牧師 栗原宏介 のメッセージ
2010年12月20日更新しました
子どもたちから学ぶ その2(2010年12月 奈良教会だよりより)
「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 (マルコによる福音書 10章15〜16節)
幼稚園の送り迎え、また給食当番をはじめとして、いろいろな行事に参加する機会に恵まれています。その中で、子どもたちと関わり、豊かな出会いがあり、多くの発見をし、学ぶこともたくさんあります。子どもたちから「大人の皆さん、それでいいの?」と問われているように感じる事がなんと多いことか。
幼稚園に行って子どもたちと遊んでいると、ほぼ毎回、誰かしらがケンカしているところを見かけます。それは泣きながらの言い合いであったり、ボールの取り合いであったり、大量のイチョウの葉っぱの投げ合い(ふざけ合いの延長?)であったり、ときには叩き合いであったり。
その瞬間、「なんとかしなきゃ」と思います。ここで我慢するのは難しい。特にそこに自分の子が関わっていた場合はなおさらです。ケガをさせてはいけないとか可哀想だとか、そのような思いから、「やめなさい」、「何してるの?」、「どうしたの?」などと、つい割って入ってしまいます。
けれども、そこをグッとこらえて様子を見守っていると(もちろんケンカの程度にもよるでしょうが…)、子どもたち同士で解決している場面をしばしば目にします。ケンカに気付いた他の子が様子を見守る、また他の子もやってきて間に入る、そしてまた他の子もやってきて…、といった具合です。その子たちが、それぞれの言い分を聞いたりしています。するとその場で、ケンカしていた子どもたちも落ち着いたりします。仮にそこで手に負えないと見るや近くの大人、あるいはその子の親に助けを求めます。「○○ちゃんと□□ちゃんがケンカしてんで〜」…緊張感があるのかないのかよくわからない時もありますが、それでもちゃんと教えにきてくれます。
また先日はこんなこともありました。「△△ちゃんなんか嫌い!」と泣きながら言っている子。「僕も◇◇ちゃん大嫌い!」と応じている子。どうも靴の投げ合いをしていたらしいのですが、その結果このようなことになっていました。「絶対に許さない!」、互いにそう言っているその時、そこで一緒に遊んでいた子が、おもむろに“不思議な踊り”を“なぞの歌”付きで踊り始めました。しばらくケンカしていた二人もムスッとそれを見ていましたが、ものの数秒で二人して「ぷっ」と吹き出し、しまいに大笑い。なんだかよくわからないままケンカは終わり、“なぞの歌”に合わせて“不思議な踊り”を踊るお調子者トリオが完成していました。
「う〜ん、おみごと!」とうなされてしまった一幕でした。大人ではなかなかこうはいきませんよね。子どもたちの実力恐るべし!
子どもたちに見習うべきこと、たくさんあるように思います。皆さんはケンカしたままにしていることありませんか?(私はもちろんあります!)子どもたちだって仲良く遊んでいるだけではありません。意見の対立やケンカだって大人と同じようにあります。でも気がつくと再び手を取り合って遊んでいる。
さて私たちはどうでしょう。ケンカしたまま、それ以来会話しない。絶対許してやるもんか!と意固地になる。「あいつが悪い」と人のせいにする。もうあの人と付き合うのはよそうと思う。……いつからあの子どもたちのように仲良くできなくなってしまったのでしょうか。いつから再び手を取り合って遊ぶことができなくなってしまったのでしょうか。私たちも本気でケンカし、心から許し合えた、そんな子ども時代があったはずです。
私は子どもが生まれたその時から、子育てをする中で「私にもこんな時があったんだ」ということを知り、また思い出す時を過ごしています。子どもたちが教えてくれること、思い出させてくれることってたくさんあります。
先日参加した幼稚園のクリスマスもそうでした。子どもたちのページェントにお歌の発表、ママさんコーラスに劇の披露。
それらひとつひとつに感動し、「そうだ!クリスマスはこんなステキな時だったんだ!」と思い出しました。クリスマスはひたすら忙しく、しなければいけないことに追われ、喜ばしさや楽しさを演出するときではないんです。わくわくドキドキ、嬉しい楽しいクリスマスなんです。“あの頃”の感覚、思い出しました。
