メッセージ

マルコ1:40~45「福音の広がり」 24.04.07.

序)
 先主日はイエス・キリストが死から甦られたイースターの日であり、私たちの教会の開拓30周年の日でもありました。これまでの神の守りと導きに感謝したときでもありました。先々週のときにも話しましたが、イエス・キリストは悪霊の告白を用いることを許されず、イエス・キリストを信じる一人ひとりを用いられる方であることを学びました。今朝の箇所は、一人のツァラアトに冒された人が癒されたことを通して、福音が広がっていったことが記されている箇所です。今朝は、イエス・キリストがどのような方であり、どのようにして福音が広がっていったのかを共に教えられたいと願っています。

1)憐れみ深い方
 まず、イエス・キリストは憐れんでくださる方です。ツァラアトに冒された人と出会われたイエス・キリストは、「深くあわれみ」と41節に書かれています。憐れみとは何でしょうか。調べてみますと、一般的には「深く同情すること」と書かれています。「憐れむ」「同情する」と聞きますと、何か上から目線のようにも聞こえます。そのため、憐れまれたり同情されたりするのを嫌われる方もおられます。昔、「同情するなら金をくれ」というセリフが流行りました。聖書が語る「あわれみ」とは、深く同情することではありません。では、聖書の語る「あわれみ」とはどのようなものなのでしょうか。
 マタイ5:7に、「あわれみ深い者は幸いです」とイエス・キリストは話されました。その前の6節では「義に飢え乾く者は幸いです」と話されました。「義に飢え乾く」とは、どのような状態を表しているでしょうか。義に飢え乾いているのです。それは、義を行おうとしても行えずもがいている状態を思い浮かべないでしょうか。「これが正しい」と分かっているのに、それができないでもがいているのです。私たちの日々の生活の中にもあるのではないでしょうか。「こんなことをするのは間違いだ」と分かっていてもしてしまうということがあるのではないでしょうか。聖書が勧めていることは分かっているけれども、でもそれとは違うことをしてしまうということがです。そして、できない自分を責めてしまったり、「ダメな者」というレッテルを貼ってしまったりすることがあるのではないでしょうか。ですが、神はそのような私たちを憐れんでくださったのです。すなわち、神の憐れみ・聖書が語る憐れみとは、赦しが伴っているのです。そして、何度も話していますが赦すとは受け入れることです。「その人を憐れむ」というのは、その人を受け入れるということです。
 私たちは「神が憐れんでくださった」ということばをよく用います。それは「神が赦してくださった」とか「神が受け入れてくださった」ということを表しています。ツァラアトに冒された人は、人々からは受け入れてもらえませんでした。このツァラアトについてはレビ記13章に書かれています。ツァアトに冒された人は「汚れている」と宣言され、45節に「汚れている、汚れている」と叫ぶことが定められ、46節には宿営の外に一人で住むことが定められています。「宿営の外」とは、仲間外れにされることを意味し、受け入れられないことを表しています。しかし、イエス・キリストはそのツァラアトに冒された人を憐れんで、手を伸ばして彼に触られたのです。この行為は、この人を受け入れられたことを表しています。すなわち、聖書の語る「あわれむ」とは、その人を受け入れることでもあります。ですから、単なる同情ではありません。イエス・キリストが私たちを憐れんでくださったということは、私たちを赦し受け入れてくださったということです。私たちは、そのイエス・キリストの赦しの中に生かされているのです。

2)聖める方
 次に、イエス・キリストは聖めてくださる方です。イエス・キリストは、ツァラアトに冒された人に「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。すると、この人からツァラアトが消えて「きよくなった」と42節に書かれています。そのあと、イエス・キリストは聖められた人に「厳しく戒めて」と書かれています。何を厳しく戒められたのでしょうか。44節に書かれていますように、誰にも話さないことを厳しく戒められたのです。何故なら、それによって周りが大騒ぎになり、イエス・キリストの活動に支障が出てしまうからです。ただ、祭司の見せることを告げられました。それは、もう自分は汚れた者ではなく聖められた者とされたからです。汚れたままの人と聖められた人には大きな違いがあります。何が違うのかと言いますと、心からの喜びと感謝があるかないかの違いです。喜びと感謝のある人とない人とでは、生き方が全く違ってきます。このツァラアトに冒されていた人は、今までは人を避ける生き方をしていました。心の中には「人と交わり合いたい」という思いがあったのですが、それができなかったのです。何故なら、周りの人たちは自分を避けようとするからです。しかし、祭司によって「きよい」と宣言されることによって、そのような生き方から解き放たれるのです。今まで自分を縛っていたものから解き放たれる。これはその人にとって大きな喜びであり感謝なことです。イエス・キリストは、人をそのような生き方へと変えてくださる方です。
 漢字の中に「忌」というのがあります。これは「嫌う」というのを意味することばです。「忌避」という漢字を目にすることがあります。これは「嫌って避ける」という意味です。この漢字は亡くなられた家の玄関に貼られていることが多いです。何故、貼られているのかと言いますと不吉で縁起が悪いからです。「何故不吉で縁起が悪いのか」と言いますと、近づくことによって汚れるからです。そのため、日本では葬儀から帰りますと家に入る前に塩を身体に振りかけるという風習があります。それは「塩には聖めの役割を持っているから」と信じられているからです。すなわち、この「忌」という漢字は汚れを表す漢字でもあります。この「忌」という漢字は「己の心」と書きます。「何が汚れているのか」と言いますと、「己の心が汚れている」ということになります。すなわち、「自分の心が汚れている」ということです。
 私たち一人ひとり、「己の心はどうなのか」を思い巡らす必要があることを教えられます。そして思い巡らすとき、「聖い心など全くない」ということに気づかされます。「聖い心など全くない」というよりも、自分の身を守るために様々な口実をつけてしまう自分を見出だしてしまいます。イエス・キリストは、マルコ7:20~23で「     」と話されました。「人を汚すものは人の心の中から出てくる」と話されています。パウロ自身もそのような自分を見出だし、そのような自分を「私は本当にみじめな人間です」とローマ7:24で嘆いています。ですが、その後の25節で「私たちの…神に感謝します」と告白しています。何故なら、そのような自分を見捨てることをされず、そのような自分を聖めてくださっているからです。パウロもこの戦いの連続なのです。自分を知れば知るほど、決して誇れる者ではないことを知らされているのです。ですが、イエス・キリストはそのような人をも聖めることのできるお方なのです。

3)用いてくださる方
 最後に、イエス・キリストは用いてくださる方です。イエス・キリストは、このツァラアトが癒された人に「だれにも何も話さないように気をつけなさい」と言われました。しかし45節を見ますと、この癒された男性は出て行ってふれ回ったのです。そのため、イエス・キリストは表立って町に入ることができなくなり、町の外の寂しいところにおられるはめになったのです。結果として、この男性の行為はイエス・キリストの働きを邪魔することになったのです。ですから、この男性の行為は勧められるものではありません。何故なら、イエス・キリストから言われたことを守っていないからです。でも、この男性がふれ回り言い広め始めたようになったのは、ツァラアトが癒されたことの喜びと感謝によるものです。そのため話さずにはおられなかったのでしょう。その彼の気持ちも分かります。
 何故なら、この男性はツァラアトに冒されていたのですが、イエス・キリストに出会うことによって癒されたからです。今まで光のない人生から、光のある人生へと変えられたのです。その喜びと感謝というのは、ことばに言い表せないほど大きなものです。その良い知らせを一人でも多くの人に伝えたかったのです。私たちは安くて良い店を知ったら、他の人にも紹介すると思います。彼にとってはそれ以上のものだったのです。先程も話しましたけれども、確かにこの男性の行為は勧められるものではありません。何故なら、イエス・キリストに話すことを止められていたからです。しかし、神はそれを用いられたのも事実です。45節の最後に「しかし…イエスのもとにやって来た」と書かれています。これは「何によってか」と言いますと、この男性がふれ回って言い広め始めたことによってです。何度も言いますが、この男性の行為は決して勧められるものではありません。しかし、イエス・キリストはそれをもプラスにされました。
 そうであるならば、前回の箇所でも触れましたが、イエス・キリストの証し人として立てられている私たちを、この男性以上に豊かに用いてくださることを知らされます。日々されています証しや毎月近所に配っておられる福音版などを神は用いてくださいます。当然、それらが用いられるのにも時があります。ですが、神が最善の時に用いてくださることを信じて、期待して証しや福音宣教に携わっていきたいと願わされます。「もっと多く配りたいけれども今の教会は財政的に厳しいから」という声を耳にします。今年度は福音版を予約していますから難しいですが、教会でパンフレットを作製したものを配布しても良いのかもしれません。イエス・キリストは、ルカ18:1~8で不正な裁判官の譬え話をされました。ここでイエス・キリストは、不正な裁判官であっても訴え続ける者には仕方ないから裁判を開くことを話されました。そして、7節で「まして神は」と、選ばれた者のために神は行ってくださることを話されました。ここは祈りについて話されている箇所ですが、神の用いられ方も同じです。イエス・キリストのことばに従わなかった男性をも用いられる方であるなら、イエス・キリストの証し人として立てられている私たち一人ひとりを豊かに用いてくださるということです。

結)
 イエス・キリストは憐れみ深い方であり、聖めることのできる方であり、用いてくださる方です。自分を知れば知るほど、心の汚れを知らされます。それが「ありのままの私たちの姿」です。しかし、ありのままの私たちの姿はそれだけではありません。同時に、イエス・キリストの深い憐れみを受け、聖められ用いられる者でもあるのです。この両方を見据えることが大切です。どちらか一つだけでは不十分なのです。福音の広がりの秘訣は、この両方をしっかりと見据えてイエス・キリストの証し人として歩むことです。罪深い自分を見つめつつ、その自分がイエス・キリストによって赦されていることに感謝しつつ、イエス・キリストの証し人として歩み続けられるように祈っていきましょう。

ローマ6:1~11「望みのある新しい歩み」 24.03.31.

序)
 今日は今年度最後の日であり、イエス・キリストが死から甦られたイースターです。また、私たちの教会が開拓を始めて30周年の日でもあります。30年前の4月3日に、最初の主日礼拝が熊野町の借家で始められました。今年度も様々なことがあったと思いますが、その一つひとつを神が導いてくださったことと、教会も様々なことを経験した30年の歩みですが、その一つひとつをも神が導いてくださったことに感謝したいものです。また何よりも、イエス・キリストが私たちのために死から甦ってくださったことにも感謝したいものです。そのイエス・キリストの復活は、死の先にも歩みがあることを示しています。「それはどのような歩みか」と言いますと、望みのある新しい歩みです。今朝は、その望みのある新しい歩みについて共に教えられたいと願っています。

1)罪
「人が死んで甦る」ということは、なかなか信じられないことです。作り話しのようにも思えます。ですが、イエス・キリストの復活は決して作り話しではありません。何故なら、復活されたイエス・キリストと出会った人々が実際におり、そして書き記しているからです。死後の甦りがあることを知っていたから、当時のキリスト者はどのような迫害に遭ったとしても信仰を捨てることがなかったのです。イエス・キリストの甦りは、信仰者に大きな力を与え新しい人生を歩ませてくださいます。その新しい人生を歩むにはどうすれば良いでしょうか。今朝の箇所には、繰り返し出てくることばがあります。第1は「罪」ということばです。第2は「死んだ」「葬られた」ということばです。そして第3は「甦り」「復活」ということばです。3つに分けましたのは、同じグループに入れられると思うからです。この3つが新しい歩みをするカギでもあります。
まず罪についてですが、聖書には「罪」ということばが多く出てきます。多くの人が思い浮かべられる「罪」とは、法律を破ることではないでしょうか。さらに言えば、法律を破って犯してしまったことの結果ではないでしょうか。そのため、多くの人は「私は罪など犯していない」と言われます。「少し位の悪さはしたけれども、警察に世話になるようなことはしていない」と言われたりします。日本に限らず多くの犯罪が世界中で生じています。何故、犯罪が生じるのでしょうか。社会が悪いからでしょうか。ある人は「社会が良くなれば犯罪はなくなる」と言い、「社会を良くしよう」と言われます。しかし、よく考えてみたいのですが、「社会を良くする」とはどういうことでしょうか。私たちが生かされています社会は誰が形成しているのでしょうか。それは私たち人間です。ですから、「社会を良くする」ということは、私たち人間を良くするということです。ところが、多くの人は「私は別に悪くない」と言われます。この「社会が悪い」というのは、「私以外の人間が悪い」という捉え方をされているのではないでしょうか。さらに言えば、「私以外の人間が良くなれば社会は良くなる」ということです。そこには、「別に私は変わらなくても良い」という捉え方があります。
それについて聖書は何と言っているでしょうか。マルコ7:20~23に「     」と書かれています。ここに「汚す」ということばが2回書かれています。これは悪のことであって、罪を犯すことを表しています。聖書は、「人の心から出てくるもの」と語っています。21節に書かれています「悪い考え」とは、自己中心的な考え方のことです。自分のことを何よりも優先する考え方のことです。他人への妬みや憎しみ、高慢なども罪です。それらのものが私たちの中にあるから、その罪が外に出てきて、結果である犯罪が生まれてしまうと聖書は語っているのです。聖書は、「罪は外側から人に入るものではなく、人の内側にあるものが外に出るもの」と言っているのです。そして、その聖書が語っています罪とは「的外れ」という意味です。それは、本来あるべき方向に向いて進まなければならないのに、別の方向に向いて進んでいる状態のことです。
例えば自分を愛する。これはとてもすばらしいことです。人が人として生きていくにおいて大切なことは自分を愛することです。そうではないでしょうか。自分を愛することのできない人生は、とても辛い人生ではないでしょうか。ところが、人は間違った愛し方をしてしまいます。自分を愛するが故に、他人を傷つけてしまいます。社会問題である「いじめ」にしてもそうではないでしょうか。自分の中にある「もやもやしたもの」をすっきりさせたいがために他人を傷つける。これは間違った自分の愛し方です。そこには「自分を優先する」という自己中心があります。その自己中心は誰もが持っているものです。そして、その自己中心が聖書の語る罪なのです。ですから、聖書は「全ての人は罪人である」と語っているのです。「社会を良くする」とは、自分の罪を認めて悔い改めることです。

2)死
その罪がもたらすものは何でしょうか。ローマ6:23に「     」と書かれています。罪がもたらすものは死です。日本では「死」ということばはあまり好まれません。何故なら縁起の悪いものだからです。そこには「人は死んだらお終いである」という考え方があります。死は人に「絶望」を想像させます。聖書は「全ての人は罪人である」と語っています。すなわち、「全ての人は絶望の中に生きている」と語っているのです。ですから、人が望みを抱いて新しく歩むには、その罪の問題が解決されない限りあり得ないのです。死は誰も避けることのできないものです。全ての人が必ず直面する問題です。聖書は「死は罪がもたらした結果である」と語っています。そして、「それは神の審きである」とも語っています。その死に対する解決は、神の審きから救われることであり、私たちの罪の問題が解決されることです。私たちの罪の問題が解決されない限り、死の問題も解決することはできません。聖書は、「神が人を造られた」と語っています。神は人を愛し、その必要を満たしてくださっています。ところが、人はその神に逆らって罪を犯してしまいました。その罪の故に死が世界に入ったのです。神は罪を犯した人間を愛さなくなったのではなく、なおも人を愛し続けてくださっています。神に逆らい裏切った人間を愛されているのです。決して、私たちは神に見捨てられてはいないのです。神は罪人である私たちを愛してくださっているのです。
その神の愛をどのようにして知ることができるのでしょうか。それが第2グループの「死んだ」「葬られた」というところにあります。人は自分の罪が招いた結果である死という絶望の中に生きています。しかし、神は人を愛していますから、その状況の中から救い出す方法をしてくださいました。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは十字架に架かって死なれました。以前にも話しましたが、この十字架刑というのは、人間が考え出した最も残酷な処刑方法です。両手に釘を打ち、両足を重ねて釘を打って十字架にかけます。そして、お尻の所には板が当たるようにしてあります。これは身体を休めるためのものではなく、血の流れを少しでも止めるためです。それによって、十字架上で苦しむ時間が少しでも長く続くようにするためです。そして、数日間かけて苦しみながら死んでいくという処刑方法が十字架刑です。教会に十字架があるのは、そのイエス・キリストの死を表しています。
では、何故教会は十字架を掲げているのでしょうか。この十字架は何を意味しているのでしょうか。また、何故イエス・キリストは十字架に架かって死ななければならなかったのでしょうか。それは私たちの罪の身代わりとなられたからです。イエス・キリストの十字架は神の審きです。本当なら罪人である私たちが神の審きを受けなければならなかったのですが、その神の審きを代わりにイエス・キリストが受けてくださったのがイエス・キリストの十字架です。神は「あなたへの罪の審きは、イエス・キリストが身代わりとなって受けてくださったから、もう大丈夫だよ」と言ってくださっているのです。神は「あなたの罪を赦す」と約束してくださったのです。ですから、人はその神の約束を信じるだけで良いのです。イエス・キリストの死と葬りは、私たちの罪の赦しを表しているのです。ですから、人の行いは必要ないのです。何故なら、人の行いによって自分の罪は解決できないからです。神の約束を信じるだけで良いのです。

3)甦り
罪と死の問題が解決されますと、人は新たな望みをもって歩むことができます。それが第3グループの「甦る」「復活する」「生きる」ということです。イエス・キリストを信じ、神を信じても肉体的身体は死を経験します。ですが、死んだ後に必ず甦ることができます。何故なら、この世界を造られ人を造られた神が約束してくださっているからです。そのしるしとして、イエス・キリストは十字架につけられ死なれた3日後に、死の中から甦ってくださったのです。それがイースターです。イエス・キリストは、死に対して打ち勝たれた方です。人が絶望的に思える死に勝利されたのです。私たちに新しい望みある歩みを与えてくださったのです。人は死んで終わりではありません。死んだ後も甦ることができ、新しい歩みが備えられているという望みが与えられているのです。イエス・キリストは、私たちが新しい望みのある歩みをすることができるために、十字架に架かって死なれた後に甦られたのです。神は私たちにすばらしい新しい歩みを備えてくださっています。それは、イエス・キリストを信じるだけで良いのです。行いは必要ありません。
イエス・キリストにある新しい望みのある歩みは、死後のことだけではありません。生かされている今の時においても経験することができます。何故なら、死からの甦りというのは私たち人間には理解できないものです。しかし、神は歴史的事実としてイエス・キリストを死から甦らせてくださいました。それが意味するものは、神は人間の理解を超えた働きをなされるということです。そうであるならば、私たちが生かされている今の時においても、神は私たちの理解を超えた働きをなしてくださるということです。私たちには想像もしなかったこと、考えもしなかったことを神はすることのできる方です。
例えば、イスラエルの民がエジプトの国を出てカナンの地に向かっていた途中で、彼らは「肉が食べたい」と呟きました。そのことが民数記11章に記されています。神はモーセに「1ヶ月も肉が食べられる」と告げられました。その神のことばに対して、モーセは「徒歩の男性だけでも60万人です。羊の群れや牛の群れをほふられても、それは彼らに十分でしょうか。」と、神のことばを信じることができませんでした。何故なら、モーセがどれだけ考えても理解できなかったからです。それに対する神のことばが23節に「     」と書かれています。そして、31節に「さて、…宿営の近くに落とした。」と書かれています。
このことから教えられることは、「神はイスラエルの民のつぶやきを聞いてから備えられたのではない」ということです。31節の「主のもとから風が吹き」というのは、暖かい南風のことと考えられます。18節「明日に備えて身を聖別しなさい。」と神は告げられました。常識的に考えて、うずらがそんなに早く飛んでくることはありません。考えられることは、神はイスラエルの民の呟きを御存知の上で備えておられたということです。そして、その神の備えというのは私たちには全く分からないものです。私たちが生かされている今の時も、神は私たちの理解を超えた備えをして私たちを導いてくださることを知らされるのではないでしょうか。イエス・キリストの甦りは、私たちに望みのある新しい歩みを与えてくださるものです。決して死後だけではなく、今生かされているこの時もそうなのです。

結)
今日は、そのイエス・キリストが死から甦られた日です。そして、今日は今年度最後の日であり、教会の30周年の日です。明日から新年度が始まり、教会の歩みも31年目に入ります。「今までこうだったからこれからも」という考え方があります。その考え方は間違ってはいません。むしろ、そのような考え方は常識的だと思います。ですが、神のみわざは私たちの常識を超えたものでもあります。何よりも、イエス・キリストを死から甦らされた方だからです。それは、「『今までこうだったからこれからも』という考え方を捨てろ」というのではありません。ただ、それに拘り続けることも危険です。「そのバランス」と言いましょうか、「比重」と言って良いのかは難しいですが、「今までこうだったからこれからも」という考え方の中で、「でも神は」という視点を養われるように祈っていきたいものです。

マルコ1:21~39「イエス・キリストとは」 24.03.24.

序)
 今日は棕櫚の主日です。イエス・キリストがエルサレムの町に入られた日であり、今週の金曜日にイエス・キリストは十字架に架かり死なれました。そして、来主日はそのイエス・キリストが死から甦られたイースターです。そして、春日井教会が開拓30周年を迎える日でもあります。今日まで様々なことがありましたが、ここまで導いてくださいました神に感謝しつつ、その神の栄光をこれからも現わし続ける歩みとされたく願います。先週、私たちは「イエス・キリストの弟子になる」というのは、イエス・キリストに着いて行くことであり、自分の願いや思いよりも神の御心を優先する生き方をすることであると学びました。今朝の箇所で印象的なのは、様々な出来事が短く書かれていることではないでしょうか。今朝は、各々の短い箇所からイエス・キリストとはどのような方であるのかを共に教えられたいと願っています。

1)権威ある方
 イエス・キリストはどのようなお方であるのかの第1は権威あるお方です。今朝の箇所はマルコの福音書においては、最初のイエス・キリストの奇蹟が書かれている箇所です。それは悪霊を追い出し病気を癒すというものです。そのイエス・キリストに対して人々は驚きました。「何に驚いたのか」と言いますと、イエス・キリストの教えと奇蹟にです。奇蹟に驚くのは分かりますが、なぜ人々はイエス・キリストの教えに驚いたのでしょうか。それは22節に書かれていますように、「権威ある者」として教えられたからです。それは「話され方が違っていた」ということです。ユダヤ教指導者たちは「聖書は○○と語っています」とか、昔の偉大な人の引用などを用いて教えていました。それは当時のユダヤ教指導者だけではありません。旧約時代の預言者たちもそうでした。彼らも「主こう仰せられる」ということばを用いて語っていました。しかし、イエス・キリストは「わたしは言います」ということばで語られたのです。これは、イエス・キリストご自身が神であられることを示されていることばです。ですから、そのような権威あることばをもって話されていたのです。そのことに人々は驚いたのです。
 イエス・キリストは権威あるお方です。私たち一人ひとりに対して権威あるお方なのです。「私に対して権威あるお方」ということは、「私はそのイエス・キリストに聞き従う存在である」ということです。先週見ましたが、イエス・キリストは「わたしについて来なさい」と命じられました。「着いて行く」とは、「先に進む人を信頼することだ」とも話しました。ですが、それだけではありません。「着いて行く」とは、今の場所から離れることでもあります。ペテロたちにとっての今の場所は、きちんとした仕事もあり収入も計算できる場所です。それは安定しており心も落ち着く場所でもあります。それがペテロたちにとっての今の場所なのです。ですが、イエス・キリストは「その場所から離れて、わたしに着いて来なさい」と命じられたのです。そこには「必要なものは全てわたしが満たす」という前提があるのです。イエス・キリストを信頼して、イエス・キリストの権威を認めて従うことをペテロたちに求められたのです。
 そのイエス・キリストの求めは、今日の私たちに対しても同じです。私たちにもイエス・キリストを信頼し、イエス・キリストの権威を認めて従うことを求められているのです。それは、今の生活を捨てることを求めておられるのです。前にも話しましたが、「捨てる」というのは文字通りの「捨てる」ということではありません。「優先順位を入れ替える」ということです。優先順位が変わりますと価値観も変わってきます。そして、価値観が変わりますと生き方も変わってきます。どのような生き方に変えられるのかと言いますと、「神が何とかしてくださる」という生き方です。先日の分かち合いのときに、そのようなことを分かち合ってくださった方がおられました。そのことを聞きつつ、「確かにそうだな。私もそのように養われたいな!」と思わされました。イエス・キリストは権威あるお方ですから、私たちの歩みを何とかすることのできるお方です。

2)用いてくださる方
 イエス・キリストはどのような方であるかの第2は、私たち一人ひとりを用いてくださる方です。イエス・キリストは汚れた霊を癒されるとき、汚れた霊に対して「黙れ。この人から出て行け」と命じられました。すると、汚れた霊はイエス・キリストに従い、その人から出て行ったのです。ここに一つの疑問が生じます。汚れた霊はイエス・キリストのことを「神の聖者」と告白したのです。汚れた霊はイエス・キリストのことを「神から遣わされた者」と認めていたのです。しかし、イエス・キリストは汚れた霊に対して「黙れ」と命じられたのです。人々が恐れている悪霊がイエス・キリストのことを、「神から遣わされた者」と告白しているのですから、イエス・キリストの活動はもっとしやすくなるように思えます。でも、イエス・キリストはそれを拒まれたのです。何故でしょうか。
 この汚れた霊がイエス・キリストを「あなたは神の聖者」と答えた目的は何でしょうか。それは自分が滅ぼされないことです。言うなれば、自分を守るための告白です。この汚れた霊は、イエス・キリストが神から遣わされた存在であることを知っています。しかし、そのイエス・キリストに従う思いは全くありません。先程も話しましたが、この汚れた霊は自分が滅ぼされるのを免れるために、このような告白をしたのです。
 これと似た信じ方をされている方がおられます。「それはどのような信じ方か」と言いますと、「イエス・キリストを信じなければ罪は赦されず、神の審きを受けて天の御国に入ることができない」という信じ方です。この信じ方は間違ってはいません。確かにその通りなのです。しかし、この信じ方は自分を守るための信じ方です。「イエス・キリストを信じないと罪が赦されず、天の御国に入れないから信じる」というものです。ですが、聖書が語っている信仰は、自分を守るためのものではありません。神が与えてくださっている恵みに対して、正しく応答することが聖書の語っている信仰です。何度も話していますが、自分の罪が赦され天の御国に入ることができるのは、イエス・キリストを信じたことの結果であって目的ではありません。神が与えてくださる信仰の目的は、神の恵みに対して正しく応答して生きるためです。
 ですから、イエス・キリストは神に正しく応答することのない汚れた霊の告白を用いることはされなかったのです。では、イエス・キリストは何を用いようとされているのでしょうか。それはイエス・キリストを信じ従おうとする私たちです。私たちには汚れた霊のような力はありません。しかし、イエス・キリストはそのような私たちを用いてくださるお方なのです。何故なら、力があるかないかは関係ないからです。そのような力よりも、その人の信仰にイエス・キリストは関心を抱いておられるのです。そして、そのような信仰者と共にいて力を与えてくださるお方なのです。その力とは使徒の働き1:8で約束されていますように、イエス・キリストを証しする力です。証しとは、「神は私にどのようなことをしてくださったのか」というものです。証しをするとき臆することがあります。そのようなとき、「数えてみよ主の恵み」という賛美がありますように、神の恵みを数えて力が増し加えられるように祈っていきたいものです。イエス・キリストは、私たち一人ひとりを用いてくださるお方です。

