聖書箇所 ヨハネの福音書7章1~13節 説教題 『イエス・キリストのとき』 ■序論 神がなさることはすべてが最善である。神は全てを計画の内に治めておられる。今すべきことと、すべきではないことを見分けられたイエス様に倣おう。 1、仮庵の祭りが近づくとき(1~5節) ガリラヤを巡回するイエス様をユダヤ人らは殺害しようとしていた。ヨハネはイエス様の公生涯の前半から、ユダヤ人との対立を描いている。仮庵の祭りは秋の季節に行われる収穫祭であるが、魂の収穫の時はまだ先だった。都に上り、自分を公に現わすようにキリストの兄弟たちは言った。彼らはイエス様をキリストと信じていなかった。それどころか、彼らはイエス様と弟子達の働きを快く思っていなかった。神に仕える者にとって、身内が信じていないのは痛みである。イエス様に倣い、家族の救われる時が来るのを信じて祈ろう。 2、ガリラヤにとどまるべきとき(6~9節) イエス様は兄弟たちの提案には乗らず、しばらくガリラヤにとどまられた。イエス様の判断、行動基準は、いつでも父なる神の御心である。イエス様は、イエス様を信じない兄弟たちを責めず、彼らを信じさせるためには奇跡を行わなかった。ただ、イエス様の十字架と復活によってのみ、神の御子キリストであることを示された。イエス様は神に時を委ねて生きていた(伝道者の書3:1~11)。全人類のために十字架にかかる使命を待つイエス様は、兄弟たちの救いの時も待たれた。最善の時に人の心をも変えて下さる神様に委ねよう。 3、人々を恐れるとき(10~13節) イエス様はしばらくガリラヤにとどまった後、祭りに上って行かれた。ユダヤ人たちの間では、イエス様に対する評価は分かれ、いろいろなうわさが広まっていた。人々はユダヤ人たちがイエス様を殺そうする空気を感じ、イエス様について公然と語る者はいなかった。イエス様を信じる信仰を告白するのは勇気のいることである。人それぞれが何かしら恐れを抱いて生きているからである。しかし、神が私たちに下さるのは、力と愛と慎みの霊である(Ⅱテモテ1:7)。聖霊が人を恐れる性質から信仰を告白する者と変えて下さると信じよう。 ■結論 イエス様がいつでも神の時を待たれたように、あらゆる問題も、主が事を動かして下さると信じよう。神の最善の時を待ち望み、祈りと宣教に励もう。 |