|
|
|
|
祈りには、時に嘆きが含まれることがある。むしろ嘆きのほうが多いと言っても良いかもしれない。わたしたちが祈るとき、本当に心から切に祈らざるを得ないことがあるからである。しかし、嘆きの祈りは、苦しみの中にいるときになされるために、本当にこの祈りを神様が聞いてくださっているのか不安で仕方がなくなるのである。
主よ、あなたは本当に祈りを聞いてくださるのですか。
主よ、あなたはわたしを見ていてくださらないのですか。
苦しみながらうめくように祈る中で、わたしたちは信仰の試練を受けざるを得ないのである。そんなとき、大丈夫ですよ、神様は聞いてくださっていますよと、いくら周囲の人たちから言われても、安心できないものである。それよりも与えて欲しいのは、この苦しみを理解してくれることであり、この祈りの深くにある心の嘆きをしっかりと受けてくれる存在なのである。
そんな嘆きの中、聖書は一つの物語を与えてくれている。それは、絶望と苦しみの中で祈り、神にすべてを訴えた人の物語である。
『ヨブ記』
この物語を通して、祈りの中で与えられる深い真実、慰め、恵みを少しでも伝えられれば幸いである。長い原稿になってしまったが、本当はこれでもまだ語り足りないと思う。けれども、辛抱して読んでいっていただければと思う。また読む際には、できれば、傍らにヨブ記を開いていただきたい。
なお、これを書くために簡単なヨブ記のアウトラインを作った。
あくまでも、わたしが原稿を書くために作った物なので、かなり雑になってしまっているが、参考になるかもしれないので、これもホームページに掲載しておいた。ご覧になりたい方は、こちらをクリックするか、右にあるホームページ案内の中の「ヨブ記アウトライン」をクリックしていただければと思う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヨブ記を読む
旧約聖書の中で好きな人と嫌いな人が明確に分かれる書物があるとすれば、このヨブ記が代表的かもしれない。その理由は、好きな人にとって、このヨブのような苦しみの体験を自分も経験し、同じように苦しみの中から訴えるという思いを持っているからであり、嫌いな人にとって、このヨブ記はあまりに複雑で、しかも結末がどうしてこのようになるのかが理解できないからである。
ヨブ記を読む上で、なによりも大切なことは、ある程度きちんと物語のあらすじを把握しておくことである。そして大切な聖句、主張を読み取っていくことである。
この物語は、神がヨブのことを無垢な人(正しい人)であると語っているところから始まる。これに対し、サタンがヨブに苦しみを与えて試すことを提案する。そこから始まるのが、ヨブの苦しみであった。そして、最初どんなつらい出来事があったとしても、それでも信仰を告白し続けていたヨブが、ついに自らの生まれた日を呪うことによって、苦しみに対する嘆きを語り始めるのであった(3章以下)
ここからヨブ記の重要な論争が始まる。それは、ヨブと三人の友人(エリファズ、ビルダド、ツォファル)との激しい論争である。この三人のほかに最後にエリフという人物が出てくるが、彼はヨブと議論することはなく、主張を語るだけで終わる。
三人との論争は次第に発展していくが、内容的には三人とも同様のことを主張している。それは、『この苦しみは、ヨブが罪を犯したから、神が罰したのだ』ということである。ヨブに対してエリファズは語る。
「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるか」(4:7)
当初彼は、あなたは正しい人なのだから、きっと神様が報いてくださるはずだ。大丈夫だという励ましでこのように語ろうとしていた(5:17-19)。だが、ヨブは、この友人の言葉に反対するのである。あなたたちは、口先で語っているだけで、本当に絶望している人への語りかけをしているのではない。本当に語りかけなければならない人間の現実の姿を見ていないのだと非難したのである。
このヨブの三人に対する態度には、当時の(今でも存在する)応報主義的な考えに対する批判が込められている。聖書的に言えば、律法主義に対する批判と言っても良いかもしれない。口先で、こうすればよい。正しい行いをしていれば、良い報いを受けることができる。そして悪いことをすれば、罰が与えられる。あまりに分かりやすく、単純であるが、しかし、果たして本当にそうなのかという批判なのである。
ヨブと三人との間の議論は激しくなっていく。三人はヨブを断罪して語る。
神はあなたに罪があるから罰しているに過ぎないのだ。それなのに、ヨブよ、あなたは自分が正しいと主張するとは何事か。神こそが正しい方である。
ヨブはこの批判にことごとく反対していく。なぜならば、ヨブは自分が正しく、無垢であるという確固たる自覚があるからである。神が正しいことは当然のことであるし、彼は自分のほうが神よりも偉いのだと語る気は全くない。しかし、神が正しいからこそ、この苦しみに答えてくださらない神に悲痛な訴えをするのである。彼はこう語る。
