聖書箇所 ヨハネの福音書9章24~41節 説教題 『主よ、私は信じます』 ■序論 イエス様は信じる者の目を開いて下さるお方である。まことの光であるイエス様を見続ける者は決して闇の中を歩くことはない。三つの立場から見る。 1、「私たちはモーセの子孫だ」パリサイ人たちの罪(24~29節) パリサイ人達は目を癒された男の両親を呼び出した後、再び本人を問いただした。彼らはイエス様のことを罪人であると決めつけていた。しかし、本来は人を罪に定めるのも、人の罪を赦すのも神の権威による。彼らがイエス様を罪に定め、神の領域に立ち入ろうとするのは、神の御子イエス様を認めない不信仰と高慢からきている。彼らは自分達がモーセの弟子であることを強調した。過去の偉大な人物とのつながりが、目の前にいるイエス様への拒絶として現われた(1:17)。イエス様は見なくても信じる弟子を望んでおられる。 2、「あの方は私の目をお開けになったのです」癒された男の信仰(16~19節) 目が開かれた男は、彼の身に起きたことを堂々と証言する。彼は生まれつき目が見えなかったので、彼本人か両親の罪の結果だとみられてきた。しかし、彼は「だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いて下さると、私たちは知っています」(32節)と証言している。つまり 、彼は神の御心を求めて行おうとして生きてきた。そこにイエス様が通りかかった。神様の癒しの奇跡は偶然ではない。漠然とであっても神を求めている人はイエス様と出会う。イエス様を信じる人が神の国に入れられる。 3、「あなたと話しているのがそれです」イエス様の招き(35~41節) 会堂から追放された彼を見つけてイエス様は問われた。「あなたは人の子を信じますか」(35節)彼は「人の子」の意味が分からなかったが、「その方を信じることができますように」(36節)と願っている。御自身のことを示されたイエス様に対して、彼は信仰告白し、礼拝した(38節)。イエス様を信じる人は礼拝者へと変えられる。神を求めている人に、神は御自身を現わして下さる。パリサイ人らはイエス様に反発を続けたが、実は見えていない自覚こそが大事である(ルカ5:31、32)。今イエス様はみことばを通して御自身を現わされる。 ■結論 目が開かれる奇跡は私達の人生の縮図である。イエス様は生きる目的と問題の解決を与えて下さる。「主よ、私は信じます」信仰告白し、光の道を歩もう。 |