3)祈ってくださる方
 イエス・キリストはどのような方であるかの第3は、祈ってくださる方です。35節に「     」と書かれています。イエス・キリストは忙しい日々を過ごされつつも、一人で祈る時間を持たれていたことが分かります。このとき何を祈られていたのかは、聖書に書かれていませんから分かりません。ですが、イエス・キリストの歩みを見るとき、福音宣教の前進と弟子たち一人ひとりのことを覚え祈られていたものと考えられます。ただ、祈りというのは自分の方から神に話しかけるだけではありません。「祈りは神との霊的会話」と以前にも話しました。会話というのは、自分が一方的に話すだけではありません。相手の話しも聞く必要があります。ですから、祈りとは自分の方から神に話すだけではありません。それは会話ではなく訴えです。あくまでも祈りは神との霊的会話ですから、神のことばに聞くことも大切です。
 それに対して弟子たちはどうでしょうか。37節に、ペテロは「皆があなたを捜しています」と、イエス・キリストに話しかけました。ここにイエス・キリストとの違いを見ることができます。イエス・キリストは父なる神の声を聞いておられましたが、弟子たちは群衆の声を聞いていたのです。弟子たちにとっては、神の声よりも群衆の声の方が優先していたのです。この弟子たちの姿を見るとき、「果たして自分はどうなのか」ということを考えさせられます。それは「私は神の声と周りの声のどちらを優先しているのか」ということにです。周りの声や社会の声に耳を傾けることは大切です。何故なら、私たちはその社会の中に生かされているからです。そして、その社会の中でキリスト者として証しする者として召されているからです。だからと言って、周りの声や社会の声が最優先されるものでもありません。私たちが最優先するものは神の声です。すなわち、「聖書はどのように語っているのか」です。そのことをきちんと聞き分ける力が養われるように祈っていきたいものです。
 ピリピ1:9~10に「あなたがたの愛が…見分けることができますように」と書かれています。以前にも話しましたが、9節の「識別力」と10節の「見分ける力」は違います。9節の「識別力」は、必要なものと不必要なものを区別する力のことです。そして、10節の「見分ける力」とは、その必要なものに優先順位をつけることです。言うなれば、整理整頓と同じです。整理とは必要なものと不必要なものを分けることです。そして整頓とは、必要なものを秩序立てて配置することです。秩序立てて配置するのですから、そこには優先順位が決まってきます。それをしないと部屋はゴチャゴチャになってしまいます。それがひどくなると、ゴミ部屋・ゴミ屋敷になってしまいます。私たちに必要なのは霊的整理整頓です。それをしないと、霊的ゴミ部屋・ゴミ屋敷になってしまいます。
 イエス・キリストは祈っておられました。何を祈られたのかは分かりません。多くのことを祈っておられたものと思われます。今日は最初にも話しましたが「棕櫚の主日」です。そして、今週の金曜日はイエス・キリストが十字架に架かられた受難日です。イエス・キリストが十字架に架かられる前夜、最後の晩餐のときにイエス・キリストがペテロに語られたことが、ルカ22:31~32に「     」と書かれています。イエス・キリストは、このあとペテロのどのような行為をするのかを御存知でした。そのペテロのために祈られていたのです。何を祈られたのかと言いますと、ペテロの信仰がなくならないように祈られたのです。そのイエス・キリストは、私たち一人ひとりのためにも祈ってくださっています。あまりにも大きな試練のために信仰を捨ててしまうような経験をすることがあるかもしれません。ですが、イエス・キリストは私たち一人ひとりのために祈ってくださっているのです。そして、イースターの日に死から甦られたのです。それは、私たちがそのイエス・キリストにあって生きる者となるためです。そのために、イエス・キリストは祈ってくださっているのです。

結)
 イエス・キリストは福音を伝えるために汚れた霊を用いることはされませんでした。周りの人々の関心は、病気の癒しや汚れた霊を追い出すことでした。ですが、イエス・キリストは人々が関心を持つような方法をとられなかったのです。イエス・キリストがとられた方法は、イエス・キリストを信じる一人ひとりを用いることだったのです。弟子たちは、霊的整理整頓がなされていたわけではありません。でも、そのような弟子たちをイエス・キリストは用いられたのです。そして、従い続けることによって霊的整理整頓が養われていったのです。イエス・キリストとは、見捨てる方ではなく生かし用いてくださるお方です。

マルコ1:16~20「わたしについてきなさい」 24.03.17.

序)
 先週は、イエス・キリストの公生涯を始められた箇所から、神のみわざと人の応答について見ました。そして、そのことから「神に委ねて従う」ということの大切さを学びました。今朝の箇所は、イエス・キリストがご自分の弟子たちを選ばれた最初の箇所です。その後も弟子たちを選ばれたことが記されている箇所があります。今朝は、イエス・キリストの弟子になるとはどういうことかを共に教えられたいと願っています。

1)イエスの選び
 イエス・キリストが公生涯を始められて最初にしたことは、ご自分に着いてくる人の選びです。その選びにおいて注目したいことばがあります。それは16節と19節に書かれています「ご覧になった」ということばです。この「ご覧になった」ということばは、「ただ漠然と見ていた」とか「目の中に彼らが写った」ということではありません。これは「よく観察された」という意味を含んだことばです。イエス・キリストは、ご自分に着いてくる人をよく観察されて選ばれたのです。召し出されるイエス・キリストは、よく見ておられる方であることを表しているのです。何処で生まれ、どのように育ち、どのような人間であるかを御存知なるお方なのです。外見的なことだけでなく、内面的なこと全てを御存知なるお方なのです。彼らの特技や長所だけでなく、弱さや短所も御存知なるお方なのです。
 私たちも、そのイエス・キリストによって選ばれ救われた者です。私たちが選ばれ救われたということは、私たちの長所や短所の全てを御存知の上で選び救ってくださったということです。イエス・キリストは、あなたが何処で生まれ、どのように育ち、どのような人であるのかを御存知なるお方なのです。その全てを知った上で、あなたを選び救ってくださったのです。私たちは何かを行うために選ぼうとするとき、何を基準として選ぶでしょうか。多分、そのことを上手に果たすことができる能力を持っている人を選ぶのではないでしょうか。それが私たち人間の選びの基準です。しかし、イエス・キリストはそのような基準で人を選ばれたのではありません。能力があるかないか、性格が良いか悪いかなどを基準として選ばれたのではありません。ただ、ご自身の愛と憐れみによって弟子たちを選ばれたのです。その選びは、私たちも同じです。私たちの選びもそうです。私たちの中に何か優れたものがあるからではなく、一方的なイエス・キリストの愛と憐れみによって選ばれたのです。まず何よりも、私を愛し憐れんでくださったことに感謝したいものです。

2)イエスの求め
 イエス・キリストは、シモンとアンデレをご覧になって「わたしについて来なさい」と言われました。この「シモン」とはペテロのことです。また、ヤコブとヨハネに対してもお呼びになられました。イエス・キリストが求めておられるものは、「わたしについて来なさい」というものです。この「わたしについて来なさい」ということばは、何を表しているでしょうか。「わたしについて来なさい」というのですから、「わたしの前を歩きなさい」ということではないのは確かなことです。スーパーでバイトをしていますと、客から商品の場所を尋ねられることがあります。知っていれば「こちらです」と言って案内します。すると、客は私の後について来られます。決して、私の前を歩くことはありません。何故なら、「店員は知っている」と分かっていますから着いて来られるのです。すなわち、私を信頼しているということでもあります。
 イエス・キリストが「わたしについて来なさい」と話されたのも同じです。それは「わたしを信頼しなさい」ということです。すなわち、「わたしを信じなさい」ということです。もし、イエス・キリストを自分の後ろに置いたらどうなるでしょうか。店員に商品の場所を聞きながら、自分が先に進んだら違う通路に入ってしまいやすくなります。そして「間違った」と気づいて店員の所にもどる羽目になります。イエス・キリストを自分の後ろに置いて、自分が先に進むことも同じです。それは自分が困ったときにだけ神に助けを求めるものです。まさしく「困ったときの神頼み」です。普段は神よりも自分で、その自分が困ったときにだけ神に祈るというものです。
 では、イエスの前や後ろではなく横だったらどうでしょうか。それはイエス・キリストと自分を同等に置くことになってしまいます。ここにも、イエス・キリストに従うという姿勢はありません。イエス・キリストを自分の後ろや横に置く生活は、イエス・キリストに従うことをしない生活でもあります。そのため、信仰はことばや思いだけになってしまい、実際の生活には少しも関わりのないものとなってしまいます。そして、最悪なのは自分の思いを優先して上手くいったとき、「神はこのようなことをしてくださった」と、信仰的なことばを用いることです。でもそれは、神を利用しているだけで「従う」という思いはありません。
 イエス・キリストは、「ご自分をあなたの後ろや横に置きなさい」と求められたのではなく、自分をイエス・キリストの後ろに置いて着いて来ることを求められたのです。何故なら、「それがイエス・キリストを信じる」ということだからです。先週見ましたが、イエス・キリストは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。自分の今までの歩みを悔い改めて、イエス・キリストを信じて従うことを求められました。先週の礼拝でも触れましたが、「信じる」とは「信じ続ける」ということです。イエス・キリストの後ろに着いて従い続けることが、私たちに求められているのです。

3)人の応答
 イエス・キリストは「わたしについて来なさい」と言われました。それに対して彼らはどうしたでしょうか。18節と20節に「すると」と書かれています。これは彼らの反応を表しています。イエス・キリストに呼び出された彼らは、仕事を捨て家族を残して従ったのです。この「捨てる」も「残す」も意味合い的には同じです。これは「今まで一番であったものが一番ではなくなった」ということです。では、「何が一番になったのか」と言いますとイエス・キリストです。「仕事を捨てる」とは何でしょうか。仕事は自分の生活を支えるものです。仕事があるから、自分たちの生活が支えられているのです。ですから、仕事は自分の生活を支えるものであり、一番より頼むものでもあります。でも、それを捨てるということは、自分の生活を支えるものは仕事ではないということです。では、何が自分の生活を支えるのでしょうか。それはイエス・キリストです。聖書は彼らの反応を通して、そのことを読者である私たちに語っているのです。「あなたが一番愛するものは家族ではないし、あなたが一番頼りとするのは仕事ではなく、イエス・キリストである」と語っているのです。その聖書のことばに、どのように応答するかを私たちに迫っているのです。
 皆さんはどうでしょうか。そのように迫られたらどのように反応されるでしょうか。「いや、そこまでは」と言われるでしょうか。確かにそうです。ためらってしまうのが当然です。ですが、聖書をよく読むとペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネらは、甦られたイエス・キリストと再会したあと何をしていたでしょうか。彼らは漁師の仕事をしていたのです。すなわち、漁師の仕事を捨ててはいなかったのです。ルカ5:27からは、「レビ」という取税人がイエス・キリストと出会ったことが書かれています。この「レビ」とはマタイのことです。28節には、彼は全てを捨ててイエス・キリストに従ったことが書かれています。聖書は「レビは全てを捨ててイエスに従った」と語っているのです。ところが、29節以降を見ますと、そのレビは「イエスのために盛大なもてなしをした」と書かれています。皆さんは、これを読んで不思議に思われないでしょうか。それは「何故すべてを捨てた人が盛大なもてなしができるのか」ということに。では、レビは全てを捨てていなかったのでしょうか。ですが、聖書は「全てを捨てた」と語っているのです。では、聖書が語っていることは間違っているのでしょうか。レビは文字通りすべてを捨てたわけではありませんが、用い方を全て捨てたのです。どういうことかと言いますと、「今までは自分のために用いていたものを全て捨てて、イエス・キリストのために全てを用いることにした」ということです。要は、優先順位が変わったということです。今までは仕事や家族が最優先だったのですが、それらが最優先ではなくなりイエス・キリストに従うことが最優先になったということです。それは今朝の箇所の彼らも同じです。実は、それが献身なのです。
 献身とは、今までの仕事を辞めて牧師や宣教師になることではありません。イエス・キリストは、そのようなことを求めてはおられないのです。確かに、個人的にそのように導かれてなられる方々もおられます。ですが、それだけがイエス・キリストに従うということでもないのです。自分に与えられているものをイエス・キリストのために用いることが献身なのです。その献身を神は私たちにも求めておられるのです。仕事も家族も神から与えられたものです。ですから、それらを大切にすることは間違ってはいません。しかし、神よりもイエス・キリストよりも優先されるものでもないということです。私たちが最優先にすべきものはイエス・キリストです。

結)
 バプテスマのヨハネは荒野に現れて宣べ伝えました。ひょっとしたら、マルコはこの「荒野」も文字通りの荒野ではなく、霊的荒野を表しているのかもしれません。イエス・キリストがこの世に来られた時代も霊的荒野でした。そのような時に、イエス・キリストは彼らを選ばれたのです。そして、現代も不安の多い霊的荒野の時代です。そのような時代に私たちはイエス・キリストによって選ばれた一人ひとりです。そして、イエス・キリストは私たちにも「わたしについて来なさい」と呼びかけておられます。人は大切なものは力を込めて「ぎゅっ」と握りしめます。ですが、その力を緩めて手を開かない限り、それ以上のものを掴むことはできません。その決断が私たちに問われているのではないでしょうか。「わたしについて来なさい」というイエス・キリストのことば。深く噛みしめたいものです。

マルコ1:14~15「福音を信じる」 24.03.10.

序)
 先週私たちは、神の導きによって苦しみは与えられるものであり、その経験を通して神のすばらしさを知るためであることを学びました。そして、神はその苦しみからの脱出の道をも備えてくださっていることを見ました。神は私たちのために、様々な備えをして導いてくださるお方です。今朝はその神のみわざと、その神のみわざに対する人の応答について共に教えられたいと願っています。

1)神のみわざ
 神のみわざの第1は「時が満ちた」ということです。「満ちた」というのは、初めから定められていたことを意味することばです。すなわち、「ここまで」というのがすでに定められているのです。例えば、お腹が空いてご飯を食べます。すると、お腹はいっぱいになります。人によって食べる量は異なりますが、「限界」というのは初めに一人ひとりにあります。そのようなもので、「満ちた」というのはすでに定められていることを表しています。では、何が満ちたのでしょうか。それは、時が満ちたのです。この「時」というのは、神が定められた時のことです。要は、「神が定められた時が満ちた」ということです。伝道者の書3:1~8には、全ての営みには時があることが書かれています。神は苦しみの時も備えておられますし、その苦しみからの脱出の時も備えておられます。そして、イエス・キリストの生涯の時も父なる神は定めておられたのです。その神は、私たちの生涯の全ての時も定め備えておられるのです。そして、その最善の時に最善のことをしてくださるのです。私たちには、その「神の時」は分かりません。しかし、神はすでに最善を備えてくださっているのです。そのことを信じて神と共に歩み続ける者とされるように祈っていきたいものです。
 そして、今朝の箇所に書かれています「時」というのは、旧約聖書に約束されています「救いの時」のことです。以前、使徒の働きのエルサレム会議の箇所で触れました。申命記29:1の最後に「ホレブで…別である」と書かれています。ホレブで結ばれた契約とは十戒のことです。それとは違う新しい神の契約が語られているのが29章以降のことです。そして、30:6に「心に割礼を施し、生きるようにされる」と語られています。「心に割礼を施す」とは、心からの悔い改めることです。そのとき、エレミヤ9:25~26の箇所も触れました。神は「包皮に割礼を受けている者を罰する」と言われています。何故なら、「心に割礼を受けていないから」です。それは心から悔い改めていないからです。すなわち、「肉の割礼ではなく心の割礼を受けている者が赦される時代が来る」ということが示されています。
 その時が来たのがイエス・キリストの誕生の時です。以前、クリスマスイヴ礼拝で今年の漢字から話をさせていただきました。その時の漢字は東西南北の「北」でした。いつ話したかを調べてみましたら2017年でした。この年は北朝鮮のミサイルや核実験、九州北部の豪雨、さらに北海道のじゃがいもの不作などにより、「北」という漢字が多かったようです。その「北」とクリスマスはどのような関係があるのかと言いますと、「ごじつけですが『神の救いの約束がきたー』というのがクリスマスだ」と話したのを覚えておられるでしょうか。クリスマスは、神の救いの約束の時が満ちたことを表しているのです。そして、今朝の箇所の「時が満ち」というのもそうです。「神の救いの約束の時が満ちた」ということです。
 神のみわざの第2は、「神の国が近づいた」ということです。これは、神の方から働きかけられたことを表しています。決して、人間の方から神に近づいたのではありません。そして、この「近づいた」というのは、距離的なことではなく関係的な距離が近づいたということです。現在日韓関係は良いものとなっていますが、昔は日本と韓国は「近くて遠い国」と言われていました。それは「距離的には近いが関係的には遠い」ということです。神と人との関係も同じように遠い関係だったのです。しかし、イエス・キリストが来られたことによって、その神と人との関係も近くなったのです。神は私たちとの関係をより良いものとするために、わざわざご自身の方から働きかけてくださったのです。それがイエス・キリストの誕生です。「神の働きかけによって、人は神とのより良い関係が近づいた」とイエス・キリストは話されているのです。

2)人の応答
 イエス・キリストは神のみわざを話されたあと、今度は神のみわざに対する人の応答を話されています。その第1は悔い改めることです。悔い改めとは後悔することではありません。悔い改めと後悔は全く違います。後悔は自分が過ちを犯した結果を反省し、これからは同じ結果を出さないようにすることです。後悔は結果に対するものです。ですから、自分が進む方向は変わってはいません。同じ方向に進みますが、同じ結果を出さないように心がけるのが後悔です。ですが、悔い改めは結果ではなく原因に目を向けさせます。そして、進むべき方向が変えられることが悔い改めです。それは今までと正反対な生き方に変えられるということです。ですから、悔い改めと後悔とは全く異なるものです。
 では、イエス・キリストはここで何を悔い改めることを勧めておられるのでしょうか。自分の罪を悔い改めることでしょうか。確かにその通りです。では「罪」とは何でしょうか。多くの人は「私は罪など犯していない」と信じています。私たちもそうだったのではないでしょうか。聖書が語る罪とは、神を神と認めずに、自分勝手に歩み自分の欲求が満たされることを最優先することです。神はこの世界を造られ人を特別な存在として造られました。そして、人を特別に愛し導いてくださっています。そのことを人は認めようが認めまいが事実です。その事実を認めず受け入れないで、神を神と認めず自分優先に生きることが罪なのです。何度も話していますが、自分を生み愛し育ててくれた人を親と認めない。ですが、法律を犯すわけでもなければ法律に罰せられることはありません。ですが、自分を生み愛し育ててくれた人を親と認めないのは間違いです。これが聖書の語る罪です。そのような生き方を悔い改めることをイエス・キリストは勧められているのであり、それが聖書の語る悔い改めです。
 そのイエス・キリストが語られている悔い改めに必要なことが3つあります。その第1は、自分が神に対して罪を犯している事実を認めることです。この事実を認めなければ悔い改めることはできません。第2は、その事実を神に告白し、その罪の赦しを願うことです。きちんと自分の口で神に告白することです。第3は、神を神として受け入れ、その神に対して生きることを決意することです。この決意が悔い改めには必要なのです。
 キリスト者とは自分の罪を悔い改め、神の御心を最優先にして生きようと決意した人のことです。私たちは「自分がキリスト者である」と信じているなら、「自分の願いや思いよりも、神の御心を優先して生きることを決意した」というのを覚え続ける必要があることに気づかされます。そうでないと、信仰を自分勝手に用いてしまうようになります。その生き方を具体的に言えば、キリストの身体なる教会を優先することです。私たち一人ひとりには自分の生活があります。その中で何を優先して選び取っていくのかです。自分の生活に教会行事を合わせるのか、それとも教会行事に自分の生活を合わせるのかです。そのことを私たちは祈りつつ選んでいく必要があります。
 人の応答の第2は、福音を信じることです。福音を信じるとは、神のみことばを信じることであり、神に信頼することでもあります。その神を信頼するには幾つかのことが必要です。その1つは神を知ることです。バプテスマクラスや入会クラスで学ばれたと思います。信仰とは感情ではありません。事実を事実として認め受け入れることです。それには神についての知識が必要です。それは、「私が信じる神とはどのような方であるのか」という知識です。日本のことわざに「いわしの頭も信心から」というのがあります。これは「信じる対象は何でも良く、信じる心が大切である」というものです。だから、石や木が神になるのです。ですが、石や木が何かできるわけではありません。何もできないのです。そのようなものを信じても空しいだけです。でも、それを信じるならば、お菓子やおもちゃでも神になり得るのです。しかし、聖書は「いわしの頭も信心から」というのを否定しています。何故なら、信じる対象がどのような方であるかを知るのは大切なことだからです。では、私たちが信じる神はどのような方でしょうか。それは世界を造られ人を造られた方です。さらにあなたを愛され、あなたの罪を赦すためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、身代わりとなって神の審きを受けさせてくださった方です。さらに、私たちといつも共にいてくださり、私たちの歩みの全てを守り導いてくださっている方です。私たちが信じている神はそのようなお方なのです。
 神を信頼するに必要な2つ目は、その神を受け入れることです。私たちは神の全てを知ることはできません。何故なら、神は私たちの理解を遥かに超えたお方だからです。そのように聞かれますと、「だったら、神を知ることなどできないではないか!」と思われるかもしれません。私たちは神の全てを知る必要はないのです。今までに得た知識によって、自分が神に対して罪人であることを認め、その私のために神はイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを備えてくださったことを知り、その神を受け入れることです。その神を受け入れることが信仰です。
 ですが、信仰は神を受け入れるだけではありません。その神に委ねることも信仰です。それが神に信頼するに必要な3つ目です。どれだけ神を知り受け入れても、その神に委ねることをしなかったら何の意味もありません。そして、神に委ねるとは「神に聞き従う」ことでもあります。私たちは病気をしたら病院に行き診察してもらいます。そして、その医師の指示に従うのではないでしょうか。また、薬を出され薬局に行けば薬剤師の指示に従います。その医師や薬剤師の指示に従わずに、自分で勝手に判断し行動を起こしたらどうなるでしょうか。答えは明白です。治る病気も治らないということです。委ねるとは従うことです。それがたとえ自分の思いと違っていたとしても、聞き従うことが神に委ねるということです。そうしないと、神が最も嫌われている自分中心の生活になってしまいます。

結)
 神は私たちが神に祝福される歩みをするために、イエス・キリストをこの世に送り十字架へと導き、死から甦らせてくださいました。神は私たちとより良い関係を築くために、様々な備えをしてくださいました。イエス・キリストは「信じなさい」と話されました。それは「信じ続けなさい」ということです。「あの時に信じる決心をしたからそれで良い」というのではありません。その信じたこと・決意したことを継続することが私たちに求められているのです。何よりも「委ねる」ということに私たちは弱さを覚えます。その「神に委ね従う」ということが、さらに養われるように祈っていきましょう。

マルコ1:9~13「苦しみとは」 24.03.03.