「わたしの方が正しくても、
答えることはできず
わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても
返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは
思えない。
神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ
理由もなくわたしに傷を加えられる」
(9:15以下)
「無垢なのに、曲がった者とされる。
無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。
生きていたくない・・・
神は無垢な者も逆らう者も、
同じように滅ぼしつくされる」
(9:20以下)
彼はこの苦しみをなぜ神が与えられたのか分からない。そもそもヨブが本当に善良で無垢な人間であるならば、三人の友が語る「お前が罪を犯したからだ」という主張は全く通らないのである。そして、もし神が三人の友と同じことを主張するならば、ヨブにとってこれほど理解できないことはないのである。
三人はこうも語る。
たとえあなたが自分には罪がないと思っていたとしても、自分でも気がつかないときに犯した罪があるのだ。神はすべてを見ておられる。だからこそ、あなたが今このように苦しんでいることは、やはり罰であることは間違いないのだと。あなたは自分が何でも知っている人間だとうぬぼれている。ヨブよ自分の罪を知れと。
ヨブにとって、三人の言葉はもはや無意味な議論にしか聞こえなくなってしまう。ヨブは彼らにこう語るのである。
「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。
あなたたちは皆、
慰める振りをして苦しめる。」
(16:2)
三人はヨブに対し、我々を無視するな。我々に対し議論せよと迫ってくるが、それに対してヨブは、もはや三人の声に耳を傾けて議論するのではなく、自分が正しいのかどうかを神に訴えるのである。そして、神が自分にこのような苦しみを与えたことが、果たして神の正しさに矛盾するのかどうかを問うのである。この苦しみが果たして神の御心なのかと。
またさらに、三人の言葉を封じるように、この世にあるさまざまな矛盾を提示する。それは、正しいものが神に受けいれられて繁栄し、正しくないものは神に裁かれて滅んでいくとするならば、どうしてこの世界には、正しくないものが栄え、悪を行うものが繁栄し、さらには、彼らが死に至るまで罰を受けることなく平安な死を迎えるということがあるのかと。罪があるから罰せられたというお前たちの主張は、通用しないとヨブは痛烈に批判するのであり、さらに、この批判は、神にまでも向けられていく。つまり、神が本当に正しい方であるということは、一体この世でどのように現されるのかということである。苦しむものがここにいるにも関わらず、神が正しい方であるということはどういうことなのかと問うのである。さらには、三人がどれほど語ろうとしても、それが神の知恵に比べてどれほどのものなのだと非難する。あなたたちは神についてどれほど知っているというのかと。
このような苦しみの中での訴えを人は誰もが持つのである。そして、どうしてこのような苦しみがあるのか理解できず、神に訴えるのである。ある人は、三人のような応報主義的な考えに捕えられ、神を信じらなくなってしまう。こんな神などいらないと言って捨てていくのである。しかし、どんなに神を捨てて生きようとしても、それで答えが見つかることはないのである。
それでは苦しむ人はどうすればよいのか。自分が罪を犯したからこんな苦しみを受けているのだと考えて、苦しみを受けいれるしかないのだろうか。それではあまりに悲しすぎる結末である。それでは、誰も救われないのである。
この世界を見ても、苦しみや不幸は多く、たくさんの矛盾があるように思えるのである。人の知恵では到底理解できない世界が、現実なのである。この中で苦しむ一人の人間として、人は何をすべきなのだろうか。ヨブ記はこれにある一筋の光を与えているのである。それが神に訴えるという道である。
ヨブは自分の正しさを証明するために、神に会いたいと願いだす。自分は決して不正を行わず、欺きをしたことはない。わたしは潔白なのである。ヨブは激しい口調で、自分の正しさを主張する。
「わたしの権利を取り上げる神にかけて
わたしの魂を苦しめる全能者にかけて
わたしは誓う。
神の息吹がまだわたしの鼻にあり
わたしの息がまだ残っているかぎり
この唇は決して不正を語らず
この舌は決して欺きを言わない、と。
断じて、あなたたちを正しいとはしない。
死に至るまで、わたしは潔白を主張する。
わたしは自らの正しさに固執して譲らない。
一日たりとも心に恥じるところはない」
(27:2以下)
