聖書箇所 ヨハネの福音書8章1~11節 説教題 『罪のない人はいますか』 ■序論 聖書を読む際に誰かを裁く思いで読んでいないだろうか。聖書のみことばはまず私自身に語られていることを覚えよう。みことばを通して光を受けよう。 1、姦淫の現場で捕まえられる女(1~5節) 仮庵の祭りの後、イエス様がエルサレムの神殿で人々に教えている時に、一人の女性が連れて来られた。律法学者、パリサイ人らによって公衆の面前に引き出されたのは姦淫の現場で捕えられた女性である。姦淫の現場で取り押さえられた者は、石打ちにされると定められている(申命記22:23、24)。しかし、本来姦淫の罪は男女ともに同罪である。彼らが女性だけ連れて来たのはイエス様を試すためである。女性をだけを断罪することもまた律法違反である。誰かの罪を告発したとしても、自分の罪は誤魔化されないことを覚えよう。 2、自分の罪を覚えて立ち去る人たち(6~9節) イエス様は律法学者たちの目的を百も承知だった。イエス様が女性の処遇についてどう答えても、彼らはイエス様を告発できると考えていた。しかし、イエス様は身をかがめて指で地面に何かを書いておられた。返事をせかす彼らに対して、イエス様は彼らの想定外のことを言われた。神の前に「罪のない者」などはひとりもいない。心の中まですべてお見通しのイエス様の前に、誰もが自分の罪を認めざるを得なかった。年長者からその場を去り、イエス様だけが残った。自分の罪を棚に上げず、イエス様に罪の赦しを求めよう。 3、罪の赦しを宣言するイエス様(10~11節) 女性を連れて来た律法学者たちもその場を去っていた。イエス様は女性に語りかけ、彼女もまた心を開いた様子である。罪のない神の御子イエス様は、人を罪に定めることも、人の罪を赦すこともできるお方である。イエス様は彼女を「罪に定めない」と言われた。これは彼女の罪をあしらったのではなく、イエス様が彼女の罪の代価を払う宣言である。つまり、イエス様は十字架によって、全人類の全ての罪を背負うことを意味している。罪人を救うために招いておられるイエス様を信じ、心から感謝しよう(マルコ2:17)。 ■結論 神は聖書を通して、私達が罪を認め、イエス様を求めるように招いておられる。すべての罪を十字架で負い、洗いきよめて下さったイエス様を仰ごう。 |