聖書箇所 マタイの福音書26章1~13節 説教題 『イエス・キリストを記念して』 ■序論 献身とは主が喜ばれることを第一として自分自身を献げることである。高価なナルドの香油を主イエスに注いだ女性には真の献身の本質を見る事が出来る。 1、主イエスの権威のもとに(1~5節) 十字架の受難の出来事は主イエスの権威のもとに、主導的に進められていった。主イエスが十字架にかけられるために捕えられると予告した時と、祭司長、民の長老が当初計画したイエスを捕える時にはずれがあった。それは、十字架の受難は、人間の陰謀によって主イエスが受け身となって苦しむのではなく、人類の救いと贖いのために、主イエスの権威のもとに自ら積極的にその身を献げたことを示す。私達は全ての事柄に主の権威を認めた先に、神の御業を見ることが出来るのである。 (Ⅰペテロ3:22) 2、主の喜ばれる献身(6~21節) 1人の女性が主イエスの頭にたいへん高価な香油を注いだ。弟子達の目にはそれは無駄な行為であった。それは、弟子達の価値観が経済的な損得勘定に土台にあった事と、主にとって一番喜ばれる最善の物を全身全霊で献げるという献身の姿勢がなかったからである。女性は全てを主イエスに献げた。その結果、主イエスにとって葬りの用意となる最善の結果をもたらした。本当の献身は愛と信仰と自己犠牲がある。それは主イエスの十字架の姿に現される。 (Ⅰヨハネ2:6) 3、キリストを記念する行為(13節) 主イエスはこの女性の行為を、「この福音が宣べ伝えられる所で記念となる」と言われた。それは彼女の献身が素晴らしいから、行為自体や彼女が記念とされるという意味ではない。この女性にとって主イエスのためにした行為は、ただ純粋に自分の全てを献げたという以外に何もない。真の献身の行為が成された所には、キリストの栄光が現され、人ではなく主イエスご自身が記念とされる。主イエスが記念となると言われたのは、そこに主イエス・キリストが記念となるような出来事があったという意味である。私達もキリストが記念としてその栄光が現されるような生き方をしよう。 ■結論 真の献身とは、自らの人生に主の権威を認めることから始まる。そして、キリストの献身に倣い、主イエスご自身が記念となる歩みをさせていただこう。 |