生きている限り正しさを主張し続けると彼は語るのである。しかし、それはもしかしたら、彼が自分の正しさが命が与えられていることで証明しようともしているのかもしれない。つまり、もしヨブがこれほどまでに苦しみを与えられるような罪を犯しているのであれば、この先に与えられるのは死のみである。しかし、神は自分の命をまだ奪い去ってはいない。それは、私の正しさがまだ失われていない証拠なのだと、ヨブは考えているのである。これは、物語の最初で、神がサタンの提案を聞いたときに、ヨブの命だけは奪ってはならないと命じたこと(2:6)からも推測される。そもそも、この物語は、ヨブが罪を犯したから苦しみが与えられたという始まり方は全くしていないのである。それゆえに、ヨブの主張は確かに正しいのである。
また、ヨブは自分が神について知っている知識を語る。それは、「知らない」ということであった。つまり、神が創られた世界を我々は知っている。しかし、どうしてこの世界があるのかは知らないのである。深い淵も、海も、死の国もそれは分からない。なぜならば、それらはすべて被造物に過ぎないからである。だからこそ、ヨブはこう語るのである。
「主を畏れ敬うこと、それが知恵
悪を遠ざけること、それが分別。」
(28:28)
これは、ヨブの三人に対する最後の言葉であるかもしれない。すなわち、彼らは自分たちの知恵に基づいて語り、神について語ろうとしていた。しかし、何かを知っていることが知恵なのではないのである。むしろ我々は何も知らないのである。だからこそ、知恵をひけらかすのは止めよ。そうではなく、ただ主を畏れよとヨブは友人たちに語るのである。
そしてついにヨブは神への訴えを遠慮することなくぶつける(29章以下)。
わたしは正しい人間であり、人々を慰め、貧しい人をもてなし、弱き人々を励まし、力を与え続けた。非の打ち所のないものであり、誰もわたしに非があることを指摘できない。それなのに今は、誰からも嫌われ、忌まわしい存在とされ、嘲りの言葉を浴びるものになってしまった。神よ、どうしてわたしに答えてくださらないのか。
「神よ
わたしはあなたに向かって叫んでいるのに
あなたはお答えにならない。
御前に立っているのに
あなたは御覧にならない。」
(30:20)
ヨブは何よりも神に出会いたいのである。神を見たいのである。そして、神が自分をご覧になり、正しいものだと宣言してほしいのである。ないはずの罪をなすりつけるのではなく、正しいと言って欲しいのである。神が正しいならば、それは分かるはずなのである。彼は、自らの潔白さを神に訴える。そして、神が自分を罰せられたのならば、その告訴状を提示せよと語ったのである。自分は神と争うとヨブは宣言したのである(31:35以下)。
ヨブは自らの正しさを訴えて、語りつくしたのであった。彼が待ったのは、神が現れて自分を正しいと宣告することであった。
ここで三人と異なるもう一人の人物、エリフなるものが登場する。彼の言葉は、三人と論旨が一部異なっている。また、エリフの言葉は、この後に続く神の言葉へのプロローグになっている部分もある。
「エリフは怒った。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。」(32:2)
また、
「ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った」(32:3)のである。
しかし、エリフの議論は、三人の友人のようにヨブが罪を犯したことを証明することに興味を持っていない。そうではなく、今現実にヨブが苦しんでいることは事実なのである。それゆえ、この苦しみに意味があることを彼は示唆する。そして、何よりも大切なのは、罪を犯したか犯していないかということで議論し、神が正しいのか、ヨブが正しいのかを議論することではなく、罪を悔い改めて赦しを請うことなのである。
「わたしは罪を犯し
正しいことを曲げた。
それはわたしのなすべきことではなかった。
しかし神は
わたしの魂を滅亡から救い出された。
わたしは命を得て光を仰ぐ」と。
まことに神はこのようになさる。
人間のために、二度でも三度でも。
その魂を滅亡から呼び戻し
命の光に輝かせてくださる。」
(33:27以下)
それでは悔い改めればそれでいいのかといえばそうではない。エリフはさらに、悔い改めに対し神がどう答えるかを決めるのは人間ではなく神なのだとも答えるのである。また、ヨブが、神に訴えているのに神が答えてくださらないという言葉にこう答えるのである。
「あなたは神を見ることができないと言うが
あなたの訴えは御前にある。
あなたは神を待つべきなのだ。
今はまだ、怒りの時ではなく
神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので
ヨブは空しく口数を増し
愚かにも言葉を重ねている。」
(35:14以下)
つまり、神はヨブの訴えを聞いているのである。しかし、それにどう答えるかはヨブが決めることではなく、神がふさわしいときを与えるのだとエリフは語ったのである。そして、何よりも、神は必ず苦しむ人を救う方であり、それゆえにヨブよ、お前も神は必ず救ってくださるはずだと教えるのである。悔い改めれば・・・・。