このクリスマス。子どもたちから示されたこと、思い出させてくれたことを心に留めて、神さまからのプレゼント、平和を示すために来てくださった赤ん坊の誕生を心から祝いたいと思います。
子どもたちから学ぶ その1((2010年10月 奈良教会だよりより)
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」 (コリントの信徒への手紙二 6章2節)
幼稚園にお迎えに行くこと。僕にとっての楽しみのひとつです。
お迎えに行くと、ほぼ毎回、家に帰る前に園庭で子どもたちと遊びます。
「なぁ、かくれんぼしてあそぼー」
「肩車して〜」
「おにごっこしよー」
と子どもたちに言われ、そのまま手を引かれて園庭へ。
「よし!今日もいっちょ遊んでやるか」と子どもたちの輪の中に入ります。時には名前も知らない子にも話しかけられたりして。「はてこの子は何組さんの何ちゃんだろう?」と思いつつ、お話をしながらお名前を聞いたりして、こうして僕も幼稚園で“お友達”が増えていきます。
子どもたちと本気で遊ぶのは、なかなか楽しいことです。日頃の思い悩みは一切忘れて、童心に帰って園庭を駆け回っています。
そんな時、ふと振り向くとお母様たちは日陰でおしゃべり中。そこは牧師、そのような状況にガッツポーズ(!?)。毎日忙しいお母様たちにひとときでもおしゃべりする時間を提供していると自己満足も甚だしいことを思ったりして。
そんな中、つい先日、年長組のある男の子に言われて、はっとしたことがあります。
「ごめ〜ん!今日は遊べな〜い!!」
……あれっ?…・・・…そうか僕の方が遊んでもらっていたのか!!
目から鱗、ぽろり。
その日を境に“遊んであげる”から“遊んでいただく”に。
思えば子どもたちと遊ぶと気持ちもスッキリ。仕事もはかどる。説教も整う。たくさんの発見があって、気付かされる。子どもたちの発想力と感性には本当に驚き、感動します。そして何より子どもたちからたくさんの元気をお裾分けしてもらっています。
最近、幼稚園で駆け回りながら、やっぱり説教は机の上ではできないと一人納得しています。神の言葉は出会いや発見や気付きの中で与えられ、メッセージはそのひとつひとつの出来事を通して備えられるんだと、園庭の茂みに隠れながら実感しています。
“そんなくだらないこと考えずに真剣に遊べ”と神さまの声が聞こえたような聞こえないような…。
代わって子どもたちの声が聞こえます。
「みぃつけた!」 これぞ神の声!
あっさり発見される今日この頃。
思えば聖書の中にも、いろいろな人物が逃げて隠れるけれど、結局は神さまにあっさり発見されちゃうお話、たくさんありますね。
見つかっちゃった気持ち、わかります。
さてさて、かくれんぼ中、子どもたちを捜していると、幼稚園の先生に声を掛けられました。
「子どもたちと遊んでる姿、少年の心を忘れてない感じがいいですね!」
はい、やっぱりそう見えますよね…。その通り、だって遊んでもらってるんですから!
少年の心を忘れない。本望です。
子どもたちの声、笑顔、泣き顔、本気のケンカに仲直り、そんな出来事に接しながら、牧師の業なんてちっぽけだと気付かされます。支えている、祈っている、癒している、遊んであげている……なんてのはただの思い上がりで、本当のところは、支えられている、祈られている、癒されている、遊んでもらっている。
そのようなことひとつひとつを実感しながら本当の意味で生かされているのが牧師なんだろうなぁと思っています。
子どもたちから謙虚にあることを示されて、牧師という生き方の土台を教えられつつ、何よりも元気と希望と恵みを、いつもいつもたくさんいただいています!
日々の生活の中で希望に接し、そしてそれを実感できる“今が恵みの時”な毎日です! ほんとに子どもたちはすごいなぁ。ありがとう!
クリスマスは楽しいですか?(2009年12月 奈良教会だよりより)
「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(ルカによる福音書2章11節)
クリスマスは楽しい!
