聖書箇所 ヨハネの福音書7章25~36節 説教題 『キリストの派遣』 ■序論 聖書で使われる「派遣」は、使命を果たすために命を使うことを意味する。キリストの弟子として生きる私達は、主と宣教のために派遣されるのである。 1、公然と語るキリスト(25~27節) イエス様はガリラヤでもエルサレムでも公然と語り、御自身を現わされた。神のことばを語る者はキリストに倣い、堂々としていることが望ましい。エルサレムの人々は、ユダヤ人指導者たちが殺そうとしているイエス様が目の前にいるのを驚き、彼らがキリストを信じているので手を出さないのかとさえ思った。イエス様は自己任命によって来られたのではなく、天の父なる神から地に派遣されて来られた。その目的は、全人類の救いのために十字架で命を捨てるためである。語った通りに生きられたイエス様の生き様に倣おう。 2、祭司長らによる派遣(30~32節) 祭司長らはイエス様殺害を企てながらも自らは手を下さず、下役を遣わした。彼らは群衆の支持が得られず、なかなか思惑通りにはいかなかったが、何よりも神がそのことを許さなかった。つまり、神の御心にかなわない派遣、特に罪を犯すことが目的ならば、それは実現せず、まして神の栄光を現わすことなどできない。神の御心にかなう派遣には神御自身が伴って下さる。キリスト者は神を愛し、隣人を愛し、地の塩、世の光として輝くために派遣される。イエス様に倣い、遣わされた場で、人を愛し、人を生かそう。 3、天に帰られるキリスト(33~36節) イエス様は十字架にかかるのはもうしばらく後のことであると示唆している。イエス様が十字架と復活の後、昇天することは、群衆だけではなく、弟子達ですらまだ想像できないことだった。ユダヤ人達はイエス様がギリシヤ人の所に行くのかと口にしたが、このことは、やがて聖霊を受けた弟子達によって異邦人宣教として実現することになった。御子キリストを遣わされた真実な神は、信じる者達がキリストの弟子として生きるようにと招いておられる(12:26)。イエス様に従い、キリストの使者として遣わされて行こう。 ■結論 毎週の礼拝の度に、キリスト者は集まり、また全世界へと派遣されて行く。今週もイエス様の愛に応えて、遣わされた場で、神の御心を行おう。 |