またエリフは、この苦しみの先には、悔い改めの後にもたらされる救いがある。そうであるならば、この苦しみはあなたを鍛える訓練なのであり、神は大いなる教師なのだとも語るのである。
「まことに神は力に秀でている。
神のような教師があるだろうか。」
(36:22)
これまでのヨブと友人との論争には、大きな共通点がある。それは誰もが罪を問題にしてるということである。そして、ヨブの罪を認めさせることや悔い改めさせることに焦点を合わせているのである。罪と苦しみは必ずセットになっているのである。だが果たして、彼らのその問題に対する答えがあるのだろうか。またそもそもヨブは罪の問題を語ろうとしているのではなく、自らの正しさと神の正しさを語っているのである。ここにヨブと友人との間の平行線がある。
そしてついに神が現れる。神はヨブにこう語られた。
「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは」
(38:2)
この言葉を神は嵐の中から語られた。つまり神の姿は見えないのである。しかし、神が確かにそこにおられる事をヨブは実感するのである。そして、神はヨブに創造の片鱗を示し、その一つでも知っているのかと問うのである。すでに勝負は決している。被造物に過ぎないヨブに、創造の時のことが分かるはずがないのである。ここに、人間の知恵と神の経綸との埋めることのできない大きな差があるのである。人間が神の正しさを論じること自体、人の知恵を超えているのである。ヨブは何も言うことができず、黙るしかない。だが、神はそんなヨブにさらに問いかけるのである。
「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
神を責めたてる者よ、答えるがよい。」
(40:2)
ヨブは答えなければいけない立場に置かれる。そして彼が語ったのは、全能なる神の前で何も語ることのできない人の知恵の限界であり、彼は黙るしかないのである。
「わたしは軽々しくものを申しました。
どうしてあなたに反論などできましょう。
わたしはこの口に手を置きます。」
(40:4)
神はヨブを叱責した。けれどもここで大切なことに気がつかなければならない。それは、確かに神はヨブを叱責したが、だからといってヨブに罪があるのだと宣告しているのではなく、また神はヨブに怒りを発せられているのではないということである。ヨブはここで断罪され、絶望しているのではないのである。むしろ、彼は神に出会い、叱責されることによって、喜びと感謝に満ち溢れているのである。
ヨブが語った神への答えは、なんと喜びに満ちているだろうか。そう見えない人も、ここに喜びがあるのだと思いながら読んでほしいのである。
「 『これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。』
そのとおりです。
わたしには理解できず、
わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
『聞け、わたしが話す。
お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」』
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」
(42:3以下)
神の知恵にヨブは出会ったのである。そして、神こそ正しい方であることに出会ったのである。ヨブは徹頭徹尾、神は正しい方であるはずだと訴えていたのである。そして、それはまさしく真実だったのである。さらに、ヨブは神をこの目で見たいと願っていた。それは神の言葉を聞くことによって実現したのである。彼は神に確かに出会ったのである。
そしてここで大きな変化がヨブに現れる。彼は悔い改めるのである。
「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。」
(42:6)
ヨブは、自らの罪のために苦しんでいるのではなく、ただ神の正しさの前に、一人の知恵なき人間としてへりくだり、神に服従したのである。彼は神の正しさに触れたのである。
そして驚くべき結末が与えられる。神はヨブの友エリファズにこう語るのである。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」
(42:7以下)
まさにここに大きなヨブ記の意味がある。神はヨブの正しさを宣言したのである。
神は確かにヨブを叱責された。しかし、それはヨブが罪を犯したからではないのである。ヨブは神が正しいのかというとんでもないようなことを訴えた。しかし、神の正しさを問うことなどはあってはならないことだとは語られていないのである。神の叱責の言葉には、ヨブを断罪するような言葉は一切ないのである。それは、不条理とも思える苦しみの中に置かれた一人の人間が、神に訴え、さらには答えてくださらない神に挑戦し、神は本当に正しい方なのかと問いかけることは当然のことなのだと神ご自身が理解したことを物語っているのである。
