のご支配」の
ことです。神が良き王として、そのみこころが完全になされるのが
神の国です。
つまり、「私たちの人生で第一に優先すべきことは、私たちの
すべてを神にご支配頂くことを求めなさい」、ということです。
さらに簡単に言えば、「神のみこころが私のすべてにおいてなさ
れることを求めて歩みなさい」です。
Aそうすれば神のご支配に加えて、生活に必要なものも与えられる
そうして歩んでいくなら、神のご支配に加えて必ず生活に必要な
ものは与えられるとイエス様は約束されました。
神は私たちの現実の生活を無視しておられるのではありません。
人間の父親ですあら、子どもの衣食の必要を知って、それを
満たしてあげようとします。ましてや天の父なる神は、私たちの
必要をよくご存知で、必ず必要を満たして下さるのです。
B主の励ましと天国の約束
イエス様は「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの
父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」
(32節)と言われました。
このみことばは現代の教会にも当てはまります。しかし、父なる
神は喜んで私たちに天国を与える保証をして下さっている、
だから恐れなくてよいと言うのです。
3月2日聖日礼拝
ここに護送されてくる際、彼は重装備をしたローマ兵によって
厳重に警護されました。パウロはローマ兵の武具の様子から、
クリスチャンもサタン(悪魔)との戦いに際し、神の武具をすべて
身に着けるよう書き送っています。
@真理の帯・・・神に対して正直な心
帯は全装備を引き締める働きをします。ただし、人間的な真理
ではサタンには通用しません。神の真理に与かるために、私たち
は神に対して正直な心を持つことです。
A正義の胸当て・・・イエス様による(正)義
私たち自身の正義ではなく、イエス様によって与えられた正義
です。イエス様が十字架上で血を流して私たちの罪を赦し、私
たちを(正)義として下さいました。
B平和の福音の備え・・・伝道の用意
足は機動力です。キリストが与えて下さる神との平和の福音を
いつでも伝道できるよう用意しておくことです。
C信仰の大楯・・・イエス様への信仰
サタンは私たちの心に汚れた思いや疑い、怒りや不安など
様々な火矢を投げ込んできます。しかし、イエス様への信仰と
いう大楯でそれを消すことができます。
D救いのかぶと・・・イエス様による救い
私たちのかしらはイエス様です。イエス様の救いのかぶとは
勝利の象徴です。
E御霊の剣・・・神のみことば
唯一の攻撃の武器です。聖霊がみことばを通して働かれる
時だけサタンを倒すことが出来ます。
以上の武具に加え、聖霊によって祈ること。私たちの祈りを
取りなして下さる聖霊の思いと一致するように、との思いで祈ら
なければなりません。心の目を覚まして、キリストを見上げて
行く時に、必ず勝利があるのです。
2月23日聖日伝道礼拝
イエス様は、収税所に座っていたレビに「わたしについて来な
さい」と声を掛けられました。レビはお金はあったが、その職業
ゆえに人々から嫌われ、彼の心は喜びと平安を失っていました。
イエス様はそんな彼の悩みを見抜き、愛で招かれたのです。
今日も、イエス様は私たちに「わたしについて来なさい」と声を
掛けて下さっています。その招きの声に対し、レビのように立ち
上がってイエス様に従うなら愛なる神に出会い、神を信じる人に
なるのです。
A罪人と共に食事をするイエス様
イエス様はレビの家で食事を共にされました。そこには取税人
や罪人たちも大勢イエス様や弟子たちといっしょに食卓に着いて
いました。こここで言う「罪人」とは遊女や羊飼い、異邦人たちの
ことで、彼らは律法(モーセの十戒に代表される旧約聖書の戒
め)を守ることが出来ない人たちでした。彼らはユダヤ社会から
はじき出され、交わりを持つことが禁じられていました。
イエス様がそんな彼らと共に食事をするのは、親しい交わりを
示します。つまり、イエス様は罪人を愛で招き、罪人と共に生きる
ことを意味していました。この食事の様子は、天国のひな型なの
です。
天国(神の国)に招かれるのは、パリサイ人や律法学者のよう
に自分は義人だと主張する人ではなく、イエス様の前に罪を認
める罪人です。天国は罪を赦された者の集まりだからです。
B罪人を救いに招くイエス様
イエス様は「医者を必要とするのは病人・・わたしは罪人を招くために来た」と言われました。イエス様は私たちのたましいの医者です。すべての人がイエス様を必要としています。なぜなら全ての人はみな神の前には罪人であり、たましいが「罪」と言う病にかかっているからです。