序)
 ある方は「宗教とは苦しみから解放してくれるもの」と思われています。そのような方は、「神を信じたら今の苦しみから解放される」と思われ、それを「救い」と捉えておられます。しかし、聖書は「神を信じるが故に苦しみを経験する」と語っています。そのように聞かれると、「そんな宗教なんて」と言われる方もおられます。ですが、キリスト教はその苦しみの捉え方を変えるものです。今朝は、イエス・キリストが経験された箇所から、苦しみについて共に教えられたいと願っています。

1)御霊による苦しみ
 9節の初めに「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは「何時か」と言いますと、その前に書かれていましたバプテスマのヨハネが活動をしていたときのことです。このバプテスマのヨハネは、3節に書かれています「荒野で叫ぶ者」であり、人々に悔い改めを叫んだ人です。そのバプテスマのヨハネから、イエス・キリストはバプテスマを受けられ、その後に御霊によって荒野に追いやられたのです。「追いやられた」とは「無理やりに」とか「強制的に」という意味です。すなわち、イエス・キリストご自身の決断によって荒野に行かれたのではないということです。御霊の導きによって、イエス・キリストは荒野に行くこととなったのです。
 この出来事は、先日の学び会で見ましたパウロの第2回伝道旅行の出来事と似ています。パウロとシラスは、アジア地方でみことばを語るのを禁じられ、ビティニア地方に行こうとしましたら、また御霊が許されなかったのでトロアスの町に行きました。すると、そこでパウロはマケドニアの叫びの幻を見て、マケドニア地方に行くことになりました。マケドニア地方に行くことは、パウロの当初の予定にはありませんでした。パウロらは現代のトルコの地方での伝道活動を予定していたのですが、聖霊が許さずマケドニア地方へと導いたのです。そして、彼らはピリピの町に行きますと「リディア」という女性に出会います。今までは「ルデヤ」と訳されていましたから、皆さんはそちらの名前の方が分かりやすいかもしれません。その後、彼らは捕らえられ鞭で打たれて牢に入れられてしまいます。彼らは聖霊の導きによってピリピの町に行ったのです。ですが、そこで待ち伏せていたものは苦難だったのです。彼らは「何故?」と思ったかもしれません。当然と言えば当然の思いです。聖霊によって導かれたのですから、より良いものが備えられているのなら分かりますが、備えられていたものは苦難だからです。聖霊による導きであっても苦難を経験することはあるのです。
 イエス・キリストもそうです。御霊によって荒野に強制的に導かれたのです。そして、そこでサタンの誘惑を受けられたのです。「誘惑」というのは心が動かされることでもあります。そのように聞かれますと、「イエス・キリストも心を動かされたのか」と思われる方もおられるかもしれません。イエス・キリストも心を動かされたのかどうかは分かりませんが、人としてのイエス・キリストを思い描きますと、そのような経験をされたのかもしれません。今朝の箇所で注目したいことの1つは、イエス・キリストは神の導きによって苦難を経験されたということです。
 ある方は「苦難に会うのは何か悪いことをしたから」という、因果応報的な考え方を持たれる方がおられます。イエス・キリストの弟子たちもそのような考え方をしていました。そのことがヨハネ9:1~3に「     」と書かれています。彼らは生まれながら目の見えない人に出会ったとき、イエス・キリストに「先生…両親ですか」と質問したことが2節に書かれています。この捉え方は、まさしく因果応報的です。それに対して、イエス・キリストは3節で「この人が…現れるためです」と答えられました。イエス・キリストは「この苦しみは神によって与えられたものであり、その目的は神のすばらしさが現わされるためである」と話されたのです。私たちも苦難を経験します。その経験する苦難は、「不信仰だから」とか「何か悪いことをしたから」というものではなく、神の導きによってなされたものです。その目的は、そのことを通して神のすばらしさを知るためであることを覚えたいものです。

2)神の備え
 イエス・キリストは御霊に導かれてサタンの誘惑を受けられましたが、13節の最後には「御使いたちが仕えていた」と書かれています。これは「御使いがイエス・キリストに仕えていたから、イエス・キリストはサタンの誘惑に勝たれた」というのではありません。ヘブル1:14に「     」と書かれています。御使いは、主を信じる人々に仕える存在なのです。私たちが御使いに仕えるのではなく、御使いは私たちに仕える存在なのです。その御使いは、神であられる主から遣わされた存在ですから、「御使いが仕える」というのは、主が共におられることを意味しているのです。すなわち、「御使いが私に仕えている」というのは、「主が私と共におられる」ということなのです。
 私たちは信仰が与えられても苦しみを経験します。ですが、その苦しみは決して自分一人ではなく、主が共にいてくださっているのです。その苦しみを通して、ご自身のすばらしさを現してくださるのです。Ⅰコリント10:13に「     」と書かれています。神は私たちに耐えられない苦しみに遭わせられることはされないのです。むしろ、脱出の道を備えてくださっているのです。何故なら、神が共にいてくださっているからです。今、苦しみを経験されている方がおられるかもしれません。それはとても辛いものであり、「少しでも早く解決されたい」と願われていることと思います。そのように願うのは悪いことではなく当然のことです。でも、その苦しみは耐えられないものではないのです。神は「あなたは耐えることができる」と知っておられるから、その苦しみを許されているのです。そして、必ずその苦しみから抜け出す道を備えてくださっているのです。私たちにとって大切なのは、「神が共にいてくださり全てを備えてくださっている」というのを覚えることです。
 そのようなことは分かりつつも、神の備えに目を向けられないのが私たちでもあります。少しでも、その神に目を向けられるようにするにはどうすれば良いでしょうか。何度も話していますが、みことばに耳を傾けつつ祈るしかありません。これは、「苦しみに遭遇したときに、みことばに耳を傾けて祈れば良い」というのではありません。日々の生活の中でそのことを実践していないと、突然のときに実践することはできません。身体に染みつかせないとできないものです。それは車の運転と似ています。免許を取得しても、全く車を運転していませんと運転することに不安を覚えます。頭の中では分かっているのですが、身体は力加減をすっかりと忘れてしまっていますから、すぐに運転するのが難しいのです。この準備をしているとき、先日の会話を思い出しました。私は45年程前に上司から「毒劇物取り扱いの試験を受けるように」と言われ、会社の同僚と2人で講習会に出て、仕事が終わってから一緒に勉強したりしていました。感謝なことに合格することはできました。その後、献身へと導かれ退職しました。それからはもう全く扱っていません。先日、「私は毒劇物取り扱いの免許を持っているのですが更新はあるのですか」と尋ねたところ、「ありません」という返事でした。ですから、その免許は今も有効なのですが、絶対にしてはいけないことです。何故なら、もう全く覚えていないからです。
 信仰生活も同じです。頭の中でどれだけ理解していたとしても、日々の生活の中でみことばに耳を傾けて祈ることをしていないなら、何かあったとき実践することはできません。「いや、そんなのできます」と思われる方がおられるかもしれません。ですが、できないのです。何故なら、できないから神はみことばを私たちに与えてくださり、祈り方をも教えられたからです。「神がいつも共にいて守り導いてくださり、苦しみに対しても脱出の道を備えてくださっている」という神の臨在を覚えるには、日々の生活の中でみことばに耳を傾けて祈る生活が大切なのです。

結)
 イエス・キリストご自身は、御霊の導きによって苦しみを経験されました。それは、神を信じる者であっても苦しみを経験することを表しています。私たちは神を信じている者ですが苦しみを経験します。しかし、その苦しみの中にも神は共にいてくださいます。では、何のために苦しみを経験するのでしょうか。それは、その苦しみを通して神のすばらしさを知るためです。苦しみは神の審きではありません。自分の弱さを知ると同時に、そのような私を愛し守り導いてくださっている神を知るためです。神はどのようなときにおいても、私たちと共にいて守り支え導いてくださるお方です。そして、脱出の道をも備えてくださっているお方です。私たちが経験します苦しみは、その経験を通して神のすばらしさを知るために与えられているのです。苦しみから解き放たれるのを願うのは悪いことではありません。そのことを願いつつ、脱出の道を備えてくださっていることも覚えられるように祈っていきましょう。

マルコ1:1~8「しもべのしもべ」 24.02.25.

序)
 今までは使徒の働き13章始まりましたパウロの第1回伝道旅行とエルサレム会議を見てきました。今日から当分の間は、マルコの福音書から学んでいきたいと考えています。予定としましては4章までとして、4章が終わりましたら使徒の働きの続きを共に学んでいく予定をしています。
 さて、マルコの福音書は「福音書の中では最初に書かれた手紙である」と言われています。このマルコの福音書は、イエス・キリストの誕生については書かれておらず、バプテスマのヨハネの宣教活動から書かれています。そして、イエス・キリストの教えよりも、イエス・キリストの行為の方に重点が置かれている手紙です。これがマルコの福音書の特徴の一つです。それは、仕えるイエス・キリストの姿でもあります。仕えるとは、しもべの姿でもあります。すなわち、マルコの福音書には、しもべとしてのイエス・キリストが描かれているのです。そして、私たちにもしもべとして生きることが訴えられている手紙でもあります。その初めとして、バプテスマのヨハネのことが記されているのです。今朝は、このバプテスマのヨハネを通して、仕えることについて共に教えられたいと願っています。

1)バプテスマのヨハネ
 まず、バプテスマのヨハネについて見てみたいのですが、1節に「     」との書き出しで始まっています。これは、「イエス・キリストに着いて語られた福音」と理解することもできますし、「イエス・キリストが語られた福音」とも理解することができます。また、「その両方」と理解することもできます。どちらにしろ中心はイエス・キリストです。すなわち、マルコの福音書は「イエス・キリストが福音の中心である」ということです。そして、2~3節は旧約聖書からの引用が書かれています。それは「神であられる主の道を整えるために一人の人が遣わされる」をいう預言です。その働きは、「主が来られる前に道を整えておく」というものです。どういうことかと言いますと、人の心を主に向けさせる備えをするということです。この主から遣わされる一人の人は、「わたしの使い」と書かれていますように、主のしもべとして遣わされるのです。「そのしもべとして遣わされたのがバプテスマのヨハネである」とマルコの福音書は語っているのです。
 先程、「マルコの福音書はイエス・キリストの誕生について書かれていない」と話しましたが、バプテスマのヨハネの誕生についても書かれていません。バプテスマのヨハネの誕生は何処に書かれているでしょうか。ルカの福音書1章に書かれています。彼は祭司ゼカリヤとエリサベツの子として誕生しました。その誕生は神のみわざによるものでした。最初からバプテスマのヨハネは神から選ばれた人でしたし、系図としてはイエス・キリストと親戚関係でもありました。そのヨハネについて、ルカ1:15~17節には「     」と書かれています。特に16節には「     」と書かれています。ですから、人の目を神に向けさせることが、バプテスマのヨハネに与えられた務めなのです。
 マルコの福音書に戻りますが、1:3は欄外にも書かれていますように、イザヤ40:3からの引用です。イザヤ書39章には、神が南ユダ王国を滅ぼされることが告げられています。イスラエルの民は、神の民として神と交わりを持っていました。しかし、彼らはその神よりも偶像の神々を拝むようになって神との関係を悪化させてしまい、最後にはバビロニア帝国に滅ぼされ捕囚として連れて行かれます。そして、神との交わりも途絶えてしまいます。しかし、その後に再び神との交わりが回復されることが預言されているのが40章なのです。イスラエルの民は、バビロニア帝国に滅ぼされてから他の国々に支配されていました。イスラエルの民は「これは神の審き」と思っていたのです。そして、「いつか他国の支配から解放されるときが来る」と信じていたのです。その初めに「しるし」とされているのが、荒野で叫ぶ者の声なのです。ですから、イスラエルの民は荒野で叫ぶ人をずっと待ち望んでいたのです。その荒野で叫ぶ人がバプテスマのヨハネだったのです。ですから、バプテスマのヨハネという人は、旧約聖書と新約聖書の橋渡し的な役目をしている人でもあるのです。

2)ヨハネの宣言
 そのバプテスマのヨハネについて、4節に「荒野に現れ…宣べ伝えた」と書かれています。皆さんは、この光景をどのように描かれているでしょうか。荒野ですから、ひょっとしたら誰もいない所かもしれません。そのような所で、バプテスマのヨハネは大きな声で空に向かってはなったような状況を思い浮かべられるでしょうか。この「宣べ伝えた」というのは、誰かに伝えていることを表しています。誰もいない所で「宣べ伝えた」とは言いません。ルカ3:2に「     」と書かれています。バプテスマのヨハネが荒野に居るとき、神のことばがバプテスマのヨハネに臨みました。すると、バプテスマのヨハネは3節に「ヨルダン川…宣べ伝えた」と書かれています。すなわち、バプテスマのヨハネは誰も居ない荒野にて大声で声を発したのではありません。多くの人が居る所に出て行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのです。
 では、その内容はどのようなものでしょうか。5節に「     」と書かれています。ここに「自分の罪を告白し」と書かれています。何故、人々は自分の罪をバプテスマのヨハネに告白したのでしょうか。それは、バプテスマのヨハネが人の罪深さを見たからです。ルカ3:7に、バプテスマのヨハネが群衆に語ったことばが書かれています。彼は群衆に向かって「まむしの子孫たち」と言ったのです。これは「蛇の子孫」ということです。創世記3章には、人間が蛇の誘惑によって堕落したことが書かれています。誤解されないようにしていただきたいのですが、蛇がサタンではありません。サタンが賢い蛇を利用したのです。ですから、蛇も「被害者」と言えば被害者なのです。残念なことに、蛇はサタンの手下のように思われているのが現状ではないでしょうか。何よりも神は蛇に対して、15節で「     」と言われました。この「おまえ」とは蛇のことであり、サタンを指して言われたものです。バプテスマのヨハネは、人がサタンの側についているように見えたのです。何故なら、人はいつも自分の欲求を満たすことしか考えない自己中心な存在だからです。
 時代が変わりますと文化が変わります。そして、文化が変わりますと価値観も変わってきます。この前テレビで放映されていましたが、若い社員が「電車に乗り遅れたので遅れます」とのLINEを上司に送りますと、「了解しました。」という返事が届きました。すると、この若い社員は「怒っている」と受け取ったらしいのです。何故かと言いますと、最後に「。」が付けられているからです。他の若い人たちも「。」があると「冷たく感じる」という答えでした。これを「○ハラ」と言うらしいのです。若い人たちにとってLINEはメールではなく、会話感覚で使っていますから、そのように思えるのかもしれません。「私も注意しないと」と思わされました。
少し話しが反れましたが、文化が変わると価値観も変わりますが決して変わることのないものが2つあります。その1つは人の心です。エレミヤ17:9に「     」と書かれています。今までの聖書は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳されていました。「直らない」と「癒しがたい」とは、少しニュアンスが違ってきます。「直らない」とは、「絶対に変わることがない」というのを意味しています。ですが「癒しがたい」とは、「僅かな可能性であるか変わる」というのを意味しています。新改訳聖書2017の方は、そちらの方を採用しているように思えます。「その僅かな可能性はどこにあるのか」と言いますと、神のわざにあり神の憐れみや恵みにあるのです。人の価値観はなかなか変わりにくいものですが、神の憐れみと恵みによって変えられるのです。しかし、その神の憐れみと恵みを受け取らない限り、人は決して自分の価値観を変えることはできないのです。バプテスマのヨハネは神の憐れみと恵みを受け取っていない人たちを見て、変わることなく自己中心のままで歩む人たちを「まむしの子孫たち」と語ったのです。
 また、バプテスマのヨハネは人の罪深さを見ただけでなく、世の終わりをも見据えていました。ルカ3:9に「     」とバプテスマのヨハネは語ったことが書かれています。これは世の終わりのことを示しています。何にしても初めがあれば終わりがあります。創世記1:1に「     」と書かれています。初めがあるのですから、必ず終わりもあるのです。私たちは、神が初めに世界を造られたと信じているのなら、必ず世界の終りもあることに目を向ける必要もあります。その世の終わりのときに神の審きが行われるのです。ヘブル9:27に「     」と書かれています。人間は一度死ぬことと、死後に審きを受けることが定められています。それはイエス・キリストを信じる者であっても同じです。そして、その神の審きのときに「無罪」という判決が下されるのです。「もう無罪という約束が与えられているから大丈夫」と思われるかもしれません。だからこそ、いつ再臨のときが来ても良いように、今の時を誠実に生きることの大切さを知らされます。
 さらに、バプテスマのヨハネはイエス・キリストをも見据えていたのです。バプテスマのヨハネは、ルカ3:16で「     」と語っています。それと同じことが今朝の箇所の1:7~8にも書かれています。バプテスマのヨハネは、後に来られるイエス・キリストを見ていたのです。7節の後半に「私には…資格もありません」と語っています。「履物のひもを解く」というのは奴隷が主人にする行為です。ですが、バプテスマのヨハネは「その資格もない」と言うのです。すなわち、「私はその方の奴隷以下である」と言っているのです。何故なら、自分も罪ある人間の一人であり、決してイエス・キリストの前に出られるような者ではないことを知っているからです。
 それと同時に、そのような私たちの罪を救ってくださる方であることも知っていたのです。だから、8節で「     」と語っているのです。私たちは神の御前において罪深い者です。しかし、その私たちの罪をイエス・キリストが身代わりとなって負って十字架に架かり、神の審きを受けてくださいました。そして、今も私たちのためにとりなしてくださっています。私たちは、その恵みの中に生かされているのです。先程、「決して変わることのないものが2つある」と話しました。その1つは人の心ですが、もう1つは神の愛です。神は罪深い私たちを見捨てることができました。しかし、見捨てる方を選ばず愛する方を選んでくださいました。そのためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、「神の審き」という十字架による死なれました。それだけでなく、死なれたあと神はイエス・キリストを甦らせてくださいました。来月の31日は、そのイエス・キリストが甦られたイースターです。まさしく、イースターは私たちへの神の愛のしるしです。神の愛のしるしはクリスマスだけではありません。イースターも神の愛のしるしなのです。日本ではクリスマスは盛大に祝いますが、イースターは盛大に祝うことがありません。私個人としては非常に残念です。

結)
 バプテスマのヨハネは、「自分はイエス・キリストの奴隷以下である」と告白しました。それは、しもべ以下であるということです。イエス・キリストはしもべとしてこの世に来られました。そのことについては、ピリピ2:6~8に「     」と書かれています。私たちは、そのイエス・キリストのしもべです。言うなれば、「しもべのしもべ」なのです。最初にも話しましたが、マルコの福音書には「仕えるイエス・キリスト」が描かれています。私たちも仕える者として歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き15:22~35「励まされ力づけられる教会」 24.02.18.

序)
 3週間に渡ってエルサレム会議を見てきました。そして、先週見ましたヤコブの発言を通して、エルサレム会議は結論を出しました。それは救いにおいて律法を守り行う必要はないけれども、偶像に供えたものと淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるというものです。この結論は手紙を通して全教会に伝えられていきます。今朝は、この箇所から励まされ力づけられる教会を共に教えられたいと願っています。

1)伝達方法
 エルサレム会議で出た結論を使徒たちと長老たちは、全教会に伝えることにしました。その方法は手紙です。その手紙は、23節に「アンティオキア、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たち」との挨拶から始まります。私たちは今までパウロの第1回伝道旅行を見てきました。そして、使徒の働きにはパウロの伝道旅行とパウロがローマに着くまでのことに焦点を合わせて書かれています。ともすると、「福音はパウロの宣教によって広まった」と錯覚してしまいやすいです。しかし、そうではありません。ステパノの出来事から教会に激しい迫害が起こり、使徒たち以外は地方に散らされるようになったことが8:1に書かれています。そして、4節には「     」と書かれていますように、福音はパウロ以外の人たちも伝えていたのです。私たちはそのことを見落としてはいけません。すなわち、パウロ以外のキリスト者たちも福音を宣べ伝え、各々の地域において教会が建て上げられていったのです。それらの教会を含む「全教会」に、エルサレム会議で決議されたことが伝えられたのです。
 では、どのようにして伝えられたのでしょうか。シリアのアンティオキア教会はパウロとバルナバが出席していましたから、彼らに手渡してアンティオキア教会に伝えることを決めました。では、他の教会はどのようにしたかは明確に記されていませんから断言はできませんが、当時の社会文化を調べますと郵便制度はすでにあったようです。その目的は、中央政府の意思決定を地方に早急に伝えるためです。学び会でも見ましたが、ローマ帝国は道を整備しました。それは軍隊を少しでも早く移動させるためです。その道を郵便制度にも活用したのです。分かりやすく言えば、一定の間隔に郵便局を設置し、郵便物を持った人が隣の郵便局まで走って届け、次の人が別の郵便局まで走って届けるというものです。これが現代の駅伝の始まりと言われています。その郵便制度をエルサレム教会は用いて全教会に伝えたのです。
 この時代において手紙は重要な役割を果たしています。何故なら、私たちが今日読んでいます新約聖書は手紙だからです。マタイ・マルコ・ヨハネなどの福音書も教会に宛てて書かれた手紙です。ルカの福音書は、テオフィロという個人の人に宛てて書かれた手紙ですが。今礼拝で私たちが見ている「使徒の働き」も、1:1に書かれていますようにルカからテオフィロという人に宛てて書かれた手紙です。その新約聖書は神の霊感によって書かれたものですから、「神からの私への手紙」として読むことも大切です。「聖書は神からのラブレターである」と言われるのも、新約聖書が手紙だからというのもあります。また、私たちは誰から送られてきた手紙を読むとき、どれほど長くても最後まで読むのではないでしょうか。新約聖書が手紙であるなら、通読することも大切であるということです。それは、「手紙の流れを掴む」という学びのためにも大切です。1度チャレンジしていただければと思います。

2)手紙の内容
 では、このエルサレム教会から出された手紙には、どのような内容が書かれているのでしょうか。その内容が23節以降に書かれています。まず、出だしは挨拶です。この挨拶部分を読まれて、「えっ」と思われる方がおられるかもしれません。何故なら、エルサレム会議で決議されたことは全教会に伝えられるものです。なのに、この挨拶部分はシリアとキリキア地方に限定されているからです。11:19には「     」と書かれています。福音宣教を始めたのはパウロとバルナバだけでなく、迫害によってエルサレムから散らされたキリスト者もいたのです。その人たちによって、フェニキア地方にも教会が建てられたことでしょう。また、パウロとバルナバによってのガラテヤ地方にも教会が建てられました。この地方の名前が書かれていないことに疑問を覚えられた方もおられるかもしれません。ですが、この使徒の働きは著者ルカがテオフィロという人に宛てて書いた手紙です。そして、ルカはパウロの活動に焦点を絞って書いているのです。そのことを覚えて使徒の働きを読んでいく必要があります。ですから、22節で「全教会とともに」ということばを用いているのです。
 ひょっとしたら、使徒たちと長老たちは各地方別に手紙を書いたのかもしれませんし、シリアのアンティオキア近辺の地方には特別に手紙を書いたのかもしれません。ただルカはシリアのアンティオキア教会宛に書かれた手紙に焦点を合わせて書いているのです。その彼らに「兄弟たち」と呼びかけたのです。それは「ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエス・キリストにあって同じ神の家族である」ということです。そのことをこの挨拶を通して明確にしたのです。
 次に、論争の原因を指摘しています。このエルサレム会議が開かれる要因は、人が救われるにおいて「割礼を受ける」という律法を守り行う必要があるのか、それともイエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけで良いのかという論争です。先週の分かち合いの時にある方が話されていましたが、今日のキリスト教の根本的な事柄の論争です。「この論争を巻き起こした人たちはどのような人たちなのか」と言いますと、24節に書かれていますように「エルサレム教会からは何の指示も受けていないのに、あたかもエルサレム教会から派遣されたような印象を与え、自分たちの考えを主張したことです。そのため何が起こったのかと言いますと教会内での混乱と人の心の動揺です。
 彼らの主張は何に根拠を置いているのかと言いますと、15:1に書かれていますように「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ」という律法です。ですが、これはことばを変えれば「聖書から」ということもできます。彼らは「聖書にこのように書かれているじゃないですか」と言って、割礼を受けることを強調していたのです。彼らは「自分たちは聖書に根拠を置いて語っているのだ」としているのです。皆さんは、このように言われたらどのように答えられるでしょうか。「確かにそうですね」となってはいけないのです。そのようなことにきちんと答える備えをしておくことは大切です。
では、聖書はどのように語っているのでしょうか。申命記29章からは、モーセの第3説教が書かれている箇所です。これはイスラエルの民が約束の地カナンに入る前になされた契約の更新です。それはイスラエルの民への再献身が求められています。16節以降には、この契約を破ることへの警告がなされています。その目的は、30節に書かれていますように、「このみ教えのすべてのことばを行うため」です。「このみ教え」とは、新しい契約のことです。そして、30章に入ります。「このみ教えを行う者に祝福が与えられ、神は心に割礼を施されて生きるようになる」と6節で約束されています。「心に割礼を施される」とは、心からの悔い改めのことです。心からの悔い改めも神がなされるみわざであることが分かります。エレミヤ9:25に「     」と書かれています。「その時代が来る」と書かれています。「その時代」とは、神が約束された救い主が来られる時代のことです。「そのとき…罰する」と書かれています。何故なら、26節の最後に書かれていますように、「心の割礼を受けていないから」です。心からの悔い改めをしてないからです。神が約束された救い主であられるイエス・キリストが来られた時代は、肉の割礼ではなく心の割礼によって救われることが旧約聖書にも示されているのです。今朝の箇所には、このようなことは書かれていませんが、おそらくこのことが議論されたのではないかと考えられます。だからパウロは、ローマ2:28~29で「     」と語っているのです。最後に、使徒と長老たちは29節に書かれている内容をエルサレム会議で決議したことを伝えたのです。

3)手紙の効果
 この手紙を携えたパウロとバルナバ、ユダとシラスらは、この手紙をアンティオキア教会に手渡しました。30節の後半に「教会の会衆を集めて」と書かれています。教会の公の集会が開かれて朗読されたのです。では、この手紙はどのような効果をアンティオキア教会に与えたのでしょうか。そのことについて見ていきたいと思います。31節に「     」と書かれています。この手紙はアンティオキア教会の人たちを励ます効果をもたらしたのです。さらに、32節に「     」と書かれています。ユダとシラスは預言者であったことが書かれています。彼らは神から与えられた賜物を用いて、アンティオキア教会の人たちを励まし力づけたのです。
 割礼を強調する人たちがアンティオキア教会に来たときのことについては、24節に「     」と書かれています。ここに「混乱させ」と書かれています。この「混乱」と訳されていることばを調べてみますと、「形をなくしてしまう」とか「軍隊が町を滅ぼして様子を一変させる」という意味を持ったことばというのです。要するに、彼らの主張に翻弄され教会は2つに分断しそうになったのです。そのように教会が危機的状況に追い込まれたからエルサレム会議が開かれたのです。その結果、「割礼を受けることによって救われるのではなく、ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われる」という決議へと導かれたのです。そして、エルサレム教会からの手紙を通してアンティオキア教会の人たちは励まされ、さらにユダとシラスのことばを通しても励まされ力づけられたのです。
 アンティオキア教会の人たちは何を励まされ力づけられたのでしょうか。2つのことが考えられます。その1つは先程も話しましたように、「イエス・キリストの十字架による贖いを信じるだけで罪が赦され救われる」ということです。もう1つは、分断されそうになった教会の危機的状況が回避できたことです。アンティオキア教会は、この出来事を通してさらに一致することが強められ福音宣教に携わっていくのです。これがエルサレム会議の手紙がもたらした効果です。

結)
 この使徒の働きを見ていくとき、1つのことに気づかされます。それは何度も話していますが、「一度に全てではない」ということです。教会は様々な問題に直面しつつ、その問題を一つずつ解決しながら成長し前進し続けたのです。使徒の働きの中心聖句は1:8に書かれていますイエス・キリストの約束です。この約束がどのように成就されていくかが使徒の働きには描かれています。1:8の時にも話しましたが、聖霊が与えられたら一気に地の果てにまで福音が広がったのではありません。「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と徐々に広がっていったのです。「徐々に」とは「一歩ずつ」ということです。一歩ずつ、それは地味なものです。進んでいるのか進んでいないのか、ひょっとしたら進んでいるのではなく後退しているようにも思えてしまうようなものです。「神が共におられる歩み」とはそのようなものです。そのように思えたとしても進んでいるのです。今、祈り会では「進化と創造」という動画から学んでいます。神は一度に全てを造ることのできるお方です。そのお方が世界を造られたとき、一度に全てを造られたのではありません。「6日間」という時間をかけて造られたのです。神が世界を造られたときも一歩ずつなのです。先程も話しましたように、「一歩ずつ」とは地味で進んでいるのか進んでいないのか分からないようなものです。だからこそ、互いにことばをもって励まし合うことを通して、共に力づけられ進むことができるのではないでしょうか。私たちの教会もそのような教会として歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き15:12~21「神に立ち返る異邦人」 24.02.11.

