聖書箇所 ヨハネの福音書9章13~23節 説教題 『目が開かれる人生』 ■序論 信仰は聖書を通して、神様の視点を確認し、神様が望んでおられる道を信じて進むことである。イエス様と出会い目が開かれた時から人生は始まる。 1、「私はいま見えているのです」(13~15節) シロアムの池で泥を洗った男は、生まれて初めて世界を見ることができた。その姿に困惑した人々はパリサイ人のところへ連れて行った。というのは、この癒しが安息日に行われたからである。パリサイ人らは彼に対して繰り返し尋問した。彼は目が見えるようになった経緯を端的に説明した。しかし、パリサイ人らは彼の言うことを信じなかった。彼はイエス様と出会い、視力を得ることになったが、私達もイエス様を信じて、恵みを経験すると今までなかったものが与えられる。神様のわざが私達にもなされることを信じよう。 2、「あの方は預言者です」(16~19節) パリサイ人らは安息日に医療行為をするような者は、神から出た者ではないと断罪した。しかし、イエス様は愛によって律法を全うすることを教えられた。つまり、安息日に神様を礼拝することと病気を癒すことは何ら矛盾はしない。ユダヤ人らの間にもイエス様の正体について意見が分かれた。そこで、イエス様について尋ねられた彼は、イエス様を預言者だと答えた。しかし、イエス様は人間の預言者と並べられるお方ではない。イエス様は神の御子キリストである。「使徒信条」を確認し、イエス様に対する信仰を点検しよう。 3、「あれに聞いてください」(20~23節) パリサイ人らは彼の両親を呼び出して尋問した。彼は元々目が見えるのではないかと疑ったからである。しかし、両親は彼が生まれつき盲目だったが、どういうわけか今は見えるようになったことを説明した。そして、「あれはおとなです」「あれに聞いて下さい」と繰り返した。彼は両親の姿を初めて見るが、両親はユダヤ人らを恐れて、病を癒して下さったイエス様への感謝もなく、突き放すような言い方をした。本来、信仰は自分の口で告白するものである。どんな状況でも自分が持っている信仰を大胆に語れるように備えよう。 ■結論 イエス様と出会い、目が開かれた人生では、かつてなかった神様の恵みをいただける。聖霊の助けをいただきながら、自分の口で信仰を告白しよう。 |