正しく生きればそれでよいのだという三人の友の主張は、単純明快で、誰もが納得する人間の理屈である。しかし、苦しむものにとって本当に必要なことは、この苦しみを受けいれてくれる方の存在なのである。ヨブの最初からの訴えを見れば、それが良く分かるのである。彼は、友に対しこの苦しみを理解して欲しいと訴えているのである。しかし、友は彼の苦しみを分析こそすれ、受け入れることはしなかったのである。そして、それを受けいれたのは、ほかならぬ、沈黙して見守った神なのである。そして、神は、ヨブに、罪を犯したから罰を受けているのだと語りはしなかったのである。苦しむものの訴えを神は聞かれるのである。そして、それは、創造主であるが故の大きな責任でもあるのである。
神は、ご自分が創造者であり、誰もその経綸を理解することはできないと語る。それは、言い換えれば、この世のすべてのことを神が責任を負わなければならないことでもあるのである。
この世界は、ありとあらゆる矛盾に満ちている。こんな言葉を神はヨブに語っている。
「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは
お前が分別を与えたからなのか。
鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは
お前が命令したからなのか。
鷲は岩場に住み
牙のような岩や砦の上で夜を過ごす。
その上から餌を探して
はるかかなたまで目を光らせている。
その雛は血を飲むことを求め
死骸の傍らには必ずいる。」
(39:26以下)
鷹や鷲が獲物の血をすすり、犠牲となった小動物の死骸が雛のそばに散乱していることは、弱肉強食の現実が存在することを神は視野においているのである。世界が存在する限り、このような関係が生まれるのである。悪が存在することも、勝つことのできない強大な力が存在することも事実なのである。ただし、神は、世界が混沌に陥らないように、悪の力を抑えているのであり、世界に矛盾があることの責任を創造者として担っているのである。サタンが神に提案をするが、この力は、この世の大きな矛盾が象徴されているとも考えられるのである。それは、どうして神がおられるのに、こんな苦しみがあるのか、こんな不幸な出来事があるのかという人の訴えである。しかし、その力によって支配されないように、神はその責任をいつも担っているのである。
そして、この観点の中で、人間は与えられた世界を見直さなければならないのである。人は、何よりも、この矛盾に満ちた世界を生きなければならない。世界の矛盾を考えながら、その中で苦しみの意味を考えるのである。それは、苦しみの意味を単純に罪などに責任転嫁しないことである。苦しみが罪の結果であるならば、人が生きることはむなしく、生きる力を失うのである。だからこそ、罪と苦しみを直接的に関係付けすることをわたしたちはやめなければならない。人が人として生きるということは、神に与えられた命を、かけがえのないものとして考え、主体的に神と関わることによってなしうることなのである。
ヨブ記の大いなる意味は、ヨブがどうして苦しみを受けなければならなかったのかという罪(原因)の問題なのではなく、現実に与えられている苦しみを神に訴え続けているという姿そのものにあるのである。そして、神は、この苦しみを創造主として責任を持って受けとめ、ヨブに現れたということなのである。
ヨブが救われたのは、彼が信じ続けた神が確かに正しい方であったという事実を知ることができたことなのである。この方を信じることに間違いはないと確信したのである。それは、決して苦しみからの解放を意味するものではない。苦しみが取り除かれれば救いになるというのではないのである。ヨブは自分が癒されることを願っているのではないからである。ヨブは再び祝福を受けて幸せになったから喜んだというのではなく、苦しみの中で神を知ることができたからこそ感謝に満たされているのである。ヨブは、本当に神はこのわたしにとって真実な方なのかということを知りたかったのである。神はそれに答えられたのである。ヨブが正しかったとすれば、それは彼が罪がなかったということなのではない。本当はヨブも罪人の一人の人間なのである。わたしたちと同じ一人の罪人である。ヨブは、神が本当に正しい方なのかと問うことによって、神を求めたのである。そして彼は、神をそのように真実に求めたことによって正しかったと宣言されたのである。
苦しみを神に訴えることは大切なことなのである。そして、何よりもイエス・キリストは、わたしたちのすべての苦しみを担い、十字架につけられたのである。まさに、神はこの世の苦しみの全責任を果たされたのである。そして、この主の十字架を理解することができるのは、ヨブのように本当に自らの苦しみを神様に訴えることのできる人なのである。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|