序)
 先週、私たちはペテロが語る内容から、私たちも神の恵みによって救われ、その神の恵みの中で生かされていることを学びました。今朝の箇所は、主にヤコブが語った内容に焦点が合わされ書かれています。このエルサレム会議の議題は、「どのようにして異邦人は救われるのか」ということです。それは「割礼を受ける」という律法を守り行うことによって救われるのか。それとも「ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じる」という恵みを受けることによって救われるのかということです。このことについて、キリスト教会は激しい論争がなされましたが、このヤコブの発言を通して決議することとなります。では、ヤコブは何を根拠にして発言したのでしょうか。今朝は、このヤコブの発言の箇所を通して、私たちの教会も何を根拠として歩み続ければ良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)論争を通して
 まず、多くの人たちが異邦人の救いについて協議するためにエルサレム教会に集まりました。7節の冒頭には「多くの論争があった」と書かれています。それが意味するものは何でしょうか。それは平行線であったということです。平行線であったということは一致することができない状況であったということです。そのようなとき、ペテロは自分の証しを通して神の導きを話しました。それによって何が生じたかと言いますと、12節の冒頭に「すると、全会衆は静かになった」と書かれています。異邦人に対する神のみわざと導きを知ることによって、誰も口出しすることができなくなったのです。何故なら、人は神のみわざと導きに口出しすることはできないからです。
 続けて、12節には「そして、バルナバとパウロが…耳を傾けた」と書かれています。ここでも、第1回伝道旅行において、割礼を受けていない異邦人もイエス・キリストの十字架を信じる人たちが起こされました。13:52に「     」と書かれています。この「弟子たち」とは、イエス・キリストを信じた異邦人のことです。聖書は「イエス・キリストを信じた異邦人も聖霊に満たされていた」という事実を述べているのです。すなわち、あのペンテコステの日にイエス・キリストを信じる人たちに聖霊がとどまったのと同じように、異邦人キリスト者にも聖霊がとどまったのです。ペテロとバルナバ、パウロも異邦人に起こった事実を語ったのです。
 私が神学生時代に教えられたことの1つは、「信仰とは事実を事実として認め受け入れることである」というものです。あることを神に祈り出た結果を「これは何かの間違いだ」と言って受け入れないのではなく、これが祈ったことの神の答えであると受け入れる。「これが聖書の語る信仰である」ということです。このことばは、私に大きな影響を与えてくれました。それまでは漠然なものを描いていました。でもそうではなく、目の前に起きている事柄を事実として認め受け入れ、その事実に対して最善を尽くしていくことが聖書の語る信仰と受け止めるようになりました。聖書の語る信仰とは理想的なものを追い求めるものではなく、目標を描きつつ目の前の事実に対して最善を尽くしていう現実的なものです。
 ペテロの証しを通して静かになったあと、今度はバルナバとパウロが証しをしました。すると、全会衆は彼らの話しに耳を傾けました。改めて、神のみわざの証しがどれほど力強いものであるかを知らされます。その証しは、私たち一人ひとりにも与えられています。何故なら、私たちも神のみわざを経験しているからです。

2)判断の根拠
 そして、13節からはヤコブが語ったことに焦点が合わされています。そして、19節で「私の判断では」と自分の判断を語っています。では、そのヤコブの判断した根拠は何でしょうか。そのことについて見ていきたいと思います。ペテロとバルナバとパウロの証しを通して、ヤコブは14節で「神が初めに…民をお召しになった」と語っています。ヤコブが判断したことの基準は、異邦人がイエス・キリストを信じることによって救われたという事実です。この事実は決して否定することのできないものです。この事実に基づいて、ヤコブは旧約聖書の預言を説明します。その前に、14節に書かれています「シメオンとは誰か」ということです。「シメオン」と聞きますと、族長ヤコブの12人の息子の一人である「シメオン」と思い出す人もおられれば、イエス・キリストの両親が宮に行ったときに出会った老人「シメオン」を思い出す方もおられるかもしれません。ですが、この人たちのことではありません。この「シメオン」とはペテロのことです。シモン・ペテロの「シモン」とは、ヘブル語のシメオンのギリシャ語です。ですから、シメオンもシモンも同じ名前なのです。ヤコブの根拠の1つはペテロが経験した証しです。
 しかし、それだけではありません。15節に「預言者たちのことばもこれと一致していて」と語っています。すなわち、聖書のことばを根拠としているのです。この16~18節は、欄外にも書かれていますようにアモス9:11~12の引用です。11節は、ダビデ王国は滅びますが再び建て直されることが語られています。そして12節に「エドムの残りの者と…所有するためだ」と書かれています。エドムはイスラエルの民から見れば異邦人です。さらに、すべての国々も異邦人です。そして、「彼らが所有するためだ」と書かれています。この「彼ら」とは、その前に書かれています「ふるいにかけられ落ちなかった人」のことです。その彼らが所有するということは、同じ群れに属されるということです。ここには、異邦人であれ主の名で呼ばれる全ての人は同じ群れであるということです。そこには何の条件もありません。11節に「わたしは」と書かれています。この「わたしは」とは主のことです。
 少し話しが脱線しますが、新改訳聖書では平仮名の「わたし」は主ご自身を指しており、漢字の「私」は主以外の者を指しています。そのことを区別するために、私たちの教会では漢字の「私」を「わたくし」と読んでいます。実は、新改訳聖書はそのように読ませようとしたのです。第一版の新改訳聖書のマタイ2:13には「私」という漢字に「わたくし」とルビがふられていたのです。ただ、現代では「わたくし」と読む人が少ないのでルビをふることをしなくなりました。特に、新改訳2017が発行されてから今までは「わたくし」と読んでいて方も「わたし」に変えておられます。私たちの教会もどうするかを話し合うことも大切かもしれません。すると、週報の主の祈りのルビも変える必要がありますが。
 話しが反れましたが、ヤコブは異邦人の救いは神のわざであり、そこには何の条件も強いられていない聖書のことばを根拠としているのです。「同じ群れとなる」ということは「一つになる」ということです。それは「一体とされる」ということです。創世記2:24に「     」と書かれています「一体」です。この「一体」と訳されていることばは、申命記6:4の「唯一」と訳されていることばと同じです。第三版までは「ひとり」と訳されていました。一体ということばは、複数の者が集まって一つのものを形成することを表しています。三位一体もそうです。父・子・聖霊という位格を持っておられる方々が一つの「主」を形成されているのです。昨年の合同聖会で講師の山口陽一先生が「三位一体の神」と題して講演してくださいました。私たちの教会も後日礼拝でそのメッセージを聞きました。その中で山口先生は「性格や背景が違う人たちが一つになれるのは、この世界を造られた神が三位一体の神であるからだ」と話されました。父・子・聖霊が交わりをもって一つの主を形成されている。そして、「その主は欠けだらけである私たちの交わりを通して一つにされようとしている」と話されました。私はこの講演を聞きつつ、「この世に交わりがあるのは、交わりを持たれる三位一体の神が世界を造られたからであり、交わりを持たれない神がこの世を造られたのであれば、この世に交わりなどは造られなかったであろう」と思わされました。今年度の教会標語は「交わる教会」です。交わりを通して、さらに一つの群れとして歩まされていきたいと願っています。ヤコブは、ユダヤ人と異邦人が一つの群れを形成するのに何の条件もつけられていないことを聖書のことばを根拠として語ったのです。

3)判断の内容
 では、その判断した内容はどのようなものでしょうか。そのことが20~21節に「     」と書かれています。ヤコブは聖書のことばを根拠としつつ、「異邦人の間で…悩ませてはいけません」と19節で語っています。旧約聖書が語っているように、「異邦人が神に立ち返っている事実に目を留めるとき、その異邦人を悩ませるのは神の御心にそぐわない」と語っているのです。それは「イエス・キリストを信じる異邦人もユダヤ人も同じ神の民である」ということです。「それならば、神が受け入れておられる異邦人に対して、私たちは何も付け加えることはできない」と語っているのです。ですから、「割礼を受けることや律法を守り行うことによって罪が赦され神の審きから救われる」というのは間違っていることを告げたのです。
 ヤコブは自分の判断を語りつつ、より具体的な内容を20節で「     」と示しています。「これは何を意味しているのか」と言いますと、「律法が禁じていることはしないように」ということです。それは「こうすべきである」ということからは解放されているが、「こうしてはならない」ということにおいては守る必要があるということです。その理由は、律法は毎週会堂で朗読されているからです。
ここで注目したいのは「避けるように」ということばです。私たちは「聖書のことばを守るように」と心がけています。確かに「全てを守っている」と断言できませんが、でも「守るようにしよう」と心がけておられることと思います。では、何故「守るようにしよう」と心がけているのでしょうか。それは、聖書がそのように教えているからでしょうか。「聖書がそのように語っているから守る」というのは消極的な守り方です。ここで語られている「避ける」ということばは、「聖書がそのように語っているから避けるように」という意味ではありません。そうではなく、「自分の意思で避けるように」という意味です。それは「自ら進んで避けるように」ということです。
何度も話していますが、私たちは毎週日曜日に教会に集い礼拝を献げています。何故、毎週礼拝を献げているのでしょうか。聖書がそのように教えているからでしょうか。律法の中心である十戒の中に「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」と書かれています。厳密に言えば、安息日は現代の土曜日です。ですが、キリスト教会はその安息日をイエス・キリストが甦られた週の初めの日に変えて、週の初めの日を「主の日」として礼拝を献げるようになりました。聖書がそのように教えているから献げているのであれば、それは少し残念なことです。申命記5:12~15にも安息日について書かれています。15節に「     」と書かれています。特に「あなたの神…覚えていなければならない」と書かれています。安息日を守る理由は、「神によって導き出されたからである」ということです。すなわち、「神の守りと導きによって支えられているから安息日を守るように」ということです。要は、安息日の前の6日間は神の守りと導きによるものであることに感謝して安息日を守るように」ということです。安息日を守るのは決まりだからではなく、神への感謝から出てくるものなのです。これは今日の礼拝においても同じです。礼拝は「聖書が教えているから守る」というのではなく、1週間の歩みが神によって守られ導かれたことへの感謝から出てくるものなのです。すなわち、礼拝は自らの意思で進んで神に感謝して献げられるものなのです。そのように、20節の「避ける」というのも、自らの意思で避けるようにということです。それは「『神は何を願っておられるのか』を自ら考え行動するように」ということです。一人ひとりの自主性が勧められているのです。

結)
 ヤコブは異邦人が神に立ち返ることができたのは、ただ神の一方的な恵みによるものであることを語っています。それは異邦人だけでなくユダヤ人も同じです。全ての人は神の一方的な恵みによって神に立ち返ることができるのです。そして、一人ひとりはその神の恵みの中に生かされているのです。その神の恵みの中に生かされていることに感謝して献げるのが主日礼拝です。招詞の箇所でもあります詩篇50:23に「     」と書かれています。1週間の歩みを守り導かれたことへの感謝を神に献げる。これが私たちの献げている主日礼拝です。「決まりだから」という消極的なものではなく、「神の恵みに感謝して」という自らの意思で行うという積極的なものです。私たちの教会も一人ひとりが神の恵みに感謝し歩み続けるように祈っていきましょう。

使徒の働き15:6~11「イエスの恵みによって」 24.02.04.

序)
 先週私たちは、神の恵みと目の前の事柄の両面を見つつ歩み続けることの大切さを学びました。今朝の箇所は、ペテロが語った神の救いについてです。このペテロが語った「神の救い」を通して、今私たちはどのような中に生かされているのかを共に教えられたいと願っています。

1)神の取り扱いの中で
 まず、ペテロは7~9節でコルネリウス家族での出来事について語っています。このコルネリウス家族での出来事については、10~11章にかけて書かれています。ここでまずペテロが語っているのは、神がエルサレム教会の中から自分を選ばれたということの事実です。ここでペテロが語っている証しは、神の導きによってなされた出来事の事実です。すなわち、ペテロ自身が何かをしたというものではなく、神ご自身がなされた導きをペテロは語っているのです。
 では、神は異邦人をどのように導かれたのでしょうか。その1つは、7節の後半に書かれていますように、「福音のことばを信じるようにされた」という導きです。神は異邦人の心を開かれて、福音のことばを信じるように導かれたのです。それは私たちも同じです。私たちは自分で心を開いて福音を信じるようになったのではありません。何よりも神が私たち一人ひとりの心を開いてくださったから、福音を信じることができたのです。ですから、「私が福音を信じるようになった」というのも神の導きによるものなのです。
さらにペテロは、8節で「異邦人にも聖霊を与えて」と語っています。それまでは「福音はユダヤ人だけに与えられるもの」とペテロも理解していました。何故そのように捉えていたのかと言いますと、ユダヤ人は神から律法が与えられていました。しかし、ユダヤ人はその律法を守り行うことをせず、今まで導いて来られた神に従うことをしないで、他の神々を崇拝し従うようになりました。そのため、神は北イスラエル王国や南ユダ王国を滅ぼされました。それにも拘わらず、神はバビロニアに捕囚として連れて行かれたイスラエルの民を約束の地カナンに戻してくださいました。そして、イスラエルの民はカナンの地で主を礼拝し続ける民として歩み続けました。ところが、そのイスラエルの民は聖書の教えを曲解するようになりました。どのように曲解するようになったのかと言いますと、律法を守り行うことを強調するようになったのです。「先祖たちは神の律法に従わなかったから神の審きを受けることになったのだから、何よりも神の律法を守り行うことが大切である」として、律法を守り行うことを強調するようになったのです。
 しかし、そうではないことをイエス・キリストを通して神は明らかにされました。すなわち、人は神の律法を守り行うことによって自分の罪が赦されるのではなく、神の愛と慈しみと憐れみという恵みによって救われることを示されました。このような長い歴史の中で、人の罪の赦しはどのようにしてなされるのかを明らかにされたのです。そのような背景の中で生きてきた人たちですから、「福音は律法を守り行うことを強調していたユダヤ人に与えられたもの」と理解していたのです。その理解の仕方は「やむを得ないもの」とも言えます。ですから、この当時のキリスト者は、異邦人と接することをしないように心がけていたのです。だから、ペテロが異邦人であるコルネリウス家族と接したことを当時のキリスト者は非難したのです。それに対してペテロは、異邦人であるコルネリウス家族に接するのは神の導きによるものであり、その神が彼らに聖霊を授けられたのであり、神がなされることを私などが妨げることはできない」と11:17で語ったのです。
 さらに、今朝の箇所でペテロは、9節で「ユダヤ人と異邦人の差別はつけず、神は彼らの心を信仰によってきよめてくださった」と語っています。異邦人を聖められたのは神なのです。その神のみわざに人は口出しすることはできないのです。口出しすることよりも、人の理解を超えた神の恵みに目を向けることを勧めているのです。11:18に「     」と書かれています。これは自分たちの理解を超えたことをなさった神の恵みをほめたたえている箇所です。まさしく、神のみわざは人の理解を超えた恵みそのものなのです。そして、私たちを聖めてくださったのも神であり、私たちはその神の恵みの中で神に導かれつつ歩まされているのです。

2)人の理解を超えた神の恵み
 続けてペテロは、10節で「     」と語っています。「人の理解を超えた神の恵みとは何か」を、この箇所で語っています。それは「先祖たちも私たちも負いきれなかったくびき」です。ユダヤ人たちが負いきれなかったくびきとは何でしょうか。それは律法を守り行うことです。彼らは一生懸命律法を守り行おうとしていました。しかし、実際に律法を守り行うことはできませんでした。何故でしょうか。人の中に罪があるからです。その罪がある以上、人は神の律法を守り行い続けることはできないのです。たとえ行い続けたとしても、決してその人の心に平安はありません。あるのは、「いつか律法を破ってしまうのではないか」という不安です。何故なら、「自分はそれほど強くない」ということを知っているからです。
そのことはパウロ自身もピリピ3:8で「私の主である…考えています」と語っています。パウロはその前の6節の後半で「律法による…ない者でした」と語るほど、律法を熱心に守り行っていたのです。そのパウロでさえ、心の中は不安で一杯だったのです。それは「いつかは律法を破ってしまうのではないか」というものがあったからです。しかし、イエス・キリストと個人的な出会いをし、そのイエス・キリストを信じることによって、全ての不安が消し去られたのです。7節に書かれています「自分にとって…すべてのもの」とは、律法を熱心に守り行っていたことです。パウロは律法を熱心に守り行うことを「得」だと思っていたのです。しかし、イエス・キリストと個人的な出会いをして信じることによって、それが「損」と思うようになったのです。今までは「これが必要だ」と信じていたものが、「こんなの必要ない」と捉えられるようになったのです。
ペテロは、「そのようなユダヤ人も負い切れなかったものを何故異邦人キリスト者にも負わせようとするのか」と語りかけ、そのような行為は神を試みるものであると指摘しているのです。すなわち、「神が備えてくださった恵みを受け入れず人の行為で得ようとするならば、それは信仰ではなく神を試みるものであり、神に敵対する行為である」と語っているのです。「人の行為で得ようとする」というのは、「人が理解できる方法で」ということでもあります。「人が理解できる方法で行う」というのは、「最善を尽くす」ということでもあります。確かに、最善を尽くすことは私たちの歩みにおいて大切なことです。以前の時にも、「主に委ねるとは結果を委ねることであり、目の前の事柄には最善を尽くすことが大切である」というようなことを話しました。でもそれは、罪が赦され救われた後のことです。しかし、罪の赦しである救いにおいては全く違います。救いにおいては人の行為は全く必要ないのです。そのところをきちんと整理することは大切です。そうでないと、救いと信仰生活を同じように捉えてしまうようになります。
私たちの罪の赦しは、人がどれほど一生懸命頑張ったとしても得られるようなものではありません。もうそれは、一方的な神の憐れみによるものでしか得られないのです。そのために、神はイエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。人は聖霊の働きによって、イエス・キリストの十字架による贖いを信じ罪が赦されるのです。決して、人の行いは必要ないのです。

3)主イエスの恵み
 続けてペテロは、聖霊の働きによってイエス・キリストの十字架を信じ赦されることを、11節で「主イエスの恵みによって」と語っています。罪の赦しと救いは、神からの一方的な恵みによってです。ペテロはコルネリウス家族と出会うまでは、「神は割礼を受けている者を憐れみ、その人たちのためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、その人たちのために身代わりとなって十字架に架かってくださった。そして、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって罪が赦され救われた」と信じていました。ところがコルネリウス家族と出会い、そのコルネリウス家族に聖霊が働かれた現実と直面したとき、そうではなく「人が割礼を受けているか受けていないかは関係がない」ということを目の当たりにしたのです。そのときの説明について、ペテロは11:17で「     」と語っています。特に最後の部分の「どうして私などが…できるでしょうか」ということばに注目したいのです。この時も話しましたが、これは「神がなさることを私などが邪魔することはできない」ということです。10節の最後に書かれています「神を試みる」とは、神のみわざを邪魔することにも成りかねないのです。
 11:18で「そして…神をほめたたえた」とエルサレム教会の人たちは、割礼を受けていない異邦人にも救いの道を与えられたことに神をほめたたえたのです。しかし、今朝の箇所のエルサレム会議を見るとき、そのとき素直に神をほめたたえられない人たちもいたように考えられます。何故なら、異邦人たちは割礼を受けていなかったからです。そして、その人たちは割礼を受けることを強いる動きをしたのです。エルサレム会議のあと、使徒たちと長老たちは全教会に宛てて書かれた書面に「私たちは…聞きました」と24節に書かれていますように、割礼を受けることを強いる人たちは勝手に自分たちの考えを広めていたことが分かります。そして、この人たちはエルサレム会議の後も、自分たちの考えを押し通そうとし教会を混乱させました。教会で行われる会議は神に祈って臨んだものですから、その決議は自分の考えと違うものであったとしても従うべきものであることを知らされます。何故なら、決議は結果であり、その結果を神に委ねたのですから。
 ペテロは「救いは割礼を受けるという人の行いによって得られるものではなく、主イエスの恵みによって」と語っています。まさしく、救いは神の恵みによるものです。人がどれほど努力しても得ることのできないものです。人は救いにおいても、自分の頭で理解できる方法を受け入れようとしてしまいやすくなります。しかし、救いは人の頭で理解できる方法ではありません。何故なら、神は人の理解を超えた方法をもってしてくださったものだからです。まさしく、それが主イエスの恵みです。その恵みを受け入れる信仰が神によって与えられたことに感謝したいものです。

結)
 パウロは、その救いについてエペソ2:8~9で「     」と語っています。特に、8節の前半に目を留めさせられます。「この恵み」とは、4節に書かれていますように、憐れみ豊かな神の大きな愛です。神の恵みによって救われたということは、救われた後の私たちの歩みも神の恵みの中にあるということです。すなわち、今も私たち一人ひとりは神の恵みの中に生かされ導かれているということです。そのことを覚えつつ、互いに励まし合い祈り合いつつ歩まされていきましょう。

使徒の働き15:1~5「神の恵みに目を留めて」 24.01.28.

序)
 パウロとバルナバの宣教によって、異邦人にも信仰の門が開かれたことを教会に報告しました。おそらく、教会の人たちは大いに喜び神に感謝したことでしょう。パウロとバルナバのアジア宣教は、外部からの強い迫害によって厳しい苦難を経験しましたが、神の支えと導きによって守られアンティオキア教会に戻ることができました。ですが、異邦人に信仰の門が開かれたことによって新たな問題に直面します。その問題が15章に描かれています「エルサレム会議」と言われる箇所です。この箇所は、私たちの信仰の根本に関わってくる事柄です。それは一言で言いますと、救いは律法を守り行うことによって得られるのか、それとも信じるだけで得られるのかというものです。初代教会は外部との戦いだけでなく、内部との戦いをも経験していくのです。私たちは、このエルサレム会議から何に目の前の事柄に取り組むために必要なことを共に教えられたいと願います。

1)ユダヤから下って来た人たちの立場
 パウロとバルナバは、第1回伝道旅行を始めるにあたり、外的迫害を受けることは覚悟していたと思われます。何故なら、パウロ自身がキリスト教を迫害していたからです。そのようなことは、これから自分たちが始める伝道旅行においても生じる可能性は十分にあります。ですから、外的迫害については備えていたものと思われます。しかしながら、この15章に描かれています「エルサレム会議」と言われる箇所は外的迫害ではなく、キリスト教自体の内面的な問題です。そのことについては「全く」と言って良いほど備えはなかったものと思われます。何故なら、パウロとバルナバはシリアのアンティオキア教会に戻り報告をしたとき、このような問題は何一つ起こらなかったからです。彼らは共に心を一つにして、神のみわざに感謝し喜んでいたのです。
 ところがです。1節に「     」と書かれています。14:28に「しばらくの間」と書かれています。この「しばらくの間」というのはどれ程の期間なのかは分かりません。第3版までは「かなり長い期間」と訳されています。そのようなことから、パウロとバルナバによる伝道旅行の報告がエルサレム教会にまで届いたものと考えられます。「エルサレム教会はどのような人たちによって形成されていたのか」と言いますと、6:1には「ギリシャ語を使うユダヤ人から…苦情が出た」と書かれています。このギリシャ語を使うユダヤ人というのは、ヘレニズム文化を背景として育ってきた人たちのことです。そして、「ヘブル語を使うユダヤ人」というのは、ユダヤ文化を背景として育ってきた人たちのことです。各々の育ってきた文化の背景が違うのです。文化が異なるということは、生活習慣も異なるということです。例えば、現代において一番問題となるのはゴミの分別問題です。これは文化だけでなく地域によって異なってきます。食べ物の汚れがついたままのプラごみは燃えるごみとして出すことのできる地域もあれば、プラスティックごみとして出さなければならない地域もあります。ましてや、外国文化で育ってきた人たちは、その国の文化は馴染みがありませんから大変です。
 多分エルサレム教会にはヘブル語を使うユダヤ人が主流だったのでしょう。そのため、ギリシャ語を使うヘブル人への差別という問題が生じていたと考えられます。そして、ヘブル語を使うユダヤ人の背景はユダヤ教です。そのため、イエス・キリストを信じても律法を守ることに重点が置かれていました。その最も大きなものは「割礼を受ける」というものです。割礼は神がアブラハムに命じられたものですから、「イエス・キリストを信じても割礼を受ける必要がある」として、ヘブル語を使うユダヤ人キリスト者同士が結婚し子どもが生まれたとき、その子どもにも割礼を施していたと考えられます。エルサレム教会では何も決まっていないのに、自分たちの習慣をシリアのアンティオキア教会にも強要しようとしていたのです。

2)パウロとバルナバの立場
 それに対して、「パウロとバルナバはどのような立場であったのか」と言いますと、2節に「それで…対立と論争が生じた」と書かれています。このことから、エルサレム会議の決議に対して大きく反対したものと考えられます。では、パウロとバルナバの立場はどのようなものでしょうか。それは「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という立場です。割礼を強調する人たちは、「イエス・キリストを信じることによって救われる」というのを否定してはいません。しかし、「それだけでは不十分である」としていたのです。「イエス・キリストの十字架による贖いを信じ、割礼を受けることによって完全に救われる」というのが割礼を強調する人たちの主張だったのです。それに対して、パウロとバルナバは「イエス・キリストを信じるだけで救われるのではあり、割礼を受ける受けないは救いにおいて関係はない」という立場です。
 この問題がアンティオキア教会で大きな問題となったのです。「その発端は何か」と言いますと、1節に「ある人々が…教えていた」ことです。この人々は先ほども話しましたが、15:24に「     」と書かれていますように、エルサレム教会ではそのようなことは決まっていないのに、勝手に自分たちの考えを押し通そうとしていたのです。そして、「割礼を受ける」という事実を作り上げて自分たちの考えを有利に運ぼうとしていたのです。先程も触れましたが、彼らはイエス・キリストの十字架による贖いを否定してはいません。むしろ「大切なものである」と語っているのです。しかし、同時に「信じるだけでは不十分であり、割礼を受ける必要がある」と教えていたのです。
 それに対して、パウロとバルナバは「イエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけで救われる」という、福音の中心を根本から歪める主張に激しく対立したのです。「教会の中に激しい対立が生じる」という出来事を皆さんはどのように思われるでしょうか。「教会なのだから激しく対立することよりも一致することの方が大切だから、彼らの意見を受け入れたら良いのに」と思われるでしょうか。確かに教会はイエス・キリストにあって一つの群れです。ですが、この「イエス・キリストにあって一つの群れ」というのは、「イエス・キリストの十字架の贖いによって救われる」ということを土台としての一つの群れなのです。それ以外のものを付け加えてはいけないのです。一致することを最優先し、福音の根本的なものを歪めてしまうなら、それはもう神の群れではなく単なる人の群れになってしまいます。
 教会の根本的なものを揺るがす事柄に対しては、どのようなものであれ私たちは強く反対する必要があります。それは教会が神の群れだからです。約2年前に教育部から発行されましたニュースレターは「教会を分断する異端特集号」でした。そこにも記載されていましたが、今日の異端はエホバの証人やモルモン教、旧統一協会(現・世界平和家庭連合)だけではありません。話しを聞きますと、牧師も信じてしまうような巧妙な手口で教会に入り込んできます。だからこそ、先週の礼拝でも話しましたように、語られる内容が聖書的であるのかを吟味する責任が私たち一人ひとりにはあります。その吟味する力が増し加えられるように祈っていきたいものです。

3)教会の対応
 このユダヤから下って来た人たちと、パウロとバルナバとの激しい論争を見たアンティオキア教会は、どのような対応と取ったでしょうか。2節の後半に「パウロとバルナバ、そのほかの何人かが…エルサレムに上ることになった」と書かれています。アンティオキア教会は、この問題を「自分たちの教会だけの問題」としなかったのです。教会はパウロとバルナバを始め数名をエルサレム教会に遣わしたのです。今後のキリスト教会の歩みをエルサレム教会で行われる公式な会議に委ねたのです。そのようにして、パウロとバルナバを始め教会の代表者たちはエルサレム教会に送り出されました。
 また、その道中で何をしたでしょうか。3節の後半~4節にかけて「道々…報告した」と書かれています。彼らは異邦人の回心について詳しく伝えたのです。また、エルサレム教会に着いて迎えられたときも、神が彼らとともにいて行われたことを全て報告したのです。すなわち、自分たちにできることの最善を費やしたのです。以前の礼拝でも「主に委ねるとは結果を委ねることであり何もしないことではない。それまでの過程は最善を尽くす必要がある」ということを話しました。ここでも、それを見ることができます。彼らは結果を主に委ねましたが、その結果が出るまでは自分たちにできる最善なことを尽くしていたのです。
 今、この人たちが抱えている問題は、今後のキリスト教会にとって命とりとなる大きな問題です。ともすると、その大きな問題に心が奪われて頭が一杯になってしまうような状況です。だからこそ、彼らは目の前の自分たちにできることに最善を尽くしたのです。この姿勢こそが、本当に問題に直面している姿ではないでしょうか。ともすると、私たちは目の前の問題のみに心が奪われてしまい、今までの神の恵みを全て忘れてしまい、慌てふためいてしまいやすくなります。「慌てふためくことが悪い」とは言いません。何故なら、私たちはそのような弱さを持つ存在だからです。だからこそ、神の恵みに目を向けるのは大切なことです。そして、目の前のことに最善を尽くしていくことも大切です。
 5節に「ところが」と書かれています。3~4節を読みますと、全てが順調に進んでいるように思えます。ですが、聖書は5節で「ところが」と語りかけています。全ての人がパウロの一行を歓迎したのではないことを示しています。そこには、大きな課題が待ち伏せていることを記しています。でも、どれ程大きな課題であれ、彼らがすることは同じです。それは神の恵みに目を向けつつ、目の前のことに最善を尽くしていくというものです。

結)
 教会は、歩んできた背景が異なる人たちの群れです。背景が異なるということは、捉え方や考え方が異なるということです。そうなりますと、当然問題が生じ論争へと発展していきます。ですから、教会の中に問題が生じるというのは不思議なことではありません。むしろ、問題が生じるのは当然のことです。私たちは問題が生じますと、その問題に目が向けられ心が奪われてしまいます。そのとき大切なのは、今までの神の導きと恵みに目を向けることです。神の恵みと目の前の事柄の両面を見つつ、歩み続けることができるように祈っていきましょう。

使徒の働き14:24~28「伝道旅行の報告」 24.01.21.

