〜 歴史 〜
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教会の歴史は、この地で救いを宣べ伝えてくださった神様の御業です。
この歴史を記すことで、神様をほめたたえることができますように。

相良教会の歴史
過去に発行された相良教会の七十年史をここに記していきます。
当時の記録ですので、それを前提にお読みください。



日本基督教団相良教会七十年略史

 日本に福音の業が創められてから、明年は百年の記念すべき年を迎えようとしている。この記念すべき画期的な年を迎えようとしているプロテスタント教会の中に、奇しくもこの東海の一隅にある相良教会が、創立七十周年を迎えることは、神の大きな恩寵である。古来、古稀といわれる七十年は、その長寿の言寿ぎを意味しているが、宣教百年のこのときに幾多の歴史に輝く大教会に伍して、この僻地に在る相良の小教会が、その光栄に浴しようとしていることは大きな喜びである。
 相良教会は毎年十月十七日を創立記念日として、豊かな神の御恩寵を感謝すると共に、教会員各自がその責任に対する決意を新たにしているが、今回十九日を卜して、記念式典を挙行しようとしている時に、その過去を顧みて足跡をたどることも意義深いことであろう。

 静岡県下における伝道の端緒は、明治七年マクドナルドが、静岡の英語教授の要請に応じて来静されたことが発端となっている。マクドナルドは医師でもあったので、英語教授の傍ら、県立病院を助けて医術を施したが、その年の六月、自宅にて伝道を開始し、九月には十一人の受洗者を得、是が礎石となって教会を組織したが、是がこの教会が日本に於ける組織を持った最初の教会であったともいう。この時の信者の一人が大正二年より五年迄当教会を牧された土屋彦六牧師であり、もう一人は、台湾より引き上げ、現在御前崎町新谷に居住、白羽集会の一員である増田直枝の祖父山中笑牧師であることも興味深いものがある。静岡教会は当時困難の中にも着々と伝道の歩を進め、山中笑、浅川牧師時代を経て平岩愃保牧師時代に到り、彼の偉材は教会を更に強固なものとし、遂に明治十八年の年会に「東海道伝道案」を建議して容れられ、福音士を養成して実地伝道に当たらせた。仝年久永勝成に藤枝講義所を開かせ、その冬掛川にも之を設けて伝道の歩を進めた。更に小林光泰牧師時代に到って、伝道の機運は一層熟し、会堂の建築を計ると共に、東海道は島田、袋井、浜松の街道筋に手を伸べ、更に城下町、回漕港として徳川時代より由緒ある相良に注目して伝道を開始した。
 明治二十七年以降の四季会記録の冒頭に、相良教会の由来を次の様に記している。
 「天佑豊なる相良教会の緒を開きしは明示二十一年小林光泰氏の来相にありき。一場の講義は聴衆の欣意をして大ならしめ、来講毎に熱心を増し、逆に有志をして講義所設置に至らしめたり二十一年一月講義所設置之を進歩の第一とす。
 原野彦太郎氏伝道士として出張好景益々顕れ其四月受洗者三名、六月六名、其九月七名爾来進歩見るべきあり追々信者増加せり。
 仝年十二月定数の信者を得、相良教会設置掛川教区に編入らせる、之を進歩の第二段とす。
 二十七年六月年会は掛川教区を分離して、相良教区を置く、之を進歩の第三段とす。冀くは天佑洩る事なく我相良教会の発達愈繁からん事を熱望す。」
 この様に相良教会は、静岡教会小林光泰牧師の出張伝道に依りその歩を進め、数次の集会を通して聴衆の熱心さは、遂に講義所を設置せしむる迄に成長したのである。
 二十一年原野彦太郎牧師は伝道師として単身着任、その温容と信仰、学識に引かれ、名波義三郎、永田兼吉、小柳佐吉の三名は進んでカッキング師より受洗した。之ら三人が相良教会の初穂として御名に加えられた事は忘れ得られない事であるが、名波義三郎は、その生涯を通じて相良教会の礎石だった事は今日も尚人の心に新なものがある。
 更に六月十五日、竹内新太郎、名波筆次郎ら六名がカッキング師より受洗し、更に九月十一日現在老齢にも尚信仰生活を送られる名波まちの外六名が橋本睦之牧師から受洗し、九月には筆次郎の妻しまと四女たまをが、更に十二月には一名が受洗している。即ち二十一年には十九名が御名に加えられた訳であり、前述の記録にもある如く既定の定数に達したので、教会の設置を見、掛川教区に編入された。更に二十二年には四名、二十三年に六名の受洗者があり、二十七年六月掛川教区より分離独立して相良教会を置き、手塚久造牧師に到る迄に二十四年二名、二十五年三名、二十六年二名の受洗者があったが、記録が不十分で原野牧師の任期、他教師の氏名、任期を記して居らない。しかし名波まちの言に依れば原野彦太郎、疋野治兵衛、曾木銀次郎、近藤与七、水野芳之助の各牧師を経て、明治二十七年教会創立後の第十四季会当時は手塚久造牧師となっている。此の間の記録を見出すことは出来ないが、最初の伝道場所は現在の駿河銀行の隣り小山ペンキ店の所らしく、そこが芸者屋となる為に現在の日の出湯の所に移ったという。会堂建築も明にし得ないが、募金趣意書には上城銀次郎の名を印して居るので恐らく曾木牧師時代であろう。年代も後の会堂改築資金募集趣意書には「明治二十二年建築した会堂は腐朽甚しく」と記しているので二十二年らしく見え、又当時建築せる大工の令息浅野宇吉の話では二十三年の記録だと云い、名波まちも二十三年頃と云う。建築の為の資金は三百九十二円二十銭、内百六十円はカシデー宣教師の名でカナダより牧師館の為贈られている。兎に角明治二十二年ごろ急勾配の屋根を持った洋風建築が出来たのは、人々にとって驚異であったろう。曾木牧師は後に掛川教会に転ぜられたらしく二十七年最初の四季会記録には、掛川教区上城銀次郎と記してあるが、この曾木牧師は後に関西学院神学部長となられた方である。記録には
 「明治二十七年四月教師手塚久造に於て開く。会する者左の如し。
静岡部長 平岩愃保
掛川教区 上城銀次郎
相良教区 手塚久造
執事 名波義三郎
〃 竹内新太郎
 上城銀次郎氏の祈祷を以て午后四時三十分開会。部長曰く『相良教区は今年より掛川教区より分離し初めての開会なれば前掛川教区に於て決定したる執事の員数を以て之に応用する能わざるは自然の勢なり、依て先ず執事の員数を定めざるべからず』と動議。三人を定員し之を選挙して左の人を得たり。
竹内新太郎
名波義三郎
名波筆次郎
 執事の外任を定めて
会計 名波義三郎
書記 竹内新太郎
 会計報告左の如し
入之部
二十一円四十八銭四厘 信徒寄附外
出之部
二十一円四十八銭四厘
 内 六円二十四戦 牧師給料
 名波義三郎氏祈祷平岩氏の祝祷を以て午后六時二十分閉会。」