イエス様の前に罪を認め、イエス様を信じる時にその人の罪は赦され、救いの恵みに与かれるのです。
2月16日聖日礼拝
からそれぞれ一人ずつを選び約束の地カナンを偵察するように
と。ところが、偵察隊の報告が2つに分かれました。ヨシュアと
カレブは「必ず占領できる」と言い、他の10人は「先住民は力強く、
攻め上れない」と言いました。
この報告を聞いたイスラエルの民は泣き叫び、「荒野で死んだ
方がましだ」と言い、神に不平を言いました。
@すでに勝利が用意されている
神はすでに約束の地をイスラエルに与えていました。勝利が
約束されていたのです。神を信じ、従い行くならば必ず勝利で
終わるのです。
イエス様は現代の私たちにも約束しておられます。「あなたがた
はこの世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。
わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
A信仰のことばを語る
神は、「わたしの耳に告げたそのとおりをしよう」(28節)と
モーセとアロンに告げました。
実際に神はイスラエルの民が口にした言葉の通りをなさい
ました。彼らは神が共におられるのに、信じなかった背信を罪を
負い、この後40年の荒野をさ迷うことになります。エジプトを出た
際に成人(20歳以上)していた人々全員がそこで死んだのです。
一方、ヨシュアとカレブは「私たちをあの地に導き入れ、それを
私たちに下さる」と語りました。神はその言葉の通り二人をカナン
に入らせたのです。神を信じ続けていくと、心で信じている言葉
が口から出来るのです。
B主の御心にかなう
ヨシュアとカレブは約束の地カナンに入れる条件として、「もし、
私たちが主の御心にかなえば」と言いました。これは神のことば
を正しく行うということではなく、「自分の罪汚れを良く自覚し、
神に自分を委ねること」です。その人は神の御心と一致するの
です。
C主が共におられることを確信する
ヨシュアとカレブは「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを
恐れてはならない」と言いました。不信仰は人への恐れを生み
ます。しかし、主であるイエス様を信じる人には、聖霊なる神が
共におられます。主が共におられるなら必ず勝利するのです。
2月9日聖日礼拝
神は正義であるゆえに、罪を裁くお方です。神は善悪を区別し、
罪悪を残らず処罰されます。
しかし、だれ一人として神の正義の基準に達することが出来ず、
自力で自分の罪を解決することも出来ません。罪から来る報酬
は死です。
その象徴が十字架刑でした。十字架刑は当時行われていた
最も残酷な処刑方法で、恥と呪いを表わしていました。
A十字架に現わされた神の愛
しかし、私たち人間に対する神の愛は変わることがありません
でした。神はそのひとり子イエス・キリストを救い主として地上に
送りました。それは私たちの罪が赦されるために、私たち全人類
の罪を背負って、十字架上で罰を受けて死ぬためでした。「ここ
に愛があるのです」(Tヨハネ4:10)
B信仰による救い
神の愛と正義は一見相反するように見えます。しかし、神の愛
と正義は十字架において完全に一致しました。その結果、私たち
にイエス様の十字架による救いの道が開かれたのです。
使徒パウロは、人一倍律法を熱心に守り行っていました。良い
行いによって天国に行けると考えていたのです。
しかし、イエス様によって信仰の目が開かれた時、良い行いでは
なくただ十字架のイエス様を信じることによってのみ、罪が完全に
赦され、神の前に正しい(義)と認められることを知らされました。
イエス様が十字架にかかった時、自分も十字架にかかったと証し
しています。
彼がイエス様を信じると、自己中心に生きていた古い自分が
イエス様と共に十字架上で死に、今度は復活されたイエス様が
自分の中心に生きておられることに気づいたのです。新しい自分
はイエス様を信じる信仰によって永遠のいのちに生かされている
と証ししています。
これは現代の私たちも同じです。行いによらず、ただ十字架の
イエス様を信じる時に私たちの罪は完全に赦され、救われます。
すると私たちに永遠のいのちが与えられ、イエス様と共に新しい
歩みをすることが出来るのです。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きて
おられるのです」
2月2日聖日礼拝
を重ねて悔い改めようとしませんでした。そこでイザヤは、イスラ
