KGK信仰基準

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  本会は初代教会の公同信条と、宗教改革運動により誕生した福音主義諸教会の信条と信仰告白とにおいて表明された歴史的キリスト教信仰をその立場とし、次の信仰基準を設ける。

  1. 旧新約聖書66巻は、神の選ばれた聖書記者たちによって、神の霊感のもとにしるされた神のことばであって、原典において誤謬を含まず、信仰と生活の唯一の規範である。
  2. 唯一のまことの神は、父、子、聖霊の三位にして一体であり、全能の主権者、創造主である。
  3. わたしたちの主イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人である。主イエス・キリストは処女より生まれ、罪人の身代わりとして贖罪の死をとげ、肉体をもって死より復活し、父なる神の右に座し、再び栄光のうちに来臨し、すべての人を裁き、神の国を完成する。
  4. 人間は、堕落以来、みな罪の中におり、わたしたちの主イエス・キリストの贖罪のみわざによってのみ罪から救われる。
  5. 救いは信仰のみによって受ける神の恵みである。罪人は聖霊によって新生させられ、きよくされ、その救いを完成される。
  6. すべて救われた者は、キリストの体である教会に属し、一体である。

信仰基準の解説

  • 序文
  • 1 聖書
  • 2 三位一体の神
  • 3 イエス・キリスト
  • 4 罪と救い
  • 5 信仰と聖霊
  • 6 教会

本会は初代教会の公同信条と、宗教改革運動により誕生した福音主義諸教会の信条と信仰告白とにおいて表明された歴史的キリスト教信仰をその立場とし、次の信仰基準を設ける。

  この序文において、KGKは「歴史的キリスト教信仰をその立場とし、…」と言い、その具体的内容としては「初代教会の公同信条」と「宗教改革運動により誕生した福音主義諸教会の信条と信仰告白」とにおいて表明されていると語ります。
  「初代教会の公同信条」とは、初期の異端的な思想や間違った聖書の解釈に対して神学論争が交わされた時代に成立したものを指します。
  「宗教改革運動により誕生した福音主義諸教会の信条と信仰告白」とは、16世紀、ローマ・カトリック教会に対して宗教改革が起こり、それによって生まれたプロテスタント諸教会が新たに信条、信仰告白を表明したものです。
  これらの信条や信仰告白は、新しい教理を生み出したわけではなく、異端や誤った聖書解釈を検討し、結果として、確かに聖書はそのように教えているということを確認した信条、告白です。それを「歴史的キリスト教信仰」として、その立場に立つということをKGKは表明しているのです。

1.旧新約聖書66巻は、神の選ばれた聖書記者たちによって、神の霊感のもとにしるされた神のことばであって、原典において誤謬を含まず、信仰と生活の唯一の規範である。

  聖書は「神の選ばれた聖書記者たちによって…しるされた」もので、人間的な所産であるのですが、だからこそ神はご自身の御心を正しく伝えるために、聖書を「神の霊感のもとにしるされ」ました。それは、聖書記者たちの人格、個性、経験、調査という理性的活動を含めて、全存在を有機的に用いて「原典において誤謬を含まない」神のことばである聖書66巻であると表明しています。
  さらに、聖書が「信仰と生活の唯一の規範である」ことを表明します。これは宗教改革者たちが再発見し告白したことであり、「聖書のみ」と告白し、「旧新約聖書66巻」だけが絶対的な「唯一の規範」であることを告白します。

2.唯一のまことの神は、父、子、聖霊の三位にして一体であり、全能の主権者、創造主である。

  「唯一のまことの神」を信じつつ、「父、子、聖霊」という三つの位格(person)を持つと告白します。合理的に考えたら理解することは難しい仕方で存在されている神様ですが、私たちの違う次元に存在し、合理的な思考では理解しきれない霊的な真理に生きておられる神を告白します。
  また、その神を「全能の主権者、創造主である」と告白します。神が「全能」であることは、神がいししたことが必ず実現するということであり、この「全能」によって、この世界と人間が造られ、神の主権のものとに置かれていることを告白します。
  それと同時に、「主権者」である神は、その動機と目的において神中心であり、造られた世界は今に至るまで神によって保持され、導かれていることをも告白します。

3.わたしたちの主イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人である。主イエス・キリストは処女より生まれ、罪人の身代わりとして贖罪の死をとげ、肉体をもって死より復活し、父なる神の右に座し、再び栄光のうちに来臨し、すべての人を裁き、神の国を完成する。