 当時の牧師給は知るを得ないが教会の自給額は二円八銭にして、他はミッションの補助に依ったものであろう。
 斯うして教会はその基礎を置き独立教会としての歩をはじめたのであるが、以下残された四季会記録、教会日誌を辿って主な足跡を拾って見たい。

手塚久造牧師時代
 教会が掛川教区より独立し、相良教区として出発しての牧師は手塚久造牧師であった。牧師は二十七年七月、吉原教会より来られ、三十年に富山教会に去られるまで三ヶ年牧会、受洗者四、転入者五であった。同牧師時代、前記の宣教師よりの寄附により、古家を購入、移転改築して牧師館とするの議を二十九年四月の四季会に計り、その竣工を見て二十九年十月の四季会にはその決算を報告している。計二百二十八円を要し、マクドナルド、カシデー師より二〇〇円の寄附、残り八円九十二銭の赤字は五名の献金を以って補っている。この牧師館が大和町に在る工営所の官舎となっている思い出深い建物である。此の間責任を果さざる会員を教籍より除き、志願者の項に加えている事は興味深い。同牧師は三十年五月を以って富山教会に去られた。

小出市太郎牧師時代
 三十年七月六日新任小出市太郎牧師を迎え、藤枝教会太田虎吉牧師を部長代理として、臨時四季会を開き予算を議している。小出牧師は江尻教会より来られ、三十一年に甲州河東教会に去られるまで、その間一ヶ年に過ぎなかったが、九月台風の被害のため会堂、牧師館の修理をしている。転入二名。

福島義次牧師時代

 福島牧師は三十一年六月、小出牧師と入換に甲州河東教会より着任、一ヶ年で森町教会に転ぜられた。転入二名、除名一名。

外山孝平兼牧時代
 福島牧師が去った後の外山孝平牧師は恐らく藤枝教会よりの兼牧であつたろう。三十三年四月二十四日の四季会は、無数の不便を述べて来年度に於いて定住牧師の派遣を要請している。同牧師の任期は三十二年より約一ヶ年であった。