エルがやがて神に罰せられ、バビロンに捕らえ移される。しかし、
必ずそこから解放されると預言したのです。
@主の道を整えよ (1〜5節)
「慰め」(1節)とは、人が自分の姿に悲しみ、その罪を悔い改め
る時、神から与えられる慰めを指します。神はイスラエルが犯し
た罪は、十分にその罰を受けたと言われます。
この困難の中で、神はイザヤを通し、「主の道を整えよ」と言わ
れます。神をお迎えできるよう、先ず心の準備をしなさいと言わ
れます。高ぶって傲慢なところは削られ、劣等感や虚しさの谷は
埋められると言うのです。実際に、ユダヤ人たちはペルシャ王
クロスが作った大きな道を通ってエルサレムに帰って来ました。
現代の私たちも、自分の心が整えられて神の思い(御心)と
一致することが重要です。そうするならば、神が困難を取り除い
て道をまっすぐ「平ら」にして下さるのです。
A永遠の神のみことば (6〜8節)
強大に見える人や国もやがて必ず衰えます。だから恐れては
ならないと神は言われます。
神の御言葉こそ、永遠のいのちの源です。この御言葉が私たち
の心に蒔かれ、それを信じ受け入れる時に、その人に永遠の
いのちが与えられるのです。
B主の来臨 (9〜11節)
「神である主は力をもって来られ」(10節)とは、次に示す3重
の預言です。・・・1)バビロン捕囚からの解放、2)キリストの来臨、
3)キリストの再臨
1)と2)はすでに実現し、私たちはいま3)の実現を待つ者です。
神はご自分の民を救うために、実力をもって来られます。
そして神はまるで羊飼いのように、ご自分の民を飼い、引き
寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊をやさしく導くのです。
私たちの人生には様々な「山」や「谷」が現われます。しかし、
心を神に向け、そのみことばに聞き従っていくならば、神が必ず
行く道を平らにして私たちを救い、導いて下さるのです。
1月26日聖日伝道礼拝
キリストによって開かれ、愛に取り囲まれている事実に圧倒され
たからでした。キリストは十字架上で死んで、私たちに対する愛
を表わしてくださいました。
現代の私たちも、このキリストの愛(アガペー)に取り囲まれた時、
誰かにキリストの救いを伝えたくなるのです。
@死んでよみがえったキリストのために生きる (15節)
私たちはキリストに出会う前は、罪の奴隷でした。そこから解放
されるには、罪の身代金を払わねばなりません。そこでキリストが
十時間で死んで、私たちの罪の身代金を払って、私たちを買い
取って下さったのです。だからキリストは、私たちの救い主なの
です。
キリストがそうして下さったのは、自分のために生きていた私
たちが、死んでよみがえられたキリスト(神)のために生きるため
なのです。
その生き方は、永遠のいのちが与えられ、この世にあっては
キリストと共に歩み、やがて天国に入れられるという祝福その
ものなのです。
Aだれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られ
た者 (17節)
「キリストのうちにある」とは「全くキリストを信頼すること」です。
だれであっても、イエス様を全面的に信頼し、イエス様と生きた
関係に入れられるなら、神からのいのちを得て新しく造られた者
になるのです。
Aキリストによって神と和解する (18節)
「和解」とは対立している二者の関係を妨げている障害が取り
除かれて、仲良くなることです。私たち人間は神の前に罪を犯し
たがゆえに、神の怒りを買う「敵」となってしまいました。(ローマ
5:10)
しかし、神はその愛ゆえにキリストをこの世に送り、その十字架
の死を通して神と人間の間とを断絶させている罪を取り除き、
和解の道を開いて下さいました。
だれでもキリストを信じるなら、神と和解して新しくされ、永遠の
いのちに生きることが出来ます。一日でも早くこの祝福に与かる
ことが出来ますよう祈ります。
1月19日聖日礼拝
神の愛)」です。
@私たちが互いに愛し合う時、神の愛が全うされる
まず、私たちが神から頂いた愛をもって、神を愛すること。次に
救われた者同士で互いに愛し合う時に神の愛が完全になる
(愛の目的が達成される)のです。
A御霊(聖霊)によって私たちは信仰を告白し、神の内住を知る
「だれでも、イエスを神の子と告白するなら、神はその人のうち
におられ、その人も神のうちにいます」
イエス様を自分の救い主と告白できことと、神がその人のうち
にいることを知るのは聖霊のみわざです。(Tコリント12:3)
神の愛は努力によって手に入るものではなく、神の「恵み」です。
