|
|
|
|
南遠教会・相良教会では、一日一章聖書を読むことを勧めています。
そのため、毎週の週報に今週の通読聖書箇所を掲載しています。 |
|
|
また、月報に各週の聖書についてのメッセージを掲載するようにしました。
このページに記載されるメッセージは、月報に記された牧師からの聖書通読のためのメッセージです。 |
|
|
みなさんも、ご一緒に聖書を通読していきませんか? |
|
|
|
|
|
10月 |
|
|
|
17〜23日 |
詩編99編〜詩編105編
|
|
|
|
のちの世代のために
このことは書き記されねばならない
「主を賛美するために民は創造された」
(102・19)
わたしたちがなぜこの世に生を受けたのか。この詩編の詩人は、それを、「主を賛美するために創造された」と歌います。このようなことを考えたことがあるでしょうか。
けれどもこれこそがわたしたちの生きる意味なのです。そもそもわたしたちは自分の命を自分のものだと考え、だから自分の人生は自分のためにあると思いがちです。けれども、聖書は、わたしたちの命は主のもの、わたしたちは主に養われる羊の群れ(100・3)と語ります。だから、わたしたちの人生の意味は、主によって与えられていると言えるのです。
賛美とは必ずしも喜びとは限りません。時に、悲しみと悩みも賛美となります。わたしのすべてを神さまにささげる。それこそがわたしたちのささげる賛美なのです。
|
|
|
|
|
|
|
24〜30日 |
詩編106編〜詩編112編
|
|
|
|
主を畏れることは知恵の初め
これを行う人はすぐれた思慮を得る
(110・10)
この言葉は聖書の中にたまに出てくる言葉です。おそらくイスラエルにおいて用いられた格言の一つなのでしょう。
けれども、格言というのは、その意味を悟ると、内容の深いことに出会います。
私たちにとって「知恵」とは、「知識」であったり、「能力」であったりします。けれども、どんなに知識や力が身についても、それがその人の本当の人間性を豊かにするものではない、時には間違った方向へと導いてしまうこともあります。
人間性の豊かさは、何よりも思慮深さによって計られます。それは、主を畏れることから始めると詩人は伝えます。わたしたちはどんなに賢くとも、神さまの前では愚かな存在でしかないことに気がついて、初めて生きる意味を悟るのです。
|
|
|
|
|
|
|
11月 |
|
|
|
31〜6日 |
詩編113編〜詩編119編
|
|
|
|
「天は主のもの、
地は人への賜物」(115・16)
この地上の世界は、神さまから与えられたもの。ということは、人間が自由に何でもしていいというわけではないということです。鉛筆を与えるのは文字を書くため、ご飯を作るのは食べるためであるように、与えられるものには目的があります。
この世界は、神さまから何のために、どのように使うように求められて、与えられたのでしょうか。それを考えなければなりません。
しかし、人はそれを忘れ、自分の思うがままに世界を利用し、そして自分の自身の命や人生さえも、与えられたものであることを忘れて、気ままに自分勝手に用いてしまいます。そうなれば、人は自らの欲望の中を生き、時には自分たちこそ最も偉大な存在であるように勘違いするでしょう。
「わたしたちではなく、主よ」(1節)と語り始めるこの詩編の意味を深く理解しましょう。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
7〜13日 |
詩編120編〜詩編126編
|
|
|
|
121編は少し不思議な歌です。最初、神さまを求めているのは、「わたし」自身なのですが、3節になると、それが「あなた」のための祈りになっています。
わたしの助けはどこから来るのか
そう思い、山々を見上げる姿は、まるで、旅立っていった「あなた」のことを思いながらなのかもしれません。そして、
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから
という確信は、あなたがどこに行っても、この世界を造られたのは神さまなのだから、決してあなたから神さまが離れてしまうことはないという確信につながっていきます。
わたしたちには時として別れを経験しなければならないことがあります。その時、その人がどうなるのか、不安になります。しかし、天地の造られた神さまがおられる。だからこそその方にゆだねよう。その祈りがここには語られているのです。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
10〜16日 |
詩編127編〜詩編133編
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|