序)
 今朝の箇所は、パウロの第1回伝道旅行の最後の箇所です。パウロとバルナバは聖霊によって、シリアのアンティオキア教会からキプロス島と現代のトルコの南東部に福音宣教に遣わされました。その働きが終え、シリアのアンティオキア教会に戻り、教会の人々にその報告をした箇所です。今朝はこの箇所から、パウロとバルナバは自分たちの働きをどのように理解し、またどのような事柄を教会に報告しているのかを通して、私たちの歩みにおいてもどのような態度で歩み続ければ良いのかと共に教えられたいと願っています。

1)神の恵みの中で
 パウロとバルナバの宣教活動は、どのようにして始まったのでしょうか。そのことについて聖書は、使徒13:2で「     」と記しています。アンティオキア教会に集う人たちが主を礼拝していたとき、聖霊が一人ひとりに語りかけられたのです。どのようにして語りかけられたのかは分かりません。13:2の箇所の時にも触れましたが、聖霊が直接一人ひとりに語りかけられたのか、それとも一人の預言者を通して語りかけられたのかは分かりません。どちらでも取れる内容です。どちらであれ、注目すべきことは「神のことばが語られた」ということです。すなわち、パウロとバルナバの宣教活動はアンティオキア教会の思いつきではなく、「神ご自身のご意思によって成されたものである」ということです。そして、その宣教活動の働きを終えて戻って来たのですが、その所は「神の恵みに委ねられて送り出された所であった」と書かれています。すなわち、聖書はパウロとバルナバの宣教活動全ては、神の恵みの中で成されたものであったことを示しているのです。
 しかしながら、パウロの第1回伝道旅行を振り返りますと、キプロス島での活動は順調に進んだように思えますが、ピシディアのアンティオキア以降の活動は迫害の連続でした。特にリステラの町では石打ちにされて仮死状態にまで追いやられてしまったのです。ですが、聖書は「これも神の恵みの中にある」と語っているのです。私たちは「神の恵み」と聞きますと、「自分にとって良いもの」だけをイメージしてしまうのではないでしょうか。ですが、聖書は神の恵みは自分にとって良いものだけではないことを示しているのです。以前にも話しましたが、「自分にとって最悪」と思えるような事柄も神の恵みの一つであることを示しているのです。何故なら、それが後にプラスとして用いられるからです。「あの時あの経験をしたから、今このように導かれている」という経験を私たちはあるのではないでしょうか。その時は辛かったかもしれません。しかし、その辛かった経験があったから、今この所にあるのではないでしょうか。そのように考えますと、「あの時の辛い経験も神の導きの中にあり、神の恵みの一つである」ということに気づかされるのではないでしょうか。その辛い経験が今かもしれません。でも、「その辛い経験を神は後にプラスとして用いてくださる」という見方ができるように導いてくださいます。
 私たち一人ひとりの日々の歩みは、その神の恵みの中にあることを覚えたいものです。そのように聞かれると、「先日の能登半島地震も神の恵みの中にあると言えるのか」と思われる方もおられるかもしれません。そのことについては何とも言えませんが、そのことについて一つ思わされたことがあります。それは創世記のヤコブの息子ヨセフです。聖書には「主がヨセフとともにおられた」と書かれています。それなのに、ヨセフは兄たちの妬みによってエジプトに売られてしまいましたし、エジプトでもポティファルの妻の偽証によって監獄に入れられてしまいました。「なぜ主がヨセフとともにおられるのに、このような仕打ちを受けなければならないのか」と思える状況が続きました。このときのヨセフは、「何で!」と思えるもの出来事です。しかし、創世記45:7に書かれていますように、兄たちに「    」と語りましたし、50:20でも「     」と語ることができたのです。イエス・キリストも「今は分からないが、後で分かるようになる」と話されました。今は分からなくても「神が益にしてくださる」という神の恵みの中に生かされていることを覚えたいものです。

2)働きを成し終える
 パウロとバルナバは「全ては神の恵みによるもの」と捉えシリアのアンティオキアに戻りました。聖書は彼らの働きについて、「成し終えた」と語っています。この「成し終えた」と訳されていることばは、使徒の働きでは様々なことばに訳されています。1:16では「成就しなければ」と訳されていますし、3:18では「実現されました」と訳されています。これらは、聖書に書かれている事柄は必ず成就するということです。すなわち、聖書に記されている神の計画は、私たちが生かされている歴史の中で必ず実現するということです。そのことを踏まえて、今朝の箇所の「成し終えた」ということばを理解するとき、それは神がパウロとバルナバを選ばれ、彼らに立てられたご計画をパウロとバルナバは成し遂げたという意味です。つまり、このパウロの第1回伝道旅行は漠然とした伝道旅行ではなく、はっきりとした目的を持った伝道旅行であったということです。そして、その目的を成し遂げたことを感謝してパウロとバルナバはシリアのアンティオキアに戻って来たのです。
 パウロとバルナバがアンティオキア教会を出るとき、13:4に「二人は聖霊によって送り出され」と、聖霊なる神の導きによるものであることが強調されています。聖霊の導きによって教会は神の御心を知り、聖霊の助けによって教会は共に心を合わせて祈るのです。教会は聖霊によって神のみことばを聞き、聖霊によって共に心を合わせて祈り合うことを通して、さらに教会は神の御心を知っていくのです。教会の歩みは、その繰り返しであることを知らされます。
 また、12:25には「奉仕を果たした」と訳されていますし、19:21では「これらのことがあった後」書かれている「あった後」が同じことばです。12:25は、11:29~30に書かれていますユダヤに住んでいる人たちへの救援物資をパウロとバルナバに託して送り出し、その務めを果たしたパウロとバルナバについて書かれています。19:21の「これらのこと」とは、パウロの第3回伝道旅行のときに生じた出来事を示しています。詳しく言えば、19:10に書かれていますように、アジア地方に住む人たちに主のことばを語り続けたことです。すなわち、自分に与えられている務めを果たし終えたことを表しています。
 以上のことから「成し終えた」ということばは、思い付きで始めたものではなく、目的と計画を立てて取り組んだことを指し示すことばであることが分かります。もちろん、その背後には聖霊の働きと教会の祈りがあることは確かなことです。14:36から始まるパウロの第2回伝道旅行と、18:23から始まるパウロの第3回伝道旅行はパウロの思い付きのように受け取れます。しかし、これはパウロの思い付きではありません。第1回伝道旅行の始まりが聖霊の導きにより、教会が共に祈り神の御心を知り始めたものである以上、この第2回伝道旅行と第3回伝道旅行も教会が共に祈り神の御心を知り、パウロを送り出したものと捉えるのが自然です。パウロとバルナバは、「アンティオキア教会から派遣された働きである」と自覚していたのです。ですから、アンティオキア教会に戻り、その働きの報告を祈り支えた教会の人たちに報告したのです。私たちの団体の宣教師は4年に1度北米に戻ります。それは自分たちの働きの報告のためです。約10ヶ月間、アメリカとカナダを飛び回って教会を訪問し報告されています。その原点はここにあるのです。

3)教会への報告
 パウロとバルナバは、シリアのアンティオキア教会に戻り教会の人たちに報告しました。それは自分たちの務めが聖霊の導きと教会の人たちの祈りによるものであることを自覚していたからです。彼らはシリアのアンティオキア教会の指導的立場の人たちです。しかし、同時に教会の一員であることも自覚しています。ですが、報告の目的はそれだけでなく、教会の人たちが共に神に感謝し、神に栄光を帰すことです。ですから、教会の人たちは彼らの報告を聞いて、きちんと教会の計画と目的を成し遂げたのかを吟味する必要があるのです。「無事に戻ってきて良かったね」で終わってはいけないのです。
 このことについて、報告ではありませんが礼拝メッセージにおいても同じことが言えると思います。礼拝で牧師が語るメッセージが果たして聖書的であるのか、また私たちの団体の信仰告白に沿っているのかを吟味する責任が教会員にはあるということです。メッセージで分からないことがあるかもしれませんし、私自身も間違ったことを語る時もあると思います。そのようなとき、礼拝後の分かち合いで出していただければと願っています。
 彼らの報告の中心は、様々な迫害に遭遇しながらも神の守りと導きによって支えられ、このように教会に戻ることができたと、27節の最後に書かれています「異邦人に信仰の門を開いてくださった」ということです。ある方は「えっ、シリアのアンティオキア教会には異邦人キリスト者もいたのではないの」と思われるかもしれません。11:19~26の箇所では、ユダヤ系ではない異邦人キリスト者もいたと考えられます。しかし、多くはユダヤ系異邦人であったと考えられます。しかし、第1回伝道旅行で建てられた教会の多くは、ユダヤ系ではない異邦人キリスト者を中心として建てられた群れであったと考えられます。パウロとバルナバは、「福音は決してユダヤ人だけのものではなく、ユダヤ人とは全く関係ない異邦人にも開かれている」ということを今回の伝道旅行を通して体験し、そのことを報告したのです。

結)
 今朝私たちは、パウロとバルナバの教会への報告を通して、私たちは神の恵みの中に生かされていることを知らされました。確かに、「不条理」と思えるような事柄に遭遇します。ですが、そこにも神は働いてくださっていることを覚えたいものです。また、教会はきちんとした目的と計画をもって活動することの大切さも学びました。さらに彼らの報告を通して、教会は語られる内容をきちんと吟味する責任があることも教えられました。教会がそのような群れであるということは、その群れに属する私たち一人ひとりもそうであるということです。私たち一人ひとりの歩みが神の恵みの中にあり、その恵みがどのように成されているのかを分かち合える群れとされていきたいと願います。

使徒の働き14:19~23「自立を目指す教会」 24.01.14.

序)
 先週は今朝の箇所から、「成長に欠かすことのできないもの」について学びました。それは、みことばを基準として歩むことであり、苦難の経験を通して神のすばらしさを知ることによってでした。パウロとバルナバは、キリスト者一人ひとりが霊的に成長することを願っています。ですが、それだけではありません。キリスト者個人の霊的成長と共に、キリスト者が集う教会の霊的成長をも願っています。教会の霊的成長とは、霊的に自立した教会のことです。今朝は23節を中心に、どのようにして教会は霊的自立を目指せば良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)長老たちの選出
 パウロとバルナバは、迫害を受けたリステラ、イコニオン、アンティオキアの各々の町に建てられた教会を巡り、一人ひとりの心を強めました。ですが、それだけで終わったのではありません。「教会ごとに長老たちを選び」と書かれています。パウロとバルナバは、教会ごとに長老たちを選んだのです。聖書の中には「監督」「長老」「執事」ということばが書かれています。各々の違いは何かと言いますと、「職務の違い」と考えられます。明確に区別することは難しいのですが、多くの教会では監督を「牧師」と捉え、長老・執事は牧師を補佐する「教会指導者」と捉えています。しかしながら、使徒20:17~28には、長老が監督であるかのようにも取れることが書かれています。パウロはエペソの教会の長老たちに語りかけたことが18節から書かれています。そして、28節の最後に「聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです」と語っています。この「あなたがた」とは、呼び寄せられた長老たちのことです。ですから、長老を「監督」と理解することも可能です。ですが、テトス1:6~7では、長老と監督を区別して書かれています。このようなことから、長老は教会の監督である牧師を補佐する立場の人たちと理解し、執事は長老を補佐する立場の人たちと理解する方々もおられます。ですから、教会によっては「牧師」「長老」「執事」を置かれている教会もあります。私たちのバプテスト教会には「長老」は置かずに牧師と執事のみです。「バプテストだから長老は置いてはならない」という定めはありません。ただ、私たちの教会の規約には「執事」の選出しか書かれていませんので、「長老」は置かれていないだけのことです。ですから、長老が置かれていない教会の執事は、牧師の補佐をする立場であり、牧師と同じく教会の指導的立場の職務があります。
 では、何故パウロとバルナバは、教会ごとに長老たちを選んだのでしょうか。それはパウロとバルナバが各々の地域から去ったあとも、各々の教会が信仰にしっかりと留まり続けるためです。それには教会に集う一人ひとりがみことばを基準として歩み続ける必要があります。教会の一人ひとりがみことばを基準として歩み続けるには、みことばが語り続けられる必要があります。何故なら、みことばを語らなければ、人はみことばを忘れてしまうからです。人は決して強い存在ではありません。自分自身を見れば分かります。ついついみことばよりも、自分の思いや考えを優先させてしまいやすい存在です。だから私たちは、礼拝で語られるみことばを通して養われていくのです。すなわち、教会の指導者がみことばを通して群れの一人ひとりを養い導くために選ばれたのです。
もう1つは、一つの群れとして歩み続けるためです。すなわち、群れをまとめていくことです。このリステラ、イコニオン、アンティオキアの町は迫害を受けた町です。パウロとバルナバが去ったら迫害がなくなるわけではありません。教会が存続する以上、町からの迫害は避けることのできないものです。パウロとバルナバは、そのことを十分理解していたのです。ですから、そのような迫害を受けたとしても一つの群れとして歩み続けていくためにも指導者が必要だったのです。それだけではなく、先程見ました使徒20:29~30で「     」と語っています。外からの迫害だけでなく、中から生じる違った教えからも守るためです。教会は様々な霊的戦いを強いられる群れです。その霊的戦いに負けることがないために指導者が選ばれたのです。

2)祈り
 パウロとバルナバがしたことのもう一つは祈りです。このときの祈りは、長老たちだけではなかったと考えられます。教会の人たち全員との祈りです。このように何かある度に、教会で全員が共に祈ることはあります。ただ、使徒の働きを読んでいきますと、共に集まり祈り合っていることが何度も書かれているのに気づきます。イエス・キリストは、宮の中で商売している人たちの台や腰掛けを倒されて、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と言われました。これは、神殿は祈りの家であることを語られています。どのようにして教会は成り立っていったでしょうか。創世記を見ますと、族長たちは祭壇にていけにえを献げました。その後、出エジプトのときには幕屋となり、カナンの地に定住するようになりますと神殿となりました。その後、神殿がバビロニア帝国によって破壊され会堂となりました。その後、エズラの時代にエルサレムに神殿が建てられましたが、散らされたユダヤ人たちは各々の地での会堂で集会を持っていました。教会は、この形を受け継いだのです。入会クラスで学ばれたことと思いますが、教会には「見えない教会」と「見える教会」があります。「見えない教会」とは、イエス・キリストにあって一つである霊的な教会のことです。それを「公同の教会」と言います。「見える教会」とは、各々の地に建てられている地域教会のことです。旧約聖書から見れば、見えない教会が「神殿」にあたり、見える教会が「会堂」と言うことができます。ですから、教会は「祈りの家」ということができます。
 教会が「祈り会」「祈祷会」というのを持っているのは、教会は祈りの家だからです。共に集い心を合わせて祈り合う祈り会は教会にとって大切なものです。祈り会を「教会の霊的バロメーター」と言われます。私が石川県の教会で奉仕をしていたとき、その教会の牧師が米沢の興譲教会に講師として招かれたとき、礼拝前に教会に入りますといろいろな場所で小グループになって礼拝のために祈っていたのを見て、「『この教会の強みはこれか!』と思わされた」と私に話してくださったのを今も覚えています。「教会が成長し続けるために必要なのは伝道だ」と思われるかもしれません。確かに教会の成長のために伝道するのは大切なことです。しかし、同時に共に心を合わせて祈り合うことも大切であることを聖書は語っています。何故なら、教会は祈りの家だからです。初代教会は共に心を合わせて祈り合っていくことによって確立されていったのを忘れてはなりません。そして、私たちの教会も共に心を合わせて祈り合う群れとして歩み続けていきたいものです。

3)主に委ねる
 パウロとバルナバは、教会ごとに長老を選び共に心を合わせて祈り合ったあと、「信じている主にゆだねた」と書かれています。このみことばから、「主に委ねるとはどういうことか」を考えさせられます。主に委ねるとは、何もしないことではありません。何もしないのは主を試みるだけです。パウロとバルナバは「何を主に委ねたのか」と言いますと、結果を主に委ねたのです。自分たちにできることは最善を尽くしたのです。すなわち、「主に委ねる」というのは、目の前の事柄に対して最善を尽くすということでもあります。聖書の語る信仰とはそういうものです。救いにおいては人の行いは必要ありませんが、信仰の歩みにおいては行いが必要なのです。ヤコブの手紙の時にも触れましたが、だからヤコブは「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」と語っているのです。
 イエス・キリストご自身も、「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」と話されています。この「忠実」ということばはギリシャ語で「ピストス」と言い、「信頼する」「信用する」という意味が含まれていることばです。それは「信仰」と訳されていますギリシャ語の「ピスティス」と意味合い的には同じものです。使徒10:45に「信者」と書かれています。「信者」とは信じる人のことであり信仰者のことです。このことばは「ピストス」ということばの複数形です。すなわち、聖書は信仰とは忠実と深い繋がりがあることを示しています。このことから、「聖書の語る信仰とは目の前の事柄を忠実に果たし続けることを意味している」というのが分かります。
 パウロとバルナバは、自分たちに生き様を通して「信仰とはどのようなものであるのか」というのを教会の人たちに示していたのです。すなわち、ただ信じるだけで何もしないのではなく、目の前の事柄に対して一つひとつ忠実に果たしていくものであることを示したのです。また、信仰とは一飛びのようなものではなく一歩ずつです。「神を礼拝するのは主の御心であるから守ってくださる」として、3階から飛び降りたらどうでしょうか。おそらくケガをして病院に運ばれることでしょう。階段を一つひとつ降りるのにも神の守りがあります。3階から飛び降りるのは神の守りを信じることではなく、むしろ神を試みる行為です。それは私たちの日々の生活も同じです。地味ではありますが、目の前のことを一つひとつ忠実に果たしていくことが聖書の語っている信仰です。
 パウロはⅡテサロニケ3:6~13で「     」と語っています。パウロが夜昼、労し苦しみながら働いていた目的は、見習うように身をもって模範を示すためでした。それは「信仰とはどのようなものであるか」を伝えるためです。教会の中には極端な捉え方をする人たちが出てきました。それは「神が養ってくださるから」と言って仕事をせず、人から与えられるもので生活していた人たちが出てきたようです。パウロは「そのような捉え方は間違いである」ことを示しています。ですから、パウロは12節で「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と勧めているのです。何故なら、仕事を通して神は養い必要を満たしてくださるからです。そして、「それが主に委ねる信仰である」と示しているのです。主に委ねるとは、目の前の事柄を一つひとつ忠実に果たし続けることです。

結)
 パウロとバルナバは、「福音宣教をして信じる人たちが起こされ、教会が建てられたらそれで良し」として神に委ねて戻ったのではありません。建てられた教会の町々に戻り、各々の教会が霊的に自立して歩み続けられるように準備をしたのです。それは教会の指導者を選ぶだけでなく、共に心を合わせて祈り合い、一人ひとりが最善を尽くすことを通して教会が自立した歩みをするためです。このことは私たちの教会においても同じです。私たちの教会も共に心を合わせて祈り合い、一人ひとりが最善を尽くしていく群れとして歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き14:19~23「成長に欠かせないもの」 24.01.07.

序)
 今日は、新年最初の礼拝です。新年に沿ったものも考えたのですが、7日も経ちますと正月気分も抜けたことでしょうから、使徒の働きに戻った方が良いと思い、今日から使徒の働きに戻ることにしました。前回を少し振り返りますと、パウロとバルナバはリステラという町に行き、生まれつき足が動かない人を癒したことから、リステラの町の人たちはパウロとバルナバを神々と思い崇拝しようとしました。そのことに気づいた彼らは「真の神に立ち返るように」と勧め、彼らの行為をやめさせました。今朝の箇所は、そのリステラの町の続きです。今朝は「霊的成長にかかすことのできないもの」について、来主日は「教会の確立」について、この箇所から共に教えられたいと願っています。

1)リステラとデルベの町にて
 先程も触れましたが、パウロとバルナバの必死に彼らの行為を止めさせようとしたため、リステラの人たちはパウロとバルナバへの崇拝を諦めました。しかし19節には、事態が急変した出来事が描かれています。何が起きたのかと言いますと、ピシディアのアンティオキア町とイコニオンの町のユダヤ人たちがやってきて、群衆を抱き込みパウロを石打ちにしたのです。驚くのは、イコニオンのユダヤ人だけでなくピシディアのアンティオキアのユダヤ人も来たということです。14:1のときにも触れましたが、ピシディアのアンティオキアの町はイコニオンから4~5日かかる道のりです。リステラの町は、イコニオンから1日かかる道のりです。200㎞程離れた町にまで、パウロとバルナバを追いかけてきたピシディアのアンティオキアのユダヤ人たちの「執念」と言いましょうか、思いの強さが伝わってきます。
 ですが、これは驚くべきことでもありません。パウロもそうでした。パウロもエルサレムの町でキリスト者を迫害するだけで満足するのではなく、ダマスコの町にいるキリスト者をも捕らえようとして出かけていたのです。エルサレムからダマスコまでの距離は約250㎞です。ですから、ピシディアのアンティオキアからリステラまでよりも遠いのです。それ程の距離をパウロは迫害しに行ったのですから、今回のことも驚くべきことではありません。ただ、彼らは群衆を抱き込んだのです。どのようにして抱き込んだのかは書かれていませんので分かりませんが、癒しの奇蹟を目の当たりにした人々をも抱き込んだのですから、とても巧妙な方法を取ったものと考えられます。このような現象は現代でも起こり得るものです。「自分の側にいる」と思っていた人が、ある日突然相手の側につくということが。世間というものが、どれほど当てにならないものであるかを見ることができます。
 その彼らによってパウロは石打ちの刑に処せられます。そして、彼らはパウロが死んだものと思い町の外に引きずり出しました。おそらく、それは見た目だけの判断ではなく、脈が止まっているのを確認して「死んだ」と判断したものと考えられます。キリスト者たちがパウロを取り囲んでいますと、急にパウロは立ち上がって町に入って行ったのです。それだけでなく、翌日はバルナバと共にデルベという町に行ったのです。石打ちの刑に処せられたときのパウロは仮死状態だったと考えられます。学びのときに、「Ⅱコリント12:2~5に書かれているのはパウロ自身のことである」と話されていましたが、私もそのように捉えている一人です。
 21節を読みますと、デルベの町では迫害を経験することはなかったようです。そして、多くの人々をイエス・キリストに導くことができたのです。しかしパウロとバルナバは、このデルベの町に留まり続けるのではなく、大きな迫害を経験したリステラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキアの町に引き返したのです。不思議に思えます。学び会のときにも見ましたが、その先に道がなかったのではありません。デルベからタルソに行く道はあったのです。デルベからピシディアのアンティオキアに戻るのと、デルベからパウロの故郷であるタルソを経由してシリアのアンティオキアの町に行くのとは、距離的にすればそれほど大きな違いはありません。なのに、パウロとバルナバは引き返したのです。何故でしょうか。考えられることは、リステラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキアに誕生した教会は、信仰的には生まれたばかりの状態ですから、身の危険を冒してでも彼らの信仰を励ます必要があったからと考えられます。5年や10年も経った人たちなら、そこまではしなかったことでしょう。誕生したばかりの教会が成長することを願い引き返したものと考えられます。