その人が神と交わり、聖霊によって神の愛が心に注がれている
なら、努力によらず自然と恵みのことばが口から出て来ます。
B全き愛は恐れを締め出す
人はアダムとエバ以来、恐れる性質を持つようになってしまい
ました。その原因は罪です。神との親しい交わりを破って生き
続ける状態が「罪」です。
しかし、人の力ではこの交わりを回復することが出来ません。
そこでイエス様が全人類の罪を背負って十字架で死んで罰を
受け、神との交わりが回復される道を開いて下さいました。
私たちはこのイエス様を信じる時に、罪から救われ、神との
親しい交わりが回復されるのです。
私たちの心に神の愛が満たされる時、心から刑罰を伴う恐れ
が締め出されます。神を愛し、他の人を愛する時、神の裁きに
対する恐れがありません。それはイエス様がこの世にあって愛を
もって生きられたのと同じような生き方になるからです。
1月12日聖日礼拝
愛を4つに区別しました。
1)エロース:相手に価値があり、相手に見返りを求める愛
2)ストルゲー:家族愛
3)フィリア:友愛
4)アガペー:価値のない者への愛。見返りを求めない。人間の
持っていない、神の愛。
この1)から3)の愛はいずれも、「〜しか愛さない」という条件が
ついています。
なお、本日の聖書個所の「愛」は、原語ではすべて「アガペー」です。
@愛は神から出たもの
「愛は神から出ている」(7節)、「神は愛」(8節)
神の本質は愛であり、神の活動の動機は愛なのです。この神の
愛を頂いた兄弟姉妹同士が「互いに愛し合う」(7節)、つまち互い
にまるでしもべのように相手に仕えることが、十字架に表わされた
神の愛の到達点なのです。
A愛を明らかにされた
「神の愛が私たちに示された」(9節)
神の独り子であるイエス・キリストが人となって地上に来られ、
私たちの罪の身代わりに十字架で死んで下さった。こうして私
たちが十字架という目に見える形で神の愛を知ることが出来た
のです。
B「ここに愛がある」(10節)
神の愛を求めてあちこち探し回らなくてもよいのです。すでに
神が用意して下さり、私たちはいつでも受け取ることが出来る
のです。
神は愛ゆえに、「私たちの罪のために、なだめの供え物として
の御子」(10節)をご自身で用意され、神の怒りを取り除かれま
した。神の愛は十字架による救いとして表わされたのです。
1月5日聖日礼拝
です。イエス様が祈られたのは、
1)十字架の愛によって教会が一つとなるよう (21〜23節)
この世から神のみもとへ召し出されたクリスチャンの群れが
教会です。イエス様が求められたのは、十字架による愛によって
教会が一致し、一つになることでした。
そのためにイエス様は私たちに栄光を与えて下さいました。
イエス様にとっての栄光とは十字架でした。それゆえ私たちの
栄光とは、イエス様の十字架によって救われ、神の子とされた
事実です。
そしてイエス様を信じた人には必ず聖霊が与えられます。教会
の一致は私たちが聖霊の導きに聞き従い、心に神の愛(アガ
ペー)が注がれることによって実現されます。
こうして「彼らが全うされて(一致の内に完成されて)一つとなる」
(23節)とイエス様は祈り願われました。
2)この世が救われるよう (21節)
教会の一致は、イエス様が共におられることを世の中の人々
が直接目で見て確かめることのできる証拠です。内面的な霊の
一致は、必ず外側の一致を伴っていきます。その目的は「この
世が信じるため」(21節)、つまりこの世の救いです。教会が一つ
となることがこの世への証しであり、伝道なのです。
3)この世が神の愛(アガペー)を知るよう (23節)
教会の一致は、世の中の人々がそれを見て、神がイエス様を
地上に遣わされたことと、神がイエス様を愛されたように教会をも
愛されこととを知るためです。こうして人々が神の愛を知ることが
目的なのです。
1月1日元旦礼拝
私たちは、ある時イエス様に出会い、イエス様の十字架によって
罪の中から救い出され自由を与えられました。この自由は十字架
の愛(アガペー)を生み出す自由です。この愛をもって私たちは
互いに仕えなければなりません。
A「隣人をあなた自身のように愛せよ」
律法(旧約聖書)の全体は、この一語をもって全う(守り行った)
することになります。まず神が私たちを愛され、私たちも神を愛
するようになりました。その愛は私たちが互いに愛し合うことに
よって神の国(神のご支配)がそこに実現し、神に栄光が帰される
のです。
と
こ
、
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