  聖書に記されているように、当時のユダヤ人にとって十字架につけられたイエスが「まことの神」であることはつまずきでした。またギリシャ哲学の影響を受けた人にとっては、神が肉体をもった「まことの人」であることは受け入れにくいものでした。しかし、イエス・キリストの完全な神性と人性を認めなければ、神と人間の唯一の仲保者としてのイエス・キリストの救いは完全でなくなってしまいます。私たちの主は不思議な方でありますが、完全な神であり、人であるという二性一人格であり、「主イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人である」ことを告白します。
  前半で神の性質を告白した後、後半部分でイエス・キリストの御業を告白します。第一に、処女降誕を告白します。これは詩的表現でもなく、歴史的事実性より意味こそ重要であるという主張ではない。確かに主イエス・キリストは人としてお生まれになりましたが、被造物ではなく、創造主です。しかし、主は人間の罪の性質がない状態で、聖霊において宿り、「処女より生まれ」たことを告白せざるを得ません。
  第二に、主の死についての告白をします。この信仰基準では使徒信条の告白と比べて、その死の持つ意味「罪人の身代わりとして贖罪の死」が前面に語られています。贖罪は人間の罪からの救いという面と、神との和解の面を含んでいます。
  第三に、主の復活の御業を告白します。それは復活の歴史的事実を告白し、その主の復活こそ、私たちの主イエス・キリストが神であることを保証し、神の義が証明され、罪の赦し、私たちの復活の希望を与えるものとして告白しています。
  第四に、イエス・キリストの現在の姿である「父なる神の右に座し」と告白します。それは父なる神の権能の座を表し、現在もイエス・キリストは教会の主であり、かしらであり、支配するとともに、教会のためにとりなしていることを意味します。
  最後に、未来のこと、すなわち終末について告白します。キリストの初臨はベツレヘムという世界の片隅で起きたことですが、主の再臨は全世界の人にはっきりと認められ、「栄光のうちに」起きると告白します。その「来臨」は、主によって贖われた者は永遠の神との交わりに入れられ、失われた者は永遠の刑罰に定められるという「裁き」の厳粛さを持っています。そしてそれによって「神の国を完成する」と告白します。

4.人間は、堕落以来、みな罪の中におり、わたしたちの主イエス・キリストの贖罪のみわざによってのみ罪から救われる。

  聖書は初めに、人間は罪のないものとして造られたこと、神のかたちに似せて作られたことを語っています。しかし、神の命令に背いたことによって罪を犯し、それによってすべての人間が「罪の中」に生きていることを語ります。その罪によって、すべての人は神との交わりを失い、それだけでなく、人と人との間の正しい交わりを失ってしまいました。
  3項ではイエス・キリストの死が「罪人の身代わりとしての贖罪の死」であることを示していますが、この4項では、罪からの救いが「わたしたちの主イエス・キリストの贖罪のみわざによってのみ」であることを告白します。これは、罪からの救いが人間の行為・業績ではなく、また、ほかの手段・宗教などによるものではないということを意味します。

5.救いは信仰のみによって受ける神の恵みである。罪人は聖霊によって新生させられ、きよくされ、その救いを完成される。

  4項では、救いはただ十字架の御業によってのみであることが語られましたが、それを受ける人間側から見るなら、「救いは信仰のみ」であることが確認されます。しかし、それは人間の業であると考えない。すなわち信仰も神の与えてくださる「恵み」に基づくゆえに可能となることを告白します。
  また「罪人は聖霊によって新生させられ、きよくされ」ることを告白します。「新生」とは罪のうちに死んでいた人間に対して、新しい霊的な生命が与えられることを意味し、これによって神の子とされ、人は神との交わりを持つことができます。
  「きよくされ」という言葉は福音主義の諸教会にも様々な見解がありますが、語源からみると「選び、聖別されること」ということは一致して告白することができ、日常の生活において、罪から離れ、悪から「きよくされ」、聖霊によって、「救いの完成」に至ることを告白します。

6.すべて救われた者は、キリストの体である教会に属し、一体である。

  信仰は個人的な事柄であると同時に、共同体的です。信仰による神の交わりは、救われた者の交わりであり、聖徒の交わりを生み出していきます。
  教会について『見える教会』と『見えない教会』という理解の仕方があり、『見えない教会』というのは、民族や地域を越えて、全歴史を貫き存在する普遍的な「キリストの体である教会」の総体です。「救われた者」であれば、すでに「キリストの体である教会に属し、一体」とされているのは確かです。KGKも救われた者の交わりであることを思えば、『見えない教会』の一部です。
  しかし、『見えない教会』に属していればよいかと言えばそうではなく、『見えない教会』と『見える教会』は別々な物ではなく、一つの「キリストの体である教会」に『見えない』部分と『見える』部分という区別があるにすぎません。ですからこの地上にあって『見える教会』にしっかり属し、歩む必要があり、「すべて救われた者は、キリストの体である教会に属し、一体である」ことを告白します。