2)信仰にとどまって
 では、パウロとバルナバは引き返して何をしたのでしょうか。1つは22節に書かれていますように、「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりととどまるように勧め」たのです。パウロとバルナバは、誕生した教会は自然に成長していくとは考えませんでした。最も重要なことは、誕生した群れの一人ひとりの心を強めることでした。パウロとバルナバの宣教によってイエス・キリストを信じた人たちは、救いの喜びで心はいっぱいだったことでしょう。しかし、これから彼らを待ち受けているのは、現実の生活の中で経験する様々な障害です。ともすると、あまりにも厳しい現実に直面し、信仰が挫折してしまう危険性があります。そのために、最も大切なのは一人ひとりの心を強めることです。そのために、パウロとバルナバは各々の町に引き返したのです。
 では、どのようにして一人ひとりの心を強めたのでしょうか。それは、信仰にしっかりと留まることによってです。では、「信仰にしっかりと留まる」とは、どのようなことでしょうか。それは聖書のみことばを基準として、目の前の現実の事柄を見据えることです。ともすると、私たちは聖書のみことばではなく自分の経験や考えを基準として、目の前の事柄を見据えてしまいやすくなります。すると、間違った方向に進んでしまいます。「間違った方向とはどのような歩みなのか」と言いますと「的外れ」な歩みです。「的外れ」とは、聖書の語る「罪」を意味することばです。すなわち、そのような歩みは神に背を向けた歩みです。気づかない内に、神に罪を犯す歩みへと進んでしまいます。パウロとバルナバは、せっかく神から信じる信仰をいただき、罪を赦された者として、その道を歩み続けるためにも、信仰にしっかりと留まることを勧めたのです。聖書のみことばを基準として、「このことについて聖書は何と語っているのか」を聞き従いつつ、目の前の事柄に取り組んでいくことです。
 聖書に「あなたのみことばは、私の足のともしび。私の道の光です」と書かれています。「足のともしび」とは、目の前の事柄のことを意味しています。そして、「道の光」とは先のことを意味しています。「先のことを見据えつつ、目の前の事柄をきちんと果たしていくために必要なのは神のことばである」というのをこの箇所は表しています。「道の光は先のことを意味している」と話しました。先のことですから、はっきりとは見えずボンヤリかもしれません。しかし、目の前のことははっきりと見えます。すなわち、先のことははっきりと分からなくても、今何をしなければならないのかははっきりと分かります。その分かることを忠実に果たしていくためにも、神のみことばを基準として歩み続けることが大切です。不安や恐れを覚えても良いのです。動揺しても良いのです。それでも、「全てのことが共に働いて益となる」という神の導きを信じて、神のことばに従って一歩踏み出すことが大切なのです。これが「信仰にしっかりと留まる」ということであり、私たちの霊的成長に欠かすことのできないものです。

3)多くの苦しみを経て
 では、神のことばに従って一歩踏み出せば全てが順調に行くのかと言いますと、必ずしもそうではありません。「こんなはずでは」と思える事柄に遭遇することがあります。パウロとバルナバは、そのことをよく知っていました。ですから、勧めのあとで「私たちは…経なければならない」と語っているのです。クリスマスライヴのときにも話しましたが、私たちは神のみことばに従いつつも「何でこんなことが?」と思えるものに遭遇し、「最悪!」と思えることを経験します。聖書は「神を信じれば苦しみなど経験しない」とは語ってはいません。むしろ、「多くの苦しみを経なければならない」と語っているのです。「その目的は何か」と言いますと、その前に「神の国に入るために」と書かれています。神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならないのです。ここで語られています「神の国」とは、天の御国に入ることではありません。私たちが生かされていますこの世は、信仰の修行の場ではありません。聖書は、「天の御国に入るためにこの世にて多くの苦しみの経験を積まなければならない」とは語っていません。ここで語られています「神の国」とは神のすばらしさのことです。すなわち、「神のすばらしさを経験するには、多くの苦しみを経験する必要がある」ということです。
 先程も触れましたがクリスマスライヴの時に話しました。「最悪」と思える事柄が後に生かされるという経験を私たちはします。「あの時のあの苦しみが今生かされている」という経験をです。そのとき、「あの時の苦しみはこのことのためだったのか」と捉えることができます。そのように捉えますと、「あの時に『最悪』と思えていたものは最悪ではなかった」と思うようになり、「あれは私への神の備えだったのだ」と捉えられるようになります。まさしく、聖書のみことば通り「すべてのことが共に働いて益になる」ことを知らされ、改めて神のすばらしさを経験させられます。この22節の後半に書かれていることは、そのようなことです。私たちは出エジプト記と民数記に書かれています出エジプトの出来事を通して、イスラエルの民は約束の地カナンに入ることができたのを知っています。私たちの歩みは、まさしくあの出エジプトの歩みと同じです。多くの苦しみを経験しますが、その経験を神は益として生かすことのできる方です。そして、神のすばらしさを自分の体験を通して知らされていくのです。パウロとバルナバは「多くの苦しみを経なければならない」と、「なければならないもの」として語っています。それは私たちが神のすばらしさを新たに知るための神の備えだからです。ですから、苦難というのは私たちの霊的成長に欠かすことのできないものでもあります。

結)
 今朝は、私たちの霊的成長に欠かすことのできないものを共に教えられました。それは、みことばを基準として歩むことと苦難を経験することです。特に、苦難はマイナスのように思えますが、決してマイナスなものではありません。何故なら、神は私たちの想像を超えて、マイナスに思えるような事柄を通してプラスにすることのできる方だからです。その神に目を留めつつ、今年1年歩み続けられるように祈っていきましょう。

詩篇95:1~3「主に向かって喜び歌おう」 23.12.31.

序)
 今日は、今年最後の日となりました。今年も様々なことがありましたが、その一つひとつの歩みが守られたことを神に感謝したいものです。それと同時に、明日から新しい年が始まります。その新しい年も神を心から賛美する年とされたいと願っています。今朝の箇所の1節に「喜び歌おう」と書かれており、1節と2節には「喜び叫ぼう」とあります。「喜び」ということばが3回も用いられています。聖書は「主にある者には、喜びが心から溢れ出てくる」と語っています。しかし、私たちの現実の生活は喜びだけでなく、苦しみや悲しみの方が多いようにも思えたりもするのではないでしょうか。そのような中で、私たちはどのようにして神に向かって喜び歌い、喜び叫べば良いのでしょうか。今朝は、その喜びについて共に教えられたいと願っています。

1)誰に喜ぶのか
 私たちが喜ぶときはどのような時でしょうか。それは、自分の願いが叶えられ嬉しく思えた時にではないでしょうか。そのようなとき、私たちは心から喜びます。そのような喜びは、人として当然のことであり別に悪いことではありません。ですが、よくよく考えてみますと、私たちは結果に対して喜ぶのではないでしょうか。イエス・キリストが喜びについて話された箇所があります。その記事はルカ10:17~20です。ここに「     」と書かれています。イエス・キリストの弟子たちは、喜んでイエス・キリストの御許に帰って来ました。何故でしょうか。悪霊どもでさえ弟子たちに服従したからです。イエス・キリストの弟子たちは、良い結果が出たから喜んだのです。逆に言えば、もし悪霊どもが弟子たちに聞き従わず期待していたことと正反対の結果が出たなら、彼らは大きく失望して喜ぶこともなく、むしろ失望しながら帰って来たことでしょう。そのような弟子たちに対して、イエス・キリストは20節で「     」と話されました。これは「結果に喜びの根拠を置かないように」ということです。結果は喜びの根拠ではないのです。では、何が喜びの根拠となるのでしょうか。それは20節の後半で話されているように、自分の名が天に書き記されていることにです。すなわち、自分の罪が赦され神の子とされていることが喜びの根拠なのです。さらに言うならば、「神があなたにすばらしいことをしてくださったことに喜びなさい」と話されているのです。
 今朝の箇所の1節にも、「私たちの救いの岩に向かって」と書かれています。最初は「主に向かって」と書かれていますが、次は「救いの岩に」と置き換えられています。神を「救いの岩」と告白しています。今年神は、あなたにどのようなことをしてくださったでしょうか。何よりも、まずあなたを愛してくださいました。そして、あなたの歩みを支え守ってくださいました。神の支えと守りがあったから、私たちは今日このように生きていることができるのです。そして、必要なもの全てを満たしてくださいました。今年1年、神は私たち一人ひとりを導いてくださいました。まさしく、神は私たちにとって「救いの岩」となってくださいました。
 今年1年だけでなく、今までの歩みを振り返りますと、神に対して罪を犯していた私を救ってくださいました。今年も多くの人はクリスマスの意味も知らず過ごされたことでしょう。「イエス・キリストが何のためにお生まれになられたのか」を知らずに。それは、私たちの罪を赦し神の子とされるために、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かられるためにお生まれになられました。見えるものや感じるものに左右され不安や恐れに苛まれる。そのような私たちに本当の希望・平安を与えるために、イエス・キリストはお生まれになってくださり十字架に架かってくださいました。まさしく、神は私たちにとって救いの岩です。
 著者は、その救いの岩であられる神に向かって喜び歌うことを勧めています。結果にではなく、このような私に目を留め愛してくださり、守り導いてくださる神に喜び歌うことを勧めています。今年1年愛し守り導いてくださった神に感謝し喜びたいものです。そして、新年を迎えたいものです。

2)どのようにして喜ぶのか
 次に、私たちはどのようにして神に対して喜べば良いのでしょうか。著者は2節で「感謝をもって」と告白しています。まずは感謝をもって喜ぶのです。「感謝」という思いは、どのようにして生まれるのでしょうか。それは今までの歩みを振り返ることによってではないでしょうか。私たちの今までの歩みはどのようなものだったでしょうか。喜びの時もあったでしょうし、苦しみや悲しみの時もあったことでしょう。しかし確かなことは、神は最善を尽くして私たち一人ひとりを導いてくださったということではないでしょうか。聖書は「感謝をもって」の後に、「御前に進み」と語っています。この「御前に進み」を直訳しますと、「彼の顔に向かって」となります。それは神を見上げることを意味しています。最善を尽くし導いてくださる神を見上げる。今まで最善のときに最善のことをしてくださった神を思いつつ、これからの歩みに対しても神は最善のときに最善のことをしてくださると信じ、その神に委ね神を礼拝することを表現しています。聖書は「何でも良いから神を喜びなさい」と語っているのではありません。「きちんとした事柄」と言いましょうか、「根拠」と言いましょうか、「事実を確認して喜びなさい」と語っているのです。盲信や空想をして喜ぶのではありません。
 もう一つは、「賛美をもって」です。「賛美」と聞きますと、主日礼拝で行われています礼拝を思い起こされるのではないでしょうか。賛美は、神への礼拝に欠かすことのできないものです。ですから、神を礼拝することを表しています。喜びというのは、神を礼拝することを通して行われるものでもあります。そして、その「礼拝」と聞きますと、私たちは何よりも毎主日教会で行われている主日礼拝を思い浮かべるのではないでしょうか。ですが、礼拝というのは教会で行われている主日礼拝だけではありません。主日礼拝は群れとしての礼拝です。その他にも、個人的な礼拝もあります。すなわちディボーションです。それ以外にも、ある事柄を思い出して神に感謝し賛美するときも「礼拝」と言えるでしょう。そのような礼拝は、何時でも何処でもできるものです。聖書は、私たちに礼拝を通して神を喜ぶことを勧めています。感謝と賛美をもって、神を喜ぶことが神にある者の喜び方なのです。
 今年1年、神は私たちにどのようなことをしてくださったでしょうか。その一つひとつを思い巡らすとき、本当に神のすばらしさと神が想像を超えたお方であることに気づかされるのではないでしょうか。聖書の中に「すべての営みには時がある。」と書かれています。この「時」というのは、神が定められた時のことです。すなわち、神のご計画を表しています。ともすると、私たちは「今していることは無駄ではないのか」と思えることがあります。ですが、「数年後に」或いは「数十年後に」その時の経験が用いられることがあります。以前に「経験も賜物である」と話しましたが、まさしくそうではないでしょうか。神は私たちの想像を超えたお方です。ですから、想像を超えた用い方をしてくださいます。過去を振り返って神の導きを思い巡らすとき、これからの神の導きを展望することができます。そのとき神を誉めたたえます。「感謝」とは、まさしく過去の神の導きを思い巡らすことです。そして「賛美」とは、将来の神の導きの展望とも言えるでしょう。これからも、感謝と賛美をもって歩まされたいと願わされます。

3)何故喜ぶのか
 3節には、「何故喜ぶのか」という理由が書かれています。それは「主は大いなる神…大いなる王」だからです。神は世界を造り、私たち一人ひとりを造られたお方です。世界も私たちも御存知なるお方です。ですから、私たちの全てを御存知なるお方です。私たち一人ひとりのすばらしい点や弱い点など全てを御存知なのです。その神は、私たちのことを「あなたはわたしの目には高価で尊い。」と言ってくださっているのです。私たち一人ひとりは、神が造られたものの中で特別にすばらしい存在なのです。昔美術の先生と知り合ったことがありまして、時々その先生の自宅に伺うことがありました。その先生は年に数回個展を開き、描いたものを販売されていました。自宅には幾つかの絵があり、「一番気に入っているのはどれですか」と尋ねましたら、「これです」と答えてくださいました。でも、その絵は決して売らないらしいのです。自分の手許に置いておきたいらしいのです。何故なら、一番の愛着があるからです。
 神はあなたを造られたお方です。機械には定期点検というものがあります。私たちが利用しています車にも「車検」というのがあります。ですが、車検だけでなく半年に1回の「定期点検」というのもあります。ですが、定期点検は法律で定められていませんから、されない方が大勢おられます。私もその一人です。車検以外に自動車屋に車を持っていくのは、車に異変が生じたときや故障したときくらいです。「無責任」と言われれば無責任なのかもしれません。ですが、神は造られたあと放っておかれるような無責任な方ではありません。いつも私たちのことを気にかけてくださっています。だから、最善の時に最善のことをしてくださるのです。もし気にかけてくださっていないなら最善の時など分かりません。その神は「すべての神々にまさって」と書かれていますように、偶像の神々よりもまさって大いなる神であり、大いなる王であられます。私たちは、その神に知られているのです。神は私たち一人ひとりのことを知っておられ、愛してくださっています。そして、守り支え導いてくださっています。だから、その神を喜ぶのです。それが神を喜ぶ理由です。
 その神を喜び感謝することを妨げるものがあります。それは「当たり前」というものです。「こんなの当然のこと」と思いますと、そこには感謝の思いは生まれてはきません。私は教会に車で来るとき祈ることはしません。ですが、家内は何処へ行くにも発信する前に祈るのです。私はその光景を見て、心の中で「すごいな!」と思わされています。自宅から教会まで車なら5分程度です。「無事に着いて当たり前」と思いましたら、そこには感謝の思いは生じません。「1週間無事に過ごせたことが当たり前」と思っていたら感謝の思いは生じません。ですが、実は当たり前ではなく、その背後には神の守りがあるのです。神が私たちを守ってくださるのは、神が私たちのことを気にかけてくださっているからです。クリスマスライブのときにも話しましたが、私たちは「何で!」と思うような経験をします。ですが、後にそのときに経験したことが生かされることがあります。「最悪」と思えたことが「プラス」に「益」に変えられることがあります。そして、「あの時の体験はこの時のためだったのか」と思わされます。そのように神が導いてくださるのは、神が私たちのことを気にかけてくださっているからです。それが神を喜び事の理由です。

結)
 聖書は、神に喜びを献げることを勧めています。そこには、しっかりとした根拠があります。今年も神は、私たち一人ひとりを守り支え導いてくださいました。そして、最善の時に最善のことをしてくださいました。まず、そのところに目を留め神に感謝を献げたいものです。そして、その神は新しい年も最善の時に最善のことをしてくださいます。私たちは誰かに何か嬉しいことをしていただいたら感謝します。1週間守り支え導かれたのは、自分が気づこうが気づかまいが神の守りと支えと導きによるものです。その感謝を見える形として表すのが主日礼拝です。何故私たちが教会に集い神に礼拝を献げるのかと言いますと、神の守りと支えと導きを共に感謝するためです。決して、聖書の教えを守るために教会に集い礼拝を献げているのではありません。自分の神への感謝を見える形として表すのが主日礼拝です。明日から始まります新しい年も、共に感謝と賛美を神に献げ続けられる1年となりますように祈っていきましょう。

ルカ2:11「神からのプレゼント」 23.12.24.

序)
 今年の流行語大賞は「アレ」でした。阪神タイガースが38年ぶりに優勝し日本一になりました。この4年間は2位とか3位で、もう少しでリーグ優勝なのに届きませんでした。そのため、選手がプレッシャーをはねのけるために、岡田監督が「アレ」ということばを用いるようになりました。調べてみますと、リーグ優勝は38年の間にも2003年と2005年にしていますが、日本一になることはできませんでした。38年前は東京に住んでいまして、「東京にはこんなにも阪神ファンがおるんや!」と驚いたのを覚えています。その時もすごく話題になりました。何故なら、その時は41年ぶりの日本一だったからです。
 「アレ」ということばは、私たちもよく用いることばですね。「アレ取って!」とか「アレ、アレ何やったっけ?」など、私もよく用います。特に「アレ何やったっけ」ということばは日常的に多いですね。「アレ」ということばは、とても便利です。失敗したときも「アレ!?」ということばを使います。中には、「アレ!?クリスマスは何の日?」と思われる方もおられるかもしれません。多くの人は、「クリスマスはサンタの日」と思われているかもしれません。「サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれる日」と思われている人もおられます。
そのサンタクロースは実在していた人物です。サンタクロースの正式名は「セント・ニコラス」です。「セント」とは、正しくは「セイント」です。「セイント」とは「神聖な」とか「清らかな」という意味を持つラテン語です。私の年齢に近い方は「聖闘士星矢」という漫画があったのを覚えておられる方もおられると思います。その「セイント」です。ですから、「セント」とは「神聖な人」という意味です。彼はローマ・カトリック教会の司祭で、貧しい人を助けていました、それをモデルとしてサンタクロースが生まれたのです。実際に「サンタの日」というのがあります。いつか御存知でしょうか。それは12月6日です。この日がサンタクロースのモデルとなったセント・ニコラスの誕生日です。12月25日ではなかったのです。では、クリスマスは何の日でしょうか。イエス・キリストの誕生日ではありません。イエス・キリストが誕生されたのをお祝いする日です。ですから、クリスマスはイエス・キリストの誕生会なのです。では、そのイエス・キリストは何のためにお生まれになられたのでしょうか。今朝は、そのことについて聖書から教えられたいと思います。
 イエス・キリストは、死ぬためにお生まれになられたのです。私たちもお母さんの胎内から生まれました。ですが、私たちは死ぬために生まれたのではありません。確かに私たちは、いつかは死にます。でも、死ぬことを目的として生まれたのではありません。私たちがこの世に生まれた目的は生きるためです。しかし、イエス・キリストは死ぬことを目的としてお生まれになられたのです。では、イエス・キリストはどのようにして死なれたのでしょうか。教会には十字架が架けられています。この教会の上にも十字架が掲げられていますし、この講壇の前にも十字架が掛けられています。イエス・キリストは、十字架に架けられて死なれたのです。「十字架」というのは、人間が考え出した最も恐ろしい処刑方法です。日本には死刑制度があります。その死刑方法は絞首刑です。また、アメリカでは死刑制度を廃止している州がありますが、廃止していない州での死刑方法の多くは薬物注射です。日本においてもアメリカにおいても苦しまずに息を引き取る方法を取っています。しかし、十字架刑というのは両手・両足に釘を打たれ、苦しみながら死ぬ処刑方法です。通常は「3日間苦しみ続ける」と言われています。
しかも、発掘作業で分かったことですが、十字架の縦の板の中程より少し下に板がつけられていました。それはお尻を乗せるためです。何故、そのような板がつけられていたのかと言いますと、両手・両足に釘を打たれぶらさがりますから、少しでも楽にするためではありません。お尻を乗せることによって血の巡りを少しでも遅らせるためです。血の巡りが少しでも遅れるということは、処刑された人にとっては苦しむ時間が少しでも延びるということです。それほど、恐ろしい処刑方法だったのです。因みに、サンタクロースの服が赤いのは、そのイエス・キリストが流された「血の色」と言われています。
 では、何故イエス・キリストはそのような十字架に架けられたのでしょうか。それは、人の中にある良くない心によってです。では、良くない心とは何でしょうか。それは悪い考えです。イエス・キリストのことを良く思っていない人たちは、イエス・キリストの存在が邪魔になりました。人は存在が邪魔になりますと、どのような思いを抱くでしょうか。その人の存在を亡くすことを心に抱いてしまいます。その人の存在を亡くす。それは、その人をこの世から存在しないようにすることです。すなわち、その人の命を奪うことです。マルコ7:20~23に「     」と書かれています。日本の法律においては、殺人と妬みとではどちらが重い刑罰を受けるでしょうか。殺人の方が重い刑罰を受けます。そして、妬みは罪に定められることはありません。しかし、イエス・キリストの存在が邪魔になった人たちの心に抱いたものは妬みです。そして、その妬みが強くなって、イエス・キリストの存在が邪魔になり、最後にはイエス・キリストの命を奪う計画を立てたのです。しかも、自分たちの手を汚さないようにです。
 イエス・キリストを十字架刑に処刑するように訴えた人たちは、自分たちが偽った証言をしていることは知っていました。知っているのに偽った証言をしたのです。何故でしょうか。それは先ほども話しましたように、イエス・キリストの存在が邪魔になったからです。イエス・キリストの存在を消すことによって、自分たちの心が満たされるからです。すなわち、自分の心を満たすために、守るために「悪い」と知っていてもしてしまったのです。それは現代の私たちも同じです。万引きも「悪い」と知りつつもするのは、自分の心を満たすためです。最近、大麻のニュースを耳にしますが、それも「悪い」と知りつつもするのは、自分の心を満たすためです。人は「悪いこと」と知っていたらしないのではなく、知りつつもしてしまう弱さを持っているのです。聖書は、そのことを「罪」と語っています。聖書が語る「罪」とは、罪を犯すことではありません。心の中で悪い思いを抱くことです。
 イエス・キリストは、その人の中に生じた悪い思いによって十字架に架けられ死なれたのです。最初の方で、「イエス・キリストは死ぬために生まれた」と話しました。何故、「死ぬために生まれたのか」と言いますと、その私たちの中にある罪の身代わりとなって神の罰を受けるためです。本当ならば、私たちが神の罰を受けなければならなかったのですが、イエス・キリストが私たちの代わりに神の罰を受けてくださったのです。聖書は、「『イエス・キリストが私の罪のために身代わりになって神の審きを受けてくださった』と信じるなら、その人の罪は赦される」と書かれています。イエス・キリストは、私たち一人ひとりの中にある罪が、神から赦されるためにお生まれになり十字架に架かられたのです。そのイエス・キリストは、今朝の箇所にも書かれていますように「あなたがたのために生まれ」たのです。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、神からのあなたへのプレゼントです。

結)
 私たちはちょっとした失敗をしたとき、「アレ!?」と言って「こんなはずじゃなかったのに」と思ってしまいます。ちょっとした失敗なら良いのですが、大きな失敗のときは心が沈んでしまいます。私たちの中にあります罪は、大きな過ちを犯してしまう強いものです。その私たちの中にあります罪を赦すために、イエス・キリストはお生まれになられたのです。それがクリスマスです。
礼拝後に食事会をし、その後の祝会でプレゼント交換をします。何故、クリスマスでプレゼンを送り合うのかと言いますと、イエス・キリストの誕生はイエス・キリストを信じる人・信じない人全ての人への神からのプレゼントだからです。この後のプレゼント交換のとき、「クリスマスは神からの私へのプレゼントだ」ということを思い起こしていただければと願います。


マタイ1:18~25「神に従う」 23.12.17.