子どもの頃、クリスマスが近づいてくると何とも言えず楽しみでワクワクしました。心が躍りました。「楽しい、嬉しい時間がやってくる!」そんな感じです。
キリスト教のキの字も知らず、教会にも通っていなかった私でも、クリスマスは特別でした。学校のクリスマス会、町内の子ども会のクリスマス会、家でもクリスマス会……。街はクリスマスの飾りで彩られ、クリスマスキャロルが流れています。「クリスマスにはプレゼントがもらえる」ということだけではない楽しさやワクワク感がありました。
「クリスマスはイエス・キリストっていう人の誕生日らしい。」そんなくらいの認識しかなく、もちろんそこに込められた思いやクリスマスの本当の意味なんて知らず、けれども「それはそれとして、誕生日ならそれはめでたい!お祝いしちゃおう!楽しもう!」という感じ……教会に通い始めるまで(いや、もしかしたら教会に通い始めて数年経つまで…!?)こんな感覚でクリスマスを楽しんでいました。
今は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」というルカによる福音書の言葉に代表される想いを味わいながらクリスマスを迎えています。キリスト(救い主)であるイエスは私たちのために生まれてくださった。毎日の悩みや辛さを共に担ってくださる方、私を支え、導き、そして一緒に歩んでくださる方がイエスさま。その方がこの世に来てくださった事を記念する日がクリスマス。
聖書が描くクリスマスの出来事はというと…宿屋には余地がなく、馬小屋で生まれざるを得なかったイエス・キリスト。そのイエスさまを産んだマリアは十代半ば(14〜5歳であったと言われています)。結婚もしていない少女です。そして婚約者のヨセフ。結婚前の少女が身ごもっているという事実は、きっとこの若い二人を苦しめた事でしょう。二人に向けられた社会の目も厳しいものだったことでしょう。そんな打ちひしがれたヨセフとマリア。この二人しかいない暗く寒い馬小屋。そして子どもが生まれる。生まれたばかりの赤ん坊は飼い葉桶に寝かさなければならない…。二人の心情を思えば涙が出てきます。さらにその誕生を最初に祝ったのは、野宿していた羊飼いたち。遠くからやってきた異邦人の学者。当時のユダヤ社会の周縁にいた人々です。そこに映し出されているのは、祝福に満たされた情景ではなく、むしろ痛ましい現実に他なりませんでした。
こう記していくと、どうしても湿っぽくなってしまいます。もちろん聖書の伝えるクリスマスの出来事を理解した上でクリスマスを迎えることは大切なことでしょう。喜びの質も違うような気がします。私たちの生きる現実に、しっかりと向かい合うきっかけにもなるでしょう。でも世間の浮かれた雰囲気に対して「せめて教会では“本当のクリスマスの出来事”を伝えよう」と息巻いているうちに、教会の外でクリスマス・メッセージを語る機会が与えられた時にも、そこに拘りすぎて「クリスマスの楽しさ」に水を指してしまっているのではないかと感じることがあります。あるいは「楽しいクリスマス」を否定しているのではと思うこともあるのです。
そう感じる度に、子どもの頃の何ともいえない「楽しさ」や「ワクワク感」を忘れちゃいけないなぁ…と思います。「本当のクリスマスの出来事はね…」と始まる辛く悲しい物語。でも“本当のクリスマスの出来事”の先にある出来事、もしくは根底にある想いは、やっぱり「喜ばしく楽しい知らせ」なんです。
“本当のクリスマス”に拘るあまりに、その“本当のクリスマス”に込められた想いや願いを忘れてしまうことがあります。わたしたちの救いのために神さまがプレゼントをくださった……クリスマスはやっぱり何よりも大きな喜ばしい出来事なんです。そして、みんなが喜ばしく過ごせるようにと、痛ましい現実の只中に、愛する子をくださった出来事なんです。
「より示唆に富んだメッセージ」ではなく「喜びと楽しさを共有できるメッセージ」を伝えることに、あるいはそのようなメッセージを受け取ることに心砕き、思いを向けていけたらいいなと思います。
やっぱり、何といっても、クリスマスは楽しい!