水野芳之助牧師時代
 年会は四季会の要請を容れて三十三年六月、水野芳之助牧師を派遣した。水野牧師は第二回目の赴任である。最初の赴任当時は迫害のため非常な苦斗をされた。牧師の訪問を知ると、何れも戸を閉めてしまい、行き過ぎると又戸を開くと云う状態なので、牧師は一応行き過ぎ戸を開けたるを待って直ちに引き返し訪問されたと聞く。然し第二次は非常に好感を以って迎えられ、前回の非を謝して耳を傾けたと云う。七月四季会を開き、予算をたて牧師給を月二十円とし、更に川崎池新田への伝道開始のため旅費二十四円、会場使用料六円を議決している。是は相良教会の他町村伝道計画を建てた画期的な決議であったろう。尚記録は先に教会設立届けを提出したが、新規に設立許可願として提出された。三十四年六月に去られた。期間一ヶ年、転入五名。

飯泉規矩三牧師時代
 水野墨子の後任として三十四年六月、東京駒込教会より飯泉規矩三牧師が着任され、三十六年に静岡に去られるまで二ヶ年。この間特に記すべき事はないが、三十六年三月に長女を失われている。又教会員名簿に長男義三の名を見出し、大正の初期編集者東京YMCAで共に働きし事を思い懐しみを深く覚える。受洗・転入七名。

原野彦太郎牧師第二次時代
 原野牧師は神学校卒業直後に来られた相良教会に、再度任を受け三十六年六月、藤枝教会より着任された。四十三年に病を得て清水に去られるまでの七ヶ年をこの相良とこの近傍の伝道に尽くされている。水野墨子時代に川崎、池新田方面の伝道費を計上しているが、原野牧師時代には近傍の各地に伝道を進めていられる。牧師臥床静養中の四十二年十二月の四季会の記録は
 一  伝道補助者一名増派請求の件を可決
 理由 担任教師は病気のため充分の伝道をする事能わず、然るに当教区は大井川附近より御前崎迄に跨り、加えるに小笠郡南部を控え、川崎、初倉、御前崎、朝比奈等に求道者あり、是ら訪問伝道のため一名増加の必要あるを以って部会へ請求する事を決議す。
 と記している。同牧師時代は伝道の飛躍を見たが、それは同牧師が、わらじ履、腰辯当で各地を巡回された賜であると聞く。斯うした激しい伝道が遂に病床に臥さしめたのではあるまいか。尚牧師の子女は何れもこの地の小中学に通い、この時代の交友が今日も尚交わりを続けられている事は床しい限りである。尚赴任当時はジョン・ウェスレーの生誕二百年を記念して、四季会はその記念伝道を計画し、江原素六、高木壬太郎を講師に挙げている。又四季会はオルガンの購入を決議し、十九円五十銭の拠金を得、十九円三十九銭二厘を以て購入しているが現在尚それが残されている。
 又三十八年三月二十二日の四季会は、教会敷地及び建物の所有権を議し、所有権をミッションに移してこの修繕費を受くるよりも、修繕費は教会負担とし、教会が所有権を持つことを議決している。尚この年、桑港震災、函館大火があって見舞を贈っている。
 前記のように四十二年十二月二十九日に伝道師の派遣を要求しているが、四十一年八月二十九日にも、波多野伝四郎部長の許に病気全快迄一人の補助伝道師の派遣を請願している。原野牧師は四十二年に清水に転ぜられ、四十五年に昇天されている。御子息の前関西学院大学神学部長原野教授を今回の記念行事に講師として迎えようとしていることは意義あることであり、令嬢志津江は先年相良高校英語教師として働かれた。又此の頃三派メソヂストが合同して日本メソヂスト教会を生んだ。

八木小兵衛牧師時代
 原野牧師の後任は八木小兵衛牧師であった。八木牧師は甲州韮崎教会より、四十二年四月に転任され、夫人の教籍転入がある。四十四年二月二十八日の四季会は、池新田に講義所の設置を請願し、旅費家賃として月四円以上の支出を請求する事を記している。四十四年に松本教会に去られるまで任期三ヶ年。受洗者二名。

吉田利管牧師時代
 四十四年に着任、一ヶ年にして去られたが、池新田、川崎に月一回出張され、池新田にて赤堀芳子、仝幸道の二名、朝比奈で増田よねが受洗して朝比奈の中心となり、その感化で神原、新田牧師時代に数名受洗する端緒となり、池新田でも赤堀宅が解放されて松沢牧師時代の伝道の根拠なった。この年にも川崎、池新田に講義所設置の申請をしている。