序)
 昨日は、数年ぶりにクリスマスライヴが行うことができ、大勢の方々を送ってくださったことを神に感謝したいものです。そして、来主日はクリスマス礼拝です。イエス・キリストの誕生を心から祝う礼拝となることを願っています。先週、私たちはイエスの母マリアを通して、本当の幸せは神のことばを土台として生きることを学びました。ですが、神のことばを土台として生きるというのは、「不安や恐れや疑いがない」ということではありません。今朝は、イエスの父ヨセフを通して神に従うことについて共に教えられたいと願っています。

1)ヨセフの選び
 まず、ヨセフは神によって選ばれた人でした。今朝の箇所まではイエス・キリストの系図が書かれています。そして、6節以降ではダビデの家系が書かれています。ですから、ヨセフはダビデ王家の子孫であることが分かります。12節に「エコンヤ」と書かれています。この「エコンヤ」という人は誰でしょうか。欄外を見ますと、「Ⅰ歴代誌3:16」と書かれています。ここにエコンヤの名前が書かれています。そして、エコンヤに*印がつけられ、欄外を見ますと「エホヤキン」と書かれています。ですから、「エコンヤ」とはエホヤキン王のことです。エホヤキンとはどのような王だったか覚えておられるでしょうか。彼はゼデキヤ王の前の王でした。ゼデキヤ王は御存知だと思います。南ユダ王国の最後の王です。彼はバビロンに反逆したため、捕らえられ自分の目の前で息子たちが残虐され、自分自身も目をつぶされ生涯を過ごすことになります。そして南ユダ王国は滅亡します。そのゼデキヤの前の王がエホヤキンです。エホヤキンは南ユダ王国の王でしたが、バビロンの王によって王職を解かれゼデキヤが王になります。そして、エホヤキンはバビロンに連れて行かれます。その後バビロンの王の前で食事をし、生活費を王から支給されたことがⅡ列王記の最後に書かれています。
 ですから、マタイ1:12以降に書かれていますダビデ家の家系の人たちは王ではありませんでした。ただダビデ家の血筋の男性の名前です。17節を見ますと、「バビロン捕囚からキリストの誕生までが14代」と書かれています。当時は子どもが多く生まれていた時代です。5人の男の子が生まれたとして、それに14乗しますと60億人を越えてしまいます。今の世界人口が80億人と言われています。その人口数に近い中からヨセフが選ばれたのです。60億分の1ですから、これはもう天文学的数字です。年末ジャンボ宝くじの当選の方が確率は高いのではないでしょうか。
 何故ヨセフが神に選ばれたのかは分かりません。ただ、神は「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」とモーセに話されました。ヨセフが神に選ばれたのは、一方的な神の恵みであり憐れみです。そして、私たちがイエス・キリストを信じる者とされたのも、一方的な神の恵みと憐れみによってです。私たちは、ただ「このような私を選んでくださった」という神の恵みと憐れみに感謝するしかありません。このアドベントのとき、神の選びに感謝しつつ歩まされたいものです。

2)正しい人
 次に、ヨセフは正しい人でした。では、この「正しい人」とは、どのような人のことでしょうか。私たちが思い浮かべる「正しい人」とは、規則をきちんと守る人を思い浮かべるのではないでしょうか。そして、「ヨセフという人は神の律法を守り行っていた人」というイメージを抱かれる人も多いのではないでしょうか。私もその一人です。聖書がヨセフのことを「正しい人」と紹介しているのですから、神の律法を守り行っていた人であることは間違いないと思います。でも、それだけでもなかったと思われます。彼は「マリアをさらし者にしたくなかった」と書かれていますから、マリアに起きたことを思い巡らし悩んでいたと想像できます。おそらく御使いガブリエルから告げられ、それが実際に自分の身に起こりマリアはヨセフにそのことを話したものと考えられます。「処女が身ごもる」というのは常識的には考えられないことです。この出来事をどのように理解したら良いのか。ヨセフはとても悩み苦しんでいたものと思われます。そして、出した結論は密かに離縁するというものです。
 「密かに」というのは、「誰にも知られないように」ということです。もし誰かに知られましたら、マリアは石打ちの刑に処せられてしまいます。何故なら、それが律法の定めだからです。このことについてもヨセフは悩んだものと考えられます。自分は知っているのに知らないふりをして離縁する。そして、マリアがすぐに別の男性と結婚したら、石打ちの刑から免れるかも分かりません。ひょっとしたら、そのことに賭けたのかもしれません。ですが、「知っているのに知らないふりをする」というのは、「嘘をつく」というものです。そのことにもヨセフは悩んでいたのではないでしょうか。
 少し話しが反れますが、皆さんは「嘘をつく」というのをどのように思われているでしょうか。確かに、嘘をつくのは良くないことです。だから、「いつでも正直にあるように」と言われるでしょうか。非常に難しい事柄です。ある方は「聖書に『偽りの証言をしてはならない』と書かれているから」と言われます。確かに、十戒の中に「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と書かれています。ここに書かれています「証言」とは法律用語です。すなわち、裁判などの席で「偽りの証言をしてはならない」ということです。日本の裁判所でも偽って証言をすれば「偽証罪」として罪に定められます。ですが、日ごろの「嘘」は罪に定められることはありません。
 「ラハブ」という女性を覚えておられるでしょうか。有名な女性の一人です。彼女はイスラエル人ではなくカナン人の女性です。イスラエルの民は神によってエジプトを出て、カナンの地を目の前にしていました。そのとき、モーセの後継者であるヨシュアは2人のスパイをエリコの町を偵察するために遣わしました。すると、その情報がエリコの王に入り、エリコの王はラハブの所に人を遣わしました。そのとき、彼女は何と答えたでしょうか。そのやりとりがヨシュア記2:3~5に書かれています。エリコの王から遣わされた人たちは、ラハブのことばを信じその場から去りますと、ラハブは屋上に匿っていたイスラエル人の2人を逃がしました。ここで、ラハブは嘘をついたのです。このことについて、皆さんはどのように思われるでしょうか。この箇所は教会学校での話しでもよく出てくる箇所です。子どもたちから「嘘をついてもいいの?」と聞かれたら、どのように答えられるでしょうか。
 また、Ⅱサムエル記17章にも似た出来事が書かれています。ダビデ王は息子アブサロムの反逆によって、エルサレムの町から去らなければならなくなりました。そして、アブサロムの陣営に残していたフシャイは、アブサロムの作戦をダビデに伝えるために2人の人を遣わしました。この2人はダビデに知らせるために、ある人の家に行きました。すると、アブサロムの家来たちがその人の家に来て、「彼らは何処に居るのか」と尋ねたところ、その人の妻は「ここを通り過ぎて川の方へ行きました」と嘘をついたのです。そのために、匿われた2人は助かりアブサロムの作戦をダビデに伝えることができたのです。このことはどうでしょうか。ある方は「神は憐れみ深い方だから、それらを見逃されただけだ」と言われるかもしれません。確かに、その通りなのかもしれません。ですが、私は人の命にかかわる事柄であるなら、嘘をついても致し方ないと思っています。
 ヨセフもそうでした。自分が正直に世間に言っていたらマリアの命が奪われてしまうのです。ある方は「ヨセフは黙っていただけだから嘘をついてはいない」と言われるかもしれません。ですが、「知っているのに知らない振りをする」というのは、「嘘と同じではないか」と私には思えるのです。これは非常に難しい事柄です。私も頭の中で「あれこれ」と考えながら準備をしています。ヨセフはそれ以上に悩みながら過ごしていたのではないかと想像します。ただ、ヨセフは自分と同じようにマリアのことを深く考える愛と憐れみの深い人であったと想像します。イエス・キリストは「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにではない」と話されたことがマタイ9:13に書かれています。欄外を見ますと「あるいは『あわれみ』」と書かれています。第3版までは、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と訳されていました。まさしくこれではないでしょうか。そのような意味もあって、ヨセフを「正しい人」と紹介しているのです。聖書が語る「正しい人」とは、何が何でも規則をきちんと守る人ではなく、人を思いやることのできる憐れみ深い人です。私たちも神の憐れみによって支えられていますから、人に対しても憐れみをもって接していけるように祈っていきたいものです。

3)神に従った人
 ヨセフは身ごもったマリアと密かに離縁しようと思っていました。この「思った」とは、ヨセフが決断したことを表しています。ですが、決断したのですが「思い巡らしていた」のです。ここに、ヨセフの心の中に大きな葛藤があるのを見ることができます。私たちもそのようなことがあります。決断したのですが、「いや、ちょっと待てよ」ということがあります。決断しても、その決断を行動に表すことに躊躇してしまうときがあります。ヨセフは、まさしくそのような状態だったのです。そのヨセフが行動に表すことができたのは何によってでしょうか。それは主の使いによってです。そして、聖書はこの主の使いの出来事について、22節「     」と語っています。「このすべての出来事」とは何でしょうか。それは主の使いがヨセフに現れたことだけでなく、マリアが身ごもったことも含めた「すべての出来事」です。そして、イザヤ7:14が引用されています。特に、最後の「その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれています。インマヌエル。それは訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。イエス・キリストの誕生は、神が私たちとともにおられることの見えるしるしなのです。
ここに神の奥深い備えを見ることができます。このことを知るまでのヨセフは、おそらく「何故こんなことが起きたのか」と悩み続けていたのです。自分が信じていた女性が律法に背くような大きな過ちを犯したことに深く悩み続けていたのです。このときのヨセフの心の中には「裏切られた」というものも頭の中によぎったことでしょう。このときのヨセフにとっては最悪の出来事です。ですが、その最悪の出来事と思えるような事柄も聖書は、「主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」と語っているのです。そのことを知るとき、改めてローマ8:28のみことばを思い起こされます。「すべてのことが共に働いて益となる」と書かれています。ヨセフは、マリアの妊娠を通してこのことを経験したのです。私たちの生活の中にも「何故こんなことが」と思える事柄に遭遇することがあります。しかし、神はそのように思える事柄をも用いて、私たちの想像を超えたことをしてくださいます。私たちが目に留めるものは、その神の備えと導きです。そして、私たちが成すべきことは、その神の備えと導きを信じて目の前の事柄に対して忠実に果たし続けることです。
 このときのヨセフにとっての目の前の事柄に対して忠実に果たすことは、マリアを妻として迎え入れることでした。当然、そこには大きな不安があります。世間から何と言われるか分かりません。もしかしたら、石打ちの刑に処せられるかもしれません。ことばに言い表すことのできない大きな不安があったことでしょう。ですが、ヨセフは神に従いマリアを妻として迎え入れたのです。何故、そのようなことができたのでしょうか。それは「神が私たちとともにおられる」ということを信じたからです。「神がすべてのことに働いてくださりプラスにしてくださる」と信じ続けたからです。
 ヨセフは神に従った人です。神に従う人とは、不安や疑いを抱かない人ではありません。そのような不安や疑いを抱きつつも、神の約束に目を留め信じて一歩踏み出す人です。決して強い人ではありません。私たちは強い人になる必要はありません。今のままで良いのです。ただ大切なのは、神の約束を信じ一歩踏み出すことです。私たちは、このヨセフからそのことを学ばせられます。

結)
 今朝は、ヨセフから幾つかのことを学ばせられました。私たちが神の一方的な憐れみと恵みによって選ばれたことに感謝すること。そして、決まりを守ることは大切ですが、それ以上に人を憐れむ心が養われること。そして、神の約束を信じて一歩踏み出すこと。この1週間、そのことに目を留めつつクリスマス礼拝を迎えたいと願います。


ルカ1:26~38「本当の幸せ」 23.12.10.

序)
 アドベントの第2週目に入りました。あと2週間でクリスマス礼拝です。今日の午後には子どもクリスマス会が行われます。そして今週の土曜日には、久しぶりにクリスマスライヴが行われます。コロナで大々的なことができませんでしたが、久しぶりに行えられることに感謝したいです。先週はザカリヤを通して、私たちが信じている神は「常識を超えた神」であられることを見ました。今朝はイエス・キリストの母マリアがどのような女性であったのかを見つつ、本当の幸せについて共に教えられたいと願っています。

1)恵まれた女性
 第1に、マリアは恵まれた女性でした。マリアが部屋に一人いた時でしょうか、御使いが突然マリアの前に現れ、「おめでとう恵まれた方」とマリアに告げました。では、何がめでたく恵まれているのでしょうか。イエス・キリストをお腹に宿ったことがめでたく恵まれたのでしょうか。ですが、彼女はヨセフと婚約中で未婚の女性です。現代では驚くことではありませんが、当時のイスラエル社会では石打ちの刑という死刑に処せられてしまう驚くべきことでした。ですから、未婚の女性にとって妊娠というのは決してめでたいものではありません。むしろあってはならないことであり、本人にとってはとても迷惑なことなのです。
 では、何がマリアにとってめでたく恵まれたことなのでしょうか。それはイエス・キリストをお腹に宿ったことよりも、神に選ばれたことにあります。「恵み」というのは、本来受けるに価しないのに受けられることです。受けるに価して受けるのは報酬です。例えば、働いた分の賃金を受けるのは恵みではなく報酬です。しかし、働いてもいないのにお金を受け取れるのは恵みです。1:48で、マリアは自分のことを「卑しいはしため」と告白しています。これは、自分は身分が低く奴隷のような女性であるという告白です。実際に、彼女は特別に何かができた女性ではありませんでした。技術的に、或いは能力的に特別に優れていたわけではありませんでした。何処にでもいる一般的な女性でした。ですが、神はそのようなマリアに目を留められ選ばれたのです。特別な賜物が与えられている人が選ばれるのなら分かりますが、何の取り柄もない普通の人が特別に選ばれるのです。すなわち、選ばれるに価しない者が選ばれたのです。聖書は、主の選びについてⅠコリント1:27で「     」と語っています。神は特別な人にだけ目を留められる方ではなく、何の取り柄もない人にも目を留め選んでくださる方なのです。
 その神の選びというのは、現代の私たちにおいても同じことが言えます。現代のキリスト者の中には、特別な技術や能力を持っておられる方がおられます。神はその人に目を留め選ばれました。しかし、殆どのキリスト者は特別な技術や能力を持っておられないのではないでしょうか。ですが、神はそのような人にも目を留め選んでくださいました。このことから神の選びというのは、何かができる技術や能力が基準ではないことが分かります。「では神の選びの基準は何か」と尋ねられますと、「分かりません」としか答えることができません。何故なら、私が選ぶのではなく神が選ばれるのですから、神ご自身に聞くしかありません。ただ大切なことは、自分が神に選ばれたことを誇るのではなく、このような自分を選んでくださったことへの感謝です。
マリアは自分が選ばれたことを誇ったのではなく感謝したのです。1:46以降に書かれています「マリアの賛歌」はそうです。何の取り柄もない自分に神は目を留め、選んでくださったことに感謝したのです。今後の自分の歩みを想像すると、妊娠したことによって世間からどのような目で見られ、どのような扱いを受けるか分かりません。日陰の生活を強いられることになるかもしれません。世間から見れば、決して「めでたく恵まれている」とは言えません。しかし、マリアはそのようには受け取らなかったのです。自分のことを「幸せ者」と48節で告白しているのです。それは神の選びのすばらしさを経験したからです。すなわち、「このような者であっても神は目を留めていてくださる」というのを知ることができた人が、「聖書の語る恵まれた人」なのです。私たちも極普通の人です。そのような私たちに神は目を留め選んでくださったのです。私たちも神に選ばれた人なのです。そのことを深く思い起こし感謝するときがアドベントです。私たちは普段ではなかなか「神の選び」というのを意識することはありません。そのような中で、このアドベントの時季に神の選びに感謝しつつ過ごさせていただきたいと願わされます。

2)神のみことばを信じ切った女性
 第2に、マリアは神のみことばを信じ切った女性でした。マリアは御使いの告知の後、親類のエリサベツという女性の家に訪問します。このエリサベツは、先週見ました祭司ザカリヤの妻で、子どもを宿すことのできる年齢ではありませんでしたが、やはり神の選びにより子どもを宿すようになった女性です。このエリサベツはマリアに「主によって…幸いです」と告げたことが45節に書かれています。それはマリアが主の約束を信じ切ったことを表しています。このことから、マリアは主のみことばを信じ切った女性であったことが分かります。では、その神のマリアに対する約束とは何でしょうか。それは、1:51~55でのマリアの告白にありますように、神が御腕をもって力強いわざを行い、助けてくださるという神の守りのです。マリアは「神が必ず守ってくださる」という約束を信じ切ったのです。今後のマリアに待ち受けているものは何でしょうか。それは世間からの誹謗中傷という試練です。ですが、マリアはそのような試練の中にも幸せを見出していたのです。
 私たちは「試練の中に幸せはない」と思いやすいのではないでしょうか。ですが、試練の中にも幸せを見出すことができるのです。「どのような幸せか」と言いますと、「神の守り」という幸せです。この視点は、私たちにとってとても大切なことです。何故なら、それによって見方が異なってくるからです。もし試練の中に幸せがないとしたら、試練は良いものではなくなってしまいます。試練が良いものではないとしたら悪いものとなってしまいます。ですが、神は私たちに悪いものを与えられることはされません。私たちにとって良いものを神は与えてくださいます。実際に、私たちは試練を通して様々なことを学ぶのではないでしょうか。そうであるなら、試練は決して悪いものではありません。試練が悪いものでないなら、試練は良いものとなります。そうです。試練の中にも幸せがあるのです。どのような幸せでしょうか。それは先程も話しましたように、「神の守り」という幸せです。試練を通して神はすばらしいことをしてくださいます。その神の約束を信じて歩むのが聖書の語っている信仰です。そしてマリアは、その神の約束を信じ切った女性でした。
 ところが、私たちはなかなか神の約束を信じ切ることができません。何故でしょうか。その多くは自分の尺度で測り判断してしまうからではないでしょうか。自分の知識や経験を基に考えてしまうからではないでしょうか。ですが、神のみわざは私たちの想像を超えたものです。私たちの想像を超えた働きをもって、神は私たちを守り導いてくださいます。神は私たちの頭の中で理解し判断できるような小さな方ではありません。私たちの頭の中では理解できない想像を超えたお方です。その想像を超えたみわざをもって、「あなたを守り導く」と約束してくださっているのです。その神の約束を信じ切った人が幸いな人でもあります。私たちにもマリアのように、神の約束を信じる信仰がさらに成長できるように祈るアドベントを過ごさせられたいものです。

3)主のみことばを土台として生きた女性
 第3に、マリアは神のみことばを土台として生きた女性です。2:8以降には、イエス・キリストの誕生が羊飼いに知らされたことの出来事が記されています。その羊飼いたちは、御使いの知らせを通して主の誕生を知り、イエス・キリストがお生まれになられた場所を捜し当てました。そこにいた人々は、羊飼いが話したことに驚きましたがマリアはどうだったでしょうか。19節に「     」と書かれています。マリアは心に納めて思いを巡らしていたのです。では、マリアは何を思い巡らしていたのでしょうか。それは神がなされたことをです。自分に対してもそうですが、羊飼いたちに対してなされた全てのことに思いを巡らしていたのです。神は御使いを通して、イエス・キリストの誕生をマリアに告げられました。それは神のみことばそのものでもあります。その神のみことば通りに事は進み、マリアの想像以上のことを神はなされたのです。ですが、実は神のみことばが果たされただけのことなのです。これは神にとっては特別なことではありません。人にとっては計り知ることのできない特別な出来事かもしれませんが、神にとっては特別なことではないのです。ごく普通のことなのです。
 マリアは、その神のみことばがどのように果たされたかに思いを巡らしていたのです。マリアが目に留めていたものは神のみことばです。このことから、マリアは神のみことばを土台として生きた女性ということができるのではないでしょうか。ですから、突然御使いが自分の前に現れ、人間の常識では考えられない処女である自分が男の子を産むことを告げたときでも、「あなたのおことば通り、この身になりますように」と告げることができたのです。祭司であるザカリヤでさえ、御使いのことばに対してしるしを求めたことが1:18に書かれていました。そのため、ザカリヤは話すことができなくなるというしるしを受けました。余談ですが、ザカリヤは御使いのことばを信じなかったから罰として話せなくなったのではありません。しるしを求めたが故に「話せない」というしるしを受けたのです。ですが、マリアはしるしを求めることもせず、素直に神のみことばを受け入れたのです。それは、いつも神のみことばを土台として生きていたからです。
 神のみことばを土台として生きることは、どれほどすばらしいことであるかを知らされます。確かに不安や恐れはあったことでしょう。その不安と恐れの中で、神のみことばを信じ寄り頼み歩み続けたのです。そのとき、自分の想像以上の神の守りと導きを経験したのです。この経験は、今後の彼女の歩みにおいて大きなものへとなります。それは「今後どのようなことが起ころうとも、神は必ず守り導いてくださり最善を尽してすばらしいことをしてくださる」という確信です。だからこそ、イエス・キリストが十字架に架かられたときでさえ、その十字架の前に立ち得たのではないでしょうか。確かに、肉的に言えばマリアがお腹を痛めて生んだ息子です。母親の愛の故に立ち得たということもあるでしょう。しかし、聖書の記述の中では動転することもなく、じっと十字架に架かられたイエス・キリストを見つめるマリアしか描かれてはいません。それは、このときでさえ「神は想像以上のすばらしいことをしてくださる」と信じていたからではないでしょうか。そして、実際に人には想像すらできなかった死からイエス・キリストは甦られたのです。

結)
 このマリアから、「本当の幸せは何か」を考えさせられるのではないでしょうか。どれほど物質的に豊かであっても、学力や才能があっても、心の中が貧しければ「幸せ」とは言えません。本当の幸せは、神のみことばを土台として生きることです。何故なら、その歩みを通して神の約束の確かさを経験できるからです。その経験は、「これから先も様々なことに遭遇するけれども、必ず神はすばらしいことをしてくださる」という希望をもって歩むことができるからです。そして、その希望を抱いて生きられることが本当の幸せではないでしょうか。その本当の幸せを私たちに与えるために、イエス・キリストはお生まれになってくださったのです。そのことを思い巡らしつつ、アドベントの時を過ごしていきましょう。


ルカ1:5~25、57~64「常識を超えた神」 23.12.03.

序)
 今日からイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスに備えるアドベントに入りました。年の瀬を迎えますと「あれをしなければならない」「これをしなければならない」と心が慌ただしくなります。「慌ただしい」という漢字は「心が荒れる」と書きます。心の中は大波になり、落ち着かない状態を表しています。年末はそのような時季ですが、そのような中にあってクリスマスの意味を思い巡らすために、心を静める時季がアドベントでもあります。今年のクリスマスメッセージは、教会学校のテキストである「成長」の箇所から共に教えられたいと願っています。今朝の箇所は、イエス・キリストが誕生される前のザカリヤという人に男の子が誕生する箇所です。今朝はこのザカリヤを通して、クリスマスの意味を思い巡らされたいと願っています。

1)ザカリヤ夫婦
ザカリヤとは「主は覚えておられた」という意味で、主に目を留められることを願ってつけられたと考えられます。彼は祭司という仕事をしていました。祭司とは、神殿の仕事をする特別な働きであり、ユダヤ教の指導的立場の人です。この祭司という仕事は誰もがなれる職業ではなく、「アロン」という人の子孫しかなれない世襲制でした。ですから、特別に選ばれた職業ということもできるでしょう。
聖書は、このザカリヤ夫婦について「二人とも、神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を、落ち度なく行っていた」と紹介しています。彼らは人からも尊敬されていた夫婦と考えられます。ところが、彼らには問題を抱えていました。それは7節に書かれていますように、子どもがいなかったという問題です。子どもは神から与えられるものであり神の祝福と考えられていました。ですから、子どもがいないということは「神の祝福を受けていない」ということでもあります。結婚当初は子どもが与えられることを祈っていたことでしょう。ですが、なかなか子どもが与えられませんでした。多分彼らは「いつかは、いつかは」と待っていたと想像します。そのように待ちながら年齢を重ねていったのです。7節の最後に「二人ともすでに年をとっていた」と紹介されています。これが意味するものは、「いつかは子どもが与えられる」という希望もなくなっていたということです。ザカリヤ夫婦は、祭司というユダヤ教の指導的な立場の人です。そのような彼らに子どもが与えられていないということは、神の祝福を受けていないことですから、とても恥ずかしいことでもあったわけです。何故なら、祭司職は世襲制ですから後継ぎがなく、自分の代で途絶えてしまうからです。一般のユダヤ人も子どもが与えられるという神の祝福を受けているのに、自分たちだけは受けていない。自分たちだけ子どもが与えられることの喜びを経験できないのです。ザカリヤ夫婦は真面目な夫婦でしたから、周りの人からも評判が良かったことでしょう。それ故、子どもが与えられないことに、とやかく言う人はいなかったと考えられます。しかし、ザカリヤ夫婦は違っていたのです。25節でエリサベツは「人々の間から私の恥を」と告白しているように、少なくともエリサベツは子どもが与えられていないことを「恥」と思っていたのです。この思いは、おそらくエリサベツだけでなく夫であるザカリヤも同じだったと考えられます。
周りの人々は自分たちに優しく接してくれます。しかし、ザカリヤ夫婦は劣等感を抱いていたのです。しかも、その劣等感は死ぬまで続くのです。何故なら、子どもが与えられることは常識的にはあり得ないことだからです。ザカリヤ夫婦には大きな心の傷がありました。しかも、そのことを口には出してはいないのです。口や表情に出していませんから、周りの人々には彼らの心の傷を知ることはできません。むしろ「子どもが与えられていないのに明るく振舞っている」と誤解されているかもしれません。でも実際は、心に大きな傷を負いながら日々の生活を過ごしていたのです。誰も分からない心の中にある大きな傷ですが、神はザカリヤ夫婦にある大きな傷を御存知だったのです。このことは、神を信じる私たちにとって大きな励ましです。私たち一人ひとりにも、誰にも言えない心の傷を抱えているとしても、「神は御存知であり、最善の時に最善のことを成してくださる」というのを覚えることができるからです。そして覚えるだけでなく、その神に祈り、最善を成してくださることに期待できるからです。

2)祭司ザカリヤ
 では、この祭司ザカリヤとはどのような人でしょうか。ザカリヤは心の中に傷を持ちつつも、祭司の仕事を忠実に果たし続けていました。その祭司の仕事の中で、くじに当たって神殿の中で香をたくことになりました。すると、そのとき主の使いであるガブリエルがザカリヤの前に現れ、子どもが与えられることをザカリヤに伝えたのです。ところが、ザカリヤは主の御使いであるガブリエルのことばが信じられませんでした。何故ザカリヤはガブリエルのことばを信じられなかったのでしょうか。18節の彼のことばから見ることができます。まず、彼は「私はそのようなことを、何によって知ることができましょうか」と見えるしるしに目を留めました。ザカリヤは祭司であり、神の御前に正しく、主の全ての命令と掟を忠実に守っていた人でした。律法に照らし合わせるなら、何の落ち度もない人だったのです。そのような人であれ見えるものに頼ろうとしていたのです。ここに人間の限界を見ることができます。
聖書は、どれほどすばらしい人であれ、所詮人は見えるものに頼ろうとする弱さを持っていることを示しています。見えるものに頼るのは「愚かなこと」と聖書は語っています。そして、私たちはそのことを知っています。知ってはいますが、ついつい見えるものに頼ってしまう弱さを私たちは持っています。何度も話していますが、人は分かったらできるというものではありません。分かってもできないことが多々あるのです。「万引きは悪いこと」と知りながら万引きをする人がいます。「嘘は悪いこと」と知りつつも嘘をついてしまいます。これは「知る」ということと、「生きる」ということとは違うことを表しています。知るのは自分の力でできるかもしれませんが、本来の人として生きるのは自分の力だけではできないのです。何故なら、「弱さ」というものを誰もが持っているからです。聖書には「義人はいない。一人もいない」と語っています。何故でしょうか。全ての人は弱さを持っているからです。ザカリヤは自分の弱さの故に、見えるものに頼ろうとした人だったのです。
次に、彼は「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と見える現実だけを見ていた人でした。ザカリヤもエリサベツも年をとっていました。それは、もう子どもを産める年齢ではないということです。この捉え方は間違いではありません。私たちもそのように考えるのではないでしょうか。しかし、これは私たちの常識でしかありません。私たちの常識と神の常識は違います。見える現実だけを見るというのは、ある意味では自分の常識に囚われるということでもあります。自分の常識に囚われますと、その常識以外のものを受け入れられなくなってしまいます。ザカリヤがそうだったのです。だからガブリエルのことばを信じられなかったのです。ガブリエルは神から遣わされた御使いです。ガブリエルは神からことばを預かってザカリヤに告げました。ですから、ガブリエルのことばは神のことばでもあったのです。そのガブリエルのことばを信じないということは、神のことばを信じないということでもあります。何故でしょうか。自分の常識とは全く外れているものだったからです。
自分の常識に囚われるというのは、私たちにも起こり得ることです。将来に対する不安を抱くことがあります。何故不安を抱くのでしょうか。自分の常識に囚われているからです。自分の常識という殻に閉じ籠っている限り、不安から解放されることは決してありません。ザカリヤはとてもすばらしい人でした。イスラエル社会においても「模範的な人」と言えるでしょう。しかし見えるものに頼り、自分の常識に囚われていた人でもあったのです。それ故に、神のことばを信じられなかったのです。これが祭司ザカリヤです。このザカリヤの「自分の殻に閉じこもる」という弱さは誰もが持っているものです。私たち一人ひとりも持っている弱さです。しかし、神はその弱さの内に働いてくださいます。自分の殻から抜け出る道を備えてくださっています。
その道とは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストご自身は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と話されました。神は処女マリアから、そのイエス・キリストを誕生させられました。そして、そのイエス・キリストを死から甦らせてくださいました。これらは人の理解をはるかに超えたものです。人の常識では考えられないものです。科学では証明できないものです。しかし、私たちはそのイエス・キリストの誕生と死からの甦りを信じています。神はこのアドベントという時季を通して、私たちがそのイエス・キリストに目を留め、自分の常識という殻から抜け出し、一歩進むことを求めておられるのを祭司ザカリヤから教えられます。