「平和聖日に思う」(2008年8月 奈良教会だよりより)8月は「平和」について考える(考えさせられる)機会の多い季節です。それは言うまでもなく2発の原子爆弾の投下と敗戦ということをこの日本という国が経験した季節だからです。しかしその「戦争体験」をしているのは私の祖父母の世代。私の親、そして私、さらにその後の世代は「戦争を知らない世代」です。より正確に言えば「戦争を体験していない世代」です。そのことについてはこれから後も体験することのないことを切に願っています。それと同時に「戦争体験」を聞くことはとても大切な事であると思っています。戦争の惨禍を伝承し再び過ちを犯さない思いを強くしていく必要があります。
「日本は平和だ」と言われます。しかし私が今、この時に戦争を体験していないことが必ずしも「平和」な状態とは言えない現実があります。日本の敗戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、9・11、アフガン、イラク戦争…など世界に戦争は絶えません。内戦、紛争、虐殺、人権蹂躙、数え上げたらきりがありません。「平和」は遠い。「私たちは平和だ」などとは決して言えません。まだまだ私たちは「平和」を祈り求める必要があります。
奈良教会の2008度の年間聖句はエフェソの信徒への手紙2章14〜22節です。そこには次のような一節があります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(14節)この箇所は、十字架による和解を経て、様々な隔たりから違いを超えて共に生きることへと導かれていく事が語られています。私たちには違いを理解し、それを超えて共に生きる道が備えられています。私たち人間が今に至るまで声を荒げ憎しみ合い、争っている間も、主イエスは私たちのために黙して十字架に架かってくださっています。罪の深さを見つめ、それ故にこそ限りなく注がれる神の愛を感じながら、「平和」の実現に向けて歩む者でありたいと願います。
「愛はすべてを完成させるきずな」 (2009年7月 奈良教会だよりより)
今年度の奈良教会年間聖句はコロサイの信徒への手紙3章12〜17節です。少々長く取り出していますが、その中でも特に「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(14節)をすべてを包括する言葉として捉えています。
この箇所は教会(共同体)が向かうべき在り方、歩むべき道が示されています。そこには「神に選ばれ」「愛されている」という土台があり、そこに立って「互いに」「赦し合」う、ということが語られています。さらに加えて、「愛を身に着け」ること、「キリストの平和が心を支配する」ことが求められています。そして私たちは「招かれて」いる。一体誰に?私たちを愛してくださっている方にです。
この箇所で、もうひとつ私たちの重要な在り様として「感謝」する共同体であるようにということが示されています。何に感謝するのでしょうか?それは神さまの「愛」にです。愛してくださっている事実にです。生きるもの全てに与えられ守られている「命」に感謝するのです。「命」は当たり前にあるものではありません。朝の目覚めは毎日等しくあるわけでもありません。けれども当たり前のようにある日常。命の目覚め。それこそ本当に大きな恵みです。神さまからの大切なプレゼントです。そう、感謝するということは、私たちに当たり前のようにある日常の根本にある「命」に思いを向け、神さまの愛を知るということから始まります。そのようなことからも「互いに」「愛し合い」「感謝する」共同体でありたいと思います。そのように「招かれて」いるのです。
しかし、私たちの生きる現実を見れば、そのようにあることは難しいと言わざるを得ません。どうすることもできない現実に塞がれてしまうような時があります。そんな時、「愛は、すべてを完成させるきずなです。」という言葉が私たちに光を与え励まします。
「愛」ということについて、Tコリント13章に「愛の賛歌」と呼ばれている箇所があります。愛はこのようなものということを示している箇所です。そこを読むと「なるほどその通りだ!」、「そのようにありたい」と思います。けれども同時に「そのようにあり続けるのは無理だ…」とも思います。年間聖句の箇所と一緒です。そのようにしなければならないと頑張れば頑張るほど「無理だ」と立ち止まってしまうのです。歩くことをやめてしまう。「そうしなければならない」ことに疲れてしまう。
でも、「そうしなければならい」という想いこそが、「お互いに」という心の交流を欠き、配慮を失わせる、傲慢に歩む姿勢なのではないでしょうか。コロサイ書においても、コリント書においても、そこで語られている愛とは神さまからの出来事です。「しなければならない」事柄なのではなく、「すでに、そのような出来事を受けている」のです。
私たちのスタート地点は「愛されている」という事実です。「愛している」のではなく、その前に「愛されている」。その単純な事実を知った時、すべては動き出します。その温かな安らぎを感じた時、今年度の年間聖句が示す本当の道が見えるはずです。お互いに手を取り合って歩みましょう!
どうか、この奈良教会という共同体がステキな主の教会として輝きますように…。