黒住敏太牧師時代
 明治四十五年四月三十日着任。四季会に於いて牧師給自給五円を決定しているが、牧師報告によれば「五月以来強制大差なしと雖も稍活気を呈するに到れり。監督の来演、カナレー氏の幻灯会、名波りつ子の葬儀、大葬前後の祈祷会、霊潮者の出演等特別の集会ありて多数の聴衆を得たりと雖も町民は概して冷淡にして教に心を寄せず、却て附近村落あり求道者出で、遂に受洗する者あり。従来夜間行われた礼拝を午前になし、且つ礼拝献金を集むる事となし好結果を得たり。」と報告。池新田講義所設置の計画、川崎伝道所も開設以来特別集会を通して多数の会衆を得漸く緒に着き、町民、学校、警察等の歓迎を記している。大正二年相良を去られた。

土屋彦六牧師時代
 土屋彦六牧師は静岡伝道の創始者であるマクドナルドを静岡に迎える交渉に当った杉山孫六の弟で、先に記した山中笑牧師と同時に受洗した十一名の一人。沼津を振り出しに伝道界に立たれ、明治三十年頃より静岡部長の職にあったが、相良には大正二年本郷中央会堂より着任され、大正五年最後の任地、中遠教会に去られるまで三ヶ年牧された。赴任当時の教勢は現住会員八名、旅行者十四名、準会員三十五名であった。川崎、朝比奈の集会が持たれ、少数の求道者があって月一回出張された。大正四年の牧師報告によれば、川崎の日曜学校開始、その後で大人の集会をして六、七名の出席者がある。当時会堂建築の計画があり、会堂建築課より年賦返済で五百円の借入を申請している。大正五年二月の牧師報告には「川崎伝道は四月より講義所として石田良助伝道師定住され伝道を始められたので出張を廃止した。」とあるが、之が川崎教会の出発といえよう。この頃より英和伝道部より安藤たけ、リンゼーが婦人の伝道のため来援されている。受洗者五名。

塩川千代次牧師時代
 塩川牧師は大正五年土屋牧師の後任として着任。大正七年、宮之原信次郎牧師が川崎より兼牧されるまでね二ヶ年在職された。牧師報告は、礼拝出席八名、川崎講義所週二回出張とあるのは、石田伝道師が他に転任し無牧になったと思われる。学校の教員八名に教授すと記している。尚六年八月の記録は、明治二十二年に建築した会堂は腐朽せるため、その改築を一月に計画して募金に着手、いよいよ建築にかかる事として、五百九十二円六十二銭を以て浅野宇吉に請負わせ、そのために四名の建築委員を挙げたが、七年二月の四季会記録はその竣工を見、中絶されていた夜の伝道集会、水曜夜の祈祷会を、電灯設備完成と共に復活した旨を記している。この年に原野前牧師夫人、同志津江の再度相良在住を記している。尚七年八月の記録はその最後に、牧師は生活上の理由を以て辞職を申し出られ、申請することを決議しているが、間もなく宮之原牧師の兼牧を見ると辞職されたであろう。受洗者九名。

宮之原信次郎牧師時代
 塩川牧師辞任により、川崎教会より宮之原信次郎牧師が兼牧される事となり、毎週日曜日朝の礼拝を司られた。此の間に名波登ら四名が受洗された。牧師の任期は七ヶ月であった。

神原静牧師時代
 神原牧師は宮之原牧師の後任として、大正八年に赴任され、専任牧師として牧会伝道に当られた。時には家族に重病者を抱えての試練の中にもよく牧会に当られ、大正八年には山田寅之助教授の講演及び青山伝道隊による特別伝道、安藤たけ、国分よし子等の毎月一回の来援があった。国分よし子は現東海教区婦人部長の広瀬よし子である。日曜学校は夏期学校を公会堂にて一週間開催した。財界の大変動により財政困難の中にもよく牧会、伝道に当られ、日曜学校も数名の青年が担任した。又二十名近き中学生によって共励会も男女二十八名の会員を有し、四回例会を開き、朝比奈にも熱心に伝道されて受洗者を出した。
 大正十年には教区の改組により静岡伝道部が廃止され、神奈川、静岡両県を管轄として東海部会を組織し、平田平三牧師が部長となっている。大正十一年転任されている。受洗者十三名。

新田東作牧師時代
 神原牧師転任後は定住者なく、新田東作牧師が川崎教会より兼牧された。師は詩吟をよくされ、毎年の年会に於ける歓迎会には無くてはならないものであった。又細工も巧みで、川崎教会の講壇会堂入口の額はその作と云われている。兼牧にも拘らずよく牧会され、朝比奈の中心となった人達は、同牧師時代に導かれた青年達であった。特に其の中、増田緑郎は神学校入学を志願したが実現出来なかった。定期集会以外にしばしば公会堂にて特別伝道が開催された。大正十三年三月転任された。受洗者十二名。

深町正夫牧師時代
 新田東作牧師の兼牧時代から、大正十三年四月、深町正夫牧師が清水より赴任されて牧会に当られた。同牧師は現東海教区総会議長深町正勝牧師の厳父で、正勝牧師も青山学院神学部在学時代に病気療養をこの相良の地で過ごされた。惜しい事に、当時の四季会記録が見当たらないのでその詳細を知る事が出来ないが、受洗、転入者十八名が記されている。受洗者中には朝比奈、池新田在住の人達も数名あるのを見ても、遠路をしばしば訪問され集会を持たれた事と推察する事が出来よう。中でも増田よねの主人覚平は大正十四年十月二十日、病床の重態中、信仰告白をして受洗し、二十二日に永眠している。尚池新田、南山の三名が受洗しているが、之は横須賀講義所の舟生秀松牧師が受洗している。或いは当時池新田の集会は横須賀講義所に属していたものかとも想像される。先生は昭和二年隣町川崎教会に転ぜられた。

松沢長重牧師時代
 深町牧師の後任が昭和二年、島田教会より転ぜられた松沢長重牧師である。昭和九年に中遠教会に転任されるまで七ヶ年、誠によき牧会、伝道をされた。記録を見ても相良教会の全盛期であったといえよう。松沢牧師は青年のよき指導者としてこれを導き、夫人も教会の母として信者を育み、青年達も全き協力奉仕をなし、日曜学校は本校の外に須々木、萩間、池新田、朝比奈に出張日曜学校を開設して、非常な盛況を呈していた。昭和三年四月の四季会記録は、左の様な牧師報告を記している。
 日曜諸集会は前年に比し二倍、三倍の出席で三十名前後、祈祷会も二十名前後の出席があった。日曜学校も前記の如く校数五、教師数十一名、生徒数三百六十名を数えた。共励会も名波登を会長とし全員六十名、伝道部、文芸部、運動部に別れそれぞれ活発な活動をなした。婦人会も名波義三郎夫人を会長とし、二十三名の会員を擁し順調な活動を続くと報告している。
 この頃に静岡に駐在、各地によき活動をされた宣教師ウィルキンソン師は帰国されてから国内を旅行中、汽車より転落、死亡された事は大きな痛みであったが、その記念伝道会が二晩にわたってなされ、百三十四名の聴衆と決心者四十一名があった。
 又昭和四年より神の国運動が実施され、講師として主に賀川豊彦が当てられて、全国的活動をされた。又盲人哲学者岩橋武夫、長谷川敞も講師として来援され、多大な感銘を与えている。
 当時の宣教師はオールブライトで、此の頃カナダ・ミッションは、都市伝道より其の目を農村に向けて勢力をそれに集中した。オールブライトはオースチンを購入、自ら之を運転して北沢満雄牧師、北川敏夫牧師、池ヶ谷伝道師を順次ヘルパーとして、駿州地方の農村を広く巡回して地方教会の伝道を援助された。オールブライトの後任は、名古屋よりマクイリアムスが来てその後を嗣ぎ、農村伝道に意を注いで伝道がなされ、之に関する協議会が持たれた。足久保の農村伝道、朝比奈の農村自給伝道も仝師の賜物である。この頃英和伝道部より荒井とき、満岡ちかが来り助けられた。この満岡ちかは満岡久馬牧師の子女で、農村伝道の権威木俣敏牧師の夫人となった。
 昭和二年、赴任と共に牧師館の改造をなし、三年には青年達のためにピンポン台を三十五円の予算を以て作った。又婦人会は百七十五円を募金して、昭和六年三月、現在使用しているオルガンを購入している。
 七年、役員会は会堂の新築を計画し、保育室を兼ねて礼拝堂とし、階上を青年会館とする予定にて五千円の予算を組んだが実現しなかった。又この年にはハワイ、マキキ教会で受洗した増田寅吉一家が帰郷し、朝比奈伝道の中心ともなった。又新生浜にあった名波宅の別荘は、後に島田の小林家の所有に移ったが、しばしば修養会、夏期学校その他に解放され意義深く利用された。かくしてよき七年の牧会を終えて昭和九年四月、中遠教会に転ぜられた。受洗、転入者、四十九名。

三浦金吉牧師時代


以降は
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南遠教会の歴史
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