聖書箇所 出エジプト記16章1~12節 説教題 『荒野で食べるパン』 ■序論 今年は「いのちのパン」を分かち合うことを掲げている。聖書にはパンの話がよく出て来るが、荒野でイスラエルの民を養われた主の恵みを分かち合おう。 1、全会衆のつぶやき(1~3節) イスラエル人は430年エジプトで奴隷として労苦する間、彼らは苦しみながらも人口は増加した。主の奇しき力により、モーセを指導者として立て、イスラエル人はエジプトを脱出した。成人男性だけでも60万余りだった(民1:46)。荒野ではすぐに水(15:22)と食料の確保が問題となった。民のモーセとアロンへのつぶやきは、主に対するものだった。民はエジプト時代の肉とパンを懐かしんだ。彼らは主に信頼せず、すぐに不満を口にした。主の恵みを忘れるのは忘恩の罪である。他人に不満を口にする前に、まず主に感謝しよう。 2、朝のパン、夕の肉の約束(4~10節) 主はモーセを通して、彼らのために天からパンを降らせることを約束した。民は毎日一日分のパンを集め、六日目には2倍のパンを集めるように言われた。それは、彼らが主の教えに従って歩むかの試みである。モーセは主が彼らをエジプトから連れ出したのは、主の栄光を見るためであることを繰り返し伝えた。にも関わらず、民はつぶやきや不満を繰り返したが、主は忍耐し、耳を傾け、必要な糧を与えられた。人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きる(マタイ4:4)。肉の糧以上に大事な、霊の糧を日ごとに求めよう。 3、神対応(11~12節) 本当の神対応とは、神がなされる御業(主の栄光)である。いつの時代でも信じる者は神の栄光を見る(ヨハネ11:40)。主は無から有を生み出すお方である。福音書における五千人の給食の奇跡にも驚くが、荒野における40年に及ぶ民の扶養は、まるでスケールが違う出来事である。荒野で食べるパンを通して、主は民が主こそ神であることを知らせられた。同じ主が今も私達のすべての必要を御存知で、日毎の糧を与えて下さっている。自己中心な者をも主は顧み、神対応して下さる。我が人生にも現わされる主の栄光を拝する者となろう。 ■結論 何もない荒野でも主は民を養われた。主に信頼して祈る者には、たとえ荒野のような所でも、主は栄光を見させて下さる。主を待ち望む信仰生活を送ろう。 |