3)ザカリヤの賛美
ザカリヤの弱さにも拘らず、エリサベツは子どもを宿すようになり、やがて男の子を出産します。その子の名は「ヨハネ」という名前がつけられました。これがバプテスマのヨハネの誕生です。ザカリヤは、ガブリエルのことばを信じ切れなかったが故に、口がきけなくなり話せなくなりました。それはしるしを求めたからです。口がきけなくなり話せなくなるというものがしるしだったのです。口がきけなくなり話せなくなったのは、ザカリヤが信じ切れなかったことへの神の審きではなくしるしなのです。ですから、男の子が誕生し名前をヨハネと伝えたとき、ザカリヤの口が開け話せるようになったのです。
口がきけなくなり話せなくなったときのザカリヤはどのような思いだったでしょうか。主の使いであるガブリエルのことばを信じ切れなかったことへの自分の弱さを責めていたかもしれません。このザカリヤ夫婦は、「神の御前に正しく、主の全ての命令と掟を落ち度なく行っていた」と紹介されています。ザカリヤは自分の生き方に自信を持っていたかもしれません。神の御前に義なる者と生きているという自信を。しかし、口がきけなくなり話せなくなるというしるしを受けたとき、今まで寄り頼んでいた自分の生き方が全て崩壊したことでしょう。このとき「大切なのは律法を守り行う生き方をするかではなく、神のみことばを信じる切ること」と痛感させられたのではないでしょうか。しかし、そのような中で妻エリサベツのお腹は大きくなっていきます。その事実に目を留めるとき、このような弱い者である自分に、なお神は目を留めてくださるという事実をも痛感させられたのではないでしょうか。それ故、男の子が生まれ名前を「ヨハネ」と告げたとき、ザカリヤの口が開け話せるようになったとき神を賛美したのです。
このザカリヤの賛美は、自分のような罪ある者にも顧みて、憐れんでくださり恵みを注いでくださる神。その神は自分のような罪あるイスラエルの民にも顧みて、憐れみ恵みを注いでくださるという告白でもあります。ザカリヤは、今まで「主は義なる神であり小さな罪をも嫌われる厳格な神」と捉えていました。だから、一生懸命主の命令と掟を守り行ってきたのです。この生き方は悪いことではなくすばらしいことです。ですが、主は厳格な神であられると同時に、憐みと恵みに富んだ神でもあられます。弱さの故に罪を犯してしまう者を見捨てられるような神ではありません。そのような者をも顧みてくださる神です。ザカリヤが抱いていた常識を超えた神なのです。その神を知ったが故に、ザカリヤは神を賛美することができたのです。その神はザカリヤが生きていた時代だけでなく、今の時代においても変わることはありません。何故なら、神は決して変わることのない方だからです。
私たちもザカリヤのように弱さを持っています。その自分の弱さに嘆いてしまうこともあります。ですが、神はそのような弱さを持つ私たち一人ひとりに顧みてくださり、憐れみと恵みを注いてくださっています。その何よりも確かな証拠はイエス・キリストの誕生と死と甦りです。ザカリヤは自分の弱さを嘆き続ける者ではなく、神を賛美する者へと変えられました。私たちも自分の弱さを嘆き続けるのではなく、憐れみと恵みを注ぎ続けてくださっている神を賛美し続ける者として、このアドベントの時を過ごしていきたく願わされます。

結)
主は私たちの常識を超えた神です。厳格な神であられますが、憐みと恵みに富んでおられる神でもあられます。私たち一人ひとりを顧みてくださる神なのです。イエス・キリストの誕生は、神が私たち一人ひとりを顧みられたことのしるしでもあります。どのような私たちを神は顧みられたのでしょうか。主を神と信じていなかった私たちを顧みられたのです。主は、主を神と信じていなかった私たちを見捨てることをされず、尚も私たち一人ひとりを愛し続け憐れみ続け顧みてくださったのです。ともすると、私たちは「神は厳格な方」というイメージを持ち、何か間違いを起こすと「神の審き」を浮かべやすくなります。確かに主は審き主なる神であられますが、同時に憐みと恵みに富んでおられる神でもあられます。主は私たちの常識を超えた神です。イエス・キリストの誕生はそのことのしるしです。あとは、その神に対して私たちがどのように生きるかが問われているのではないでしょうか。神の憐みと恵みに感謝しつつ、アドベントの時を過ごしていきましょう。

使徒の働き14:8~18「生ける神に立ち返る」 23.11.26.

序)
 先週の箇所で、私たちはパウロとバルナバがイコニオンの町での宣教を見ました。1節に「イコニオンでも同じことが起こった」と書かれています。この「同じこと」とは何かと言いますと、福音宣教をすることによって信じる人が起こされたが、迫害によって町を出ざるを得なくなるということです。要は同じことの繰り返しですが、パウロとバルナバは「どうせ」という思いではなく、神のみわざに期待しつつ福音宣教を続けました。この彼らの姿から、「どうせ」という思いが福音宣教を妨げる大きな要因の一つであることを学びました。今朝の箇所は、そのイコニオンからリステラという町に避難し、その町で起こった出来事が記されている箇所です。今朝は、このリステラでのパウロのメッセージから共に教えられたいと願っています。

1)出来事のきっかけ
 このリステラという町は、地図⑬の現在のトルコの中央辺りに「フリュキア」と書かれています近くにピシティアのアンティオキアという町があります。そこから少し右を見ますと「イコニオン」と書かれており、その少し下に「リステラ」と書かれています。この町はイコニオンから約40㎞に位置し、1日の道のりで行ける町です。その町でパウロとバルナバは大きな出来事に遭遇します。そのきっかけについて8~10節に書かれています。この出来事を通して、使徒3章に書かれていますペテロが美しの門で行った奇蹟を思い起こす方もおられるかもしれません。共通点は、どちらも生まれながら足が不自由であったこと。そしてペテロもパウロも彼を見つめたこと。最後に、足の不自由な人は彼らのことばによって、飛び上がって歩き出したことです。違う点もあります。それは足の不自由な人はパウロの話しに耳を傾けていましたが、ペテロの場合は美しの門に入ろうとしただけです。もう一つは、リステラの男性は癒されるにふさわしい信仰があるという点です。さらに、ペテロの場合は右手を取って立たせましたが、パウロは「自分の足で立つように」と命じたことです。すると、彼は飛び上がって歩き出したことが10節の最後に書かれています。
 この出来事で何よりも目を留めたいのは、「彼はパウロの話すことに耳を傾けていた」ということばです。すなわち、熱心にパウロが語ることに耳を傾けていたのです。その姿勢がパウロに伝わったのです。それによって、この足の不自由な人は今までにない大きな経験をします。それは自分の足で歩き出すという経験です。しかも、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と半強制的なものです。この箇所を準備する中で、9月に召されました赤坂良男先生を思い起こされました。私が良男先生と初めて会ったのは48年前で、当時JBCで行われていた高校生~青年までを対象とした「ともしびキャンプ」です。私は毎年ともしびキャンプに参加していました。今でも忘れませんが、高校3年のときのキャンプの最終日に、食堂で良男先生と数名のキャンパーで話をしていました。その後、ファイヤーを囲んで同じキャンパーと話し込んでいましたら、突然私は呼び出されまして良男先生がいる食堂に行ったのです。そして、いろいろと話をされました。後で思い起こしますと、「食堂で話をしていたとき熱心に聞いているようみ見せかけていたからではないか」と思わされています。それで良男先生は「脈があるのではないか」と思って私を呼び出したと理解しています。キャンプ後、教会に行きますと「牧師室に行くように」と言われ、行きますと強制的に学び会に参加させられました。それは何とバプテスマクラスだったのです。やり方に少し問題があるように思いますが、結果的には私にとってはそれが良かったと思っています。何故なら、それがなかったら信仰の決心をしなかったでしょうし、今ここに立つことはなかったと思っているからです。改めて、全てのことが共に働いて益となることを思わされています。
 「耳を傾ける」というのはちょっとしたことです。しかし、神はそのちょっとしたことを豊かに用いられる方でもあります。パウロも足の不自由な男性のちょっとしたことを見逃さなかったのです。それによって、この男性の人生は大きく変えられたのです。今まで一度も歩くことができなかったのに、歩くことができようになったのですから。人のちょっとしたことを見逃さない観察力を養われたく願わされます。それと同時に、語られるメッセージをどのように聞くかで、その人の歩みも大きく変えられることを知らされます。私たちの聞き方の大切さも教えられます。

2)群衆の反応
 この足の不自由な男性が歩き出したという出来事を見た群衆は、どのような反応をしたでしょうか。11~13節に「     」と書かれています。このことについては学び会で触れられていました。ゼウスというのはギリシャ信仰では最高神であり、ヘルメスは神のメッセージを伝える役と説明されていました。そのため、群衆はバルナバの方を偉いと思ったのでしょう。そして、ギリシャ神話の話しをされました。
昔、ある町にゼウスとヘルメスが貧しい旅人に装い町にきた。夕方になり「今晩泊めてほしい」と一軒一軒を回ったけれども、誰も彼らを相手にせず泊めなかった。最後に町の外れにあった小屋に行き、その小屋に住んでいたお爺さんとお婆さんは彼らを招き最高のもてなしをした。ワインをついても空にならなかった。お爺さんとお婆さんは彼らのことを神と分かった。ゼウスとヘルメスは「この無礼な町を滅ぼす」と告げ、「しかし、お前たちは町の丘に行くように」と丘の上に連れて行かれ、町は洪水で滅ぼされたという神話があるということでした。そして、その神話を知っている人たちは、「自分たちの町に神々が来た」と思い、このようなことをしたと理解できると話されていました。このリステラの地形は、学び会で見ましたが小さな盆地になっている所です。そのリステラの町の横には川があります。ですから、「山から多くの水が流れてリステラの町は大洪水になって滅ぼされる」と群衆は思い込んで、このようないけにえを献げようとしたとも考えられると話されていました。
 私たちは、この群衆の反応を通して1つのことを教えられます。それは、「奇蹟的なことが起きても大きな変化はない」ということです。Ⅱ列王記17:24以降に、北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまい、人々はアッシリアに連れて行かれます。そしてアッシリアの王は、代わりに外国人をサマリアの町に住まわせました。すると、獅子が彼らの何人かを殺しました。すると、26~28節に「     」と書かれています。そして、次の29節には「     」と書かれています。結局は自分たちが信じているやり方でしてしまうのです。このリステラの人たちもそうだったのです。自分たちのやり方で行ってしまったのです。奇蹟が起きても間違った方向に進むだけなのです。大切なのは奇蹟ではなく神のことばです。「神のことばである聖書はどのように語っているのか」ということに耳を傾け、それに聞き従う以外に正しい神への応答はないことを知らされます。
 このことは、私たちの日々の生活においても大切な事柄です。私たちはリステラの人たちのような極端ではないにしても、表面的に聖書のみことばを受け留め、自分勝手な判断で歩もうとする危険性があることを知らされます。「本当に自分の判断が聖書的なのか」を確認し、改めるべき点は改めていく。これこそが私たちが求め続ける歩みであることを教えられます。

3)生ける神に立ち返る
 群衆が間違ったやり方をしようとしたとき、パウロとバルナバはどうしたでしょうか。14節の最後に「衣を裂いて…叫んだ」と書かれています。では、パウロとバルナバは何を叫んだのでしょうか。15節に、まず「皆さん…同じ人間です」と叫んだのです。これはとても重要なことです。ともすると、人は現人神や生き仏にされてしまうことがあります。また、死んだ後に神や仏として祭られてしまうことがあります。特に、私たちが生かされています日本という社会はそのような社会です。今、NHKの大河ドラマで「どうする家康」が放映されています。豊臣秀吉が亡くなり豊国神社が建てられましたし、徳川家康が亡くなりますと久能山東照宮や日光東照宮が建てられました。そして、それらの神社に参拝する人が多くおられます。また、有名人でなくても人が亡くなりますと墓に葬られ拝まれたりします。9月の良男先生の葬儀の時も、喪主であられる泉先生が「良男さんを拝むことがないように」と参列者の方々に説明されました。人は拝まれる存在ではありません。拝まれる存在は、この世界を造られた神のみです。私たちは全て同じ人間であり、決して拝んだり拝まれたりする存在ではありません。その死者崇拝も偶像崇拝です。
 続けて、「そして…空しいことから離れて」と語っています。「このようなものを拝むことは空しい」と語っています。何故空しいのでしょうか。預言者イザヤは、イザヤ書44:9~11で「     」と語っています。何故空しいのかと言いますと、何の役にも立たないからです。何故なら、見ることも知ることもできないものだからです。そのようなものに頼ろうとするのは、本当に意味のないことであり空しいものです。では、人はどうすれば良いのでしょうか。「そのような空しいものから離れて、この世界を造られた生ける神に立ち返ることだ」とパウロとバルナバは語るのです。生ける神なのです。それは今も生きておられる神ということです。真の神は死んだ方ではなく、今も生きておられるお方なのです。しかも、真の神は世界の全てを造られた方ですから、全てのことを御存知なるお方なのです。私たちは家電製品が故障しますと販売店に持っていき、その販売店はメーカーに送ります。何故なら、その家電を作ったメーカーは、何処を修理すれば良いのかを知っているからです。創世記1章を読むとき、神は世界を造られたことが書かれています。このとき、神は物質的なものだけを造られたのではありません。同時に時間をも造られたのです。ですから、「時」というのも御存知なのです。伝道者の書3:1に「全ての営みに時がある」と書かれています。真の神は、その「時」を用いることのできるお方なのです。だからこそ、「偶像崇拝という空しいことから離れて、生ける真の神に立ち返るように」とパウロとバルナバは語っているのです。

結)
 その生ける神は、17節に書かれていますようにご自分を証しされる方です。人の身勝手な歩みを許されていますが、それでもご自分がどのような存在であるかを示し続けてこられた方です。その頂点がイエス・キリストの十字架による死と復活です。そして、その生ける神に立ち返ることこそが、人が人として歩むべき道でもあります。来週からは、そのイエス・キリストが誕生されたことを祝うクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。このクリスマスの時季、一人でも多くの人が生ける神に立ち返られるように祈っていきましょう

使徒の働き14:1~7「福音宣教を妨げるもの」 23.11.19.

序)
 先週、私たちは神の一方的な憐れみと恵みによって選ばれ、イエス・キリストを信じる者とされたことを学びました。それは私たちの中に何か良いものがあったからではありません。私たちが目を向けるものは、ただ「このような私を神は選んでくださった」ということへの感謝です。ところが「感謝」というのは、与えられ続けられますと感謝の思いが薄れ、「当然」と思うようになってしまいます。それと同じように、福音宣教においても同じことが続きますと何が生じるでしょうか。今朝は、福音宣教を妨げるものについて共に教えられたいと願っています。

1)イコニオンでも
 パウロとバルナバは、ピシディアのアンティオキアの町で反発が強まったため、彼らはその町に居られなくなりイコニオンという町に行くこととなりました。このイコニオンという町は、ピシディアのアンティオキアの町から直線で約130㎞離れた町です。学び会では約160㎞と話されていました。それは車で走った距離だと話されていました。当時は徒歩ですから1日40㎞歩くとしても4~5日かかる距離です。単に通読だけですと、そのことに気づかずに「ピシディアのアンティオキアの町を出て、パウロとバルナバはイコニオンの町に行った」と思ってしまいます。ですが、実際はそうではなくイコニオンまで途中の町に滞在したのです。その間のことについては、著者ルカは何も記していません。その理由は分かりません。パウロとバルナバのことですから、途中の町でも福音を宣べ伝えたものと考えられます。ですが、そのことには何も触れずイコニオンの町でのことに触れています。何故イコニオンの町でのことに触れたのかを考えますと、8節以降のリステラの町での出来事に繋げるためと考えられます。ですから、14:1は13:51の翌日ではなく、かなりの日数があったと考えられます。
パウロとバルナバはピシディアのアンティオキアの町からイコニオンの町に着くまで、別の町でも数日間滞在し福音宣教をしましたが、どの町においてもピシディアのアンティオキアの町で生じた事柄と同じことが起こり、パウロとバルナバはイコニオンの町に行ったものと思われます。そのように考えますと、1節の「イコニオンでも、同じことが起こった」ということばは注目させられます。何故なら、「イコニオンでも、ピシディアのアンティオキアの町と同じことが起こった」と読み取ることもできますが、イコニオンに着くまでの町で生じたことと同じことが起こった」とも読み取ることができるからです。それほどユダヤ人の反発が強かったことを表してもいます。
 イコニオンの町に入ったとき、パウロとバルナバは何をしたでしょうか。1節に「ユダヤ人の会堂に入って話をすると」と書かれています。パウロとバルナバは同じようにユダヤ人の会堂に入って話をしたのです。以前にも話しましたが、このパウロとバルナバの行動は一貫しています。必ずその町のユダヤ人会堂に入って話をしているのです。それはキプロス島でもそうでしたし、ピシディアのアンティオキアの町でもそうでした。彼らは何の話をしたのかと言いますと、イエス・キリストの十字架による死と復活という福音の話しです。パウロは、ローマ15:18で「私は、異邦人を…話そうとは思いません」と語っています。「キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと」とは、ダマスコ途上でのパウロの経験です。パウロは「これこそが正しい道」と信じキリスト教を迫害していましたが、ダマスコ途上で復活のイエス・キリストと個人的な出会いをし、今までしていたことが実は間違っていたことを知ったのです。その自分のためにイエス・キリストは身代わりとなって十字架に架かり神の審きを受けてくださっただけでなく、その死から甦って自分を朽ちて滅びることのない者へと変えてくださいました。さらに、そのようなことをしていた自分であっても、神は赦してくださるだけでなく用いてくださる方であることを経験したのです。パウロが宣べ伝えているものはそれだけなのです。それはイコニオンの町でもそうだったのです。
 先程も触れましたが、この「イコニオンでも」ということばは注目させられます。この「でも」ということばは、「同じことの繰り返し」というのを表しています。その後にも「同じことが起こった」と書かれています。何処で語ろうが同じ反応が繰り返し起こることを表しています。ですが、パウロとバルナバはそのようは反応に屈していないのです。最初の方で触れましたが、ピシディアのアンティオキアの町からイコニオンの町まで直線で約130㎞ですから途中の町で宿泊したことでしょう。その町でもパウロとバルナバは、福音宣教をしていたことでしょう。ですが、どの町でも同じことが起こり、イコニオンの町でも同じことが起こったのです。ですが、彼らはどの町でも同じことを繰り返し語り続けていたのです。「あの町であのようだったから、この町でもどうせ」とは考えなかったのです。ただひたむきに福音を語り続けたのです。
これは私たちが学ばせられることの一つです。ともすると、私たちは「あの人があのようだったから、この人もどうせ」とか「あの時あのようだったから、この時もどうせ」と思いやすくなります。ですが、パウロとバルナバはそのようには考えなかったのです。この「どうせ」主義こそが、福音宣教の前進を妨げる大きな要因の一つではないでしょうか。この「イコニオンでも」ということばを十分に味わい、福音宣教のみわざに励んでいきたいものです。

2)福音の前進
 パウロとバルナバの福音宣教によってイコニオンの町でどのようなことが起こったでしょうか。まず1節に「二人がユダヤ人の会堂に…大勢の人々が信じた」と書かれています。彼らはユダヤ人の会堂に入って話をしたのです。どのような話かと言いますと、勿論イエス・キリストの福音の話しです。その結果、ユダヤ人も異邦人改宗者も大勢の人々が信じたのです。ですが、2節の最初に「ところが」と書かれています。これは反対勢力の行動を示しています。2節に「信じようとしない…悪意を抱かせた」と書かれています。これは13:45に書かれていることと同じような事柄が起こったと考えられます。ですが、パウロとバルナバは3節に書かれていますように、「それでも…大胆に語った」のです。これもまた、ピシディアのアンティオキアの町と同じです。口汚くののしられても、「二人は長く滞在し」と書かれています。彼らはイコニオンの町に滞在し続けたのです。身に危険が及ばない限り、決して諦めることなくその町で福音を語り続けたのです。
 彼らがイコニオンの町で福音を語り続ける中で、3節の後半に「主は彼らの手によって…その恵みのことばを証しされた」と書かれています。欄外には「証拠としての奇蹟」と書かれています。このしるしと不思議が「主の奇蹟」とも理解することができます。実際にその「しるしと不思議」がどのようなものであるかは分かりませんが、確かなことは神が共にいて働いてくださったということです。それは彼らの働きを用いられたということでもあります。先程も話しましたが、福音宣教を続ける中で困難に遭遇します。困難に遭遇したとき「どうせ」と思って諦めてしまうなら、福音宣教の前進は決してあり得ません。「今まではダメだったとしても今回は」という思いを持ち続けることの大切さを教えられます。
彼らのひたむきな活動によって信じる人がさらに起こされ、町の人々はユダヤ人の側と使徒たちの側という二派に分かれました。「二派に分かれた」というのは「二分した」ということではないと思われます。数的には圧倒的にユダヤ人側の方が多かったと考えられます。ですが、たとえそうであったとしても信じる人たちが起こされたのです。これは福音宣教の前進でもあります。9月の日本伝道会議で「今の日本のキリスト教界は数的には低迷しているというよりも下降気味である」ということが報告されました。多くの教会が困難に直面し悪戦苦闘されています。しかし、神は信じる人を起こしてくださっています。そのところに目を留めて、これからも福音宣教の働きに励んでいきたいと願わされます。

3)宣教の結果
 パウロとバルナバが福音宣教を続けることによって、福音を信じる人たちが起こされました。しかし、同時に信じようとしないユダヤ人も沢山いたのも事実です。この「信じようとしない」と訳されていることばは、使徒19:9では「聞き入れず」と訳され、ローマ2:8では「従わず」と訳されています。これは何を意味しているのかと言いますと、積極的に拒むことを意味しています。すなわち、自らの意思で従わない方を選んだということです。しかも、それを自分の心の中に留めるだけでなく、異邦人たちを扇動して石打ちの刑に処しようとしたのです。ピシディアのアンティオキアでは、ユダヤ人と異邦人によっての単なる迫害が起こりました。「単なる迫害」と表現しましたが、単なる迫害であっても受ける側は大変です。しかし、その迫害がイコニオンでは石打ちの刑に処しようとする動きまで進展したのです。これが迫害の仕方が強まっていることを示しています。福音宣教が前進するとき、その反対する力も強まってくるという同じことの繰り返しです。それでも、パウロとバルナバは福音宣教を続けたのです。
 「初代教会の時は、福音がどんどん進み信じる人が大勢起こされ良いな」というのではありません。この時代においても、福音宣教が前進するに伴い反対する力も強まっていたのです。そのようなことは今も昔も何ら変わることはありません。使徒の働きを読み続けますと、本当に福音宣教の働きが前進している様子が頭の中に描かれます。何故描かれるのかと言いますと、著者ルカがそのように書いているからです。ですが、その背後には私たちの想像以上の信仰の戦いがあったのも事実です。著者ルカは迫害の強さよりも、各々の町で信じる人たちが起こされていることに目を留めていたからです。それはパウロとバルナバも同じです。先程も話しましたように、「どうせ」という思いは抱かなかったのです。福音宣教を続けると様々な方法をもって抵抗されるというのは昔も今も変わることはありません。その抵抗に屈しない信仰が支え続けられるように祈っていきたいものです。
 パウロとバルナバは自分たちの命の危険を知ったとき、イコニオンの町を出てリステラとデルベの町に避難し、その町で福音宣教を続けました。彼らが去ったあと、イコニオンの町で信じた人たちはどうなったのでしょうか。聖書には書かれていませんが、ピシディアのアンティオキアのときと同じように、神の恵みに留まり続けて生きることを勧めたものと考えられます。2回目の伝道旅行のとき、リステラの町に行きました。そこでテモテに会います。16:2に「     」と書かれています。この「イコニオンの兄弟たち」というのは、イコニオンの町にいるキリスト者のことです。パウロとバルナバがイコニオンの町を去ったあとも、イコニオンの町にはイエス・キリストを信じ続ける人がいたのです。この「イコニオンの兄弟たち」ということばは、私たちに大きな励ましを与えてくれることばです。パウロとバルナバが去ったら、その町にはイエス・キリストを信じる人が居なくなるのではありません。それでもイエス・キリストを信じ続ける人が居たのです。神がその人たちを養い続けられておられたのです。福音宣教の働きは決して無駄ではなかったのです。Ⅰコリント3:6に「     」と書かれていますように、神が一人ひとりに働いてくださり守り支え導かれておられたのです。

結)
 今朝は、イコニオンの町でのパウロとバルナバの宣教の働きから学びました。何よりも「イコニオンでも」ということばに目を留めたいものです。私たちの働きも同じことの繰り返しです。そのようなことが続きますと「どうせ」という思いが生じます。福音宣教の妨げの要因の一つは、この「どうせ」という私たちの中に生じる思いです。ですが、同じことの繰り返しのようであっても、私たちの歩みはバネのように前進しているのです。私たちに与えられている務めを遣わされている所で果たせるよう祈っていきたいものです。そして、その務めを神は用いてくださり、信じる人を必ず起こしてくださいます。何故なら、人の心に働き導くのは私たちではなく神ご自身だからです。これからも、その神に祈りつつ私たちにできる最善のことを果たせるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:44~52「チャンスは目の前に」 23.11.12.

序)
 先週は「神の恵みにとどまる」というタイトルから、朽ちて滅びることのない新しい存在とされた者として歩み続ける・生き続けることの大切さを学びました。それはイエス・キリストを礼拝し続けるということでもあります。今朝の箇所は、そのパウロとバルナバの勧めを通して、次の安息日に生じた出来事が描かれています。その出来事は予想もしなかったものと思われます。この予想外の出来事を通して、私たちは何に目を留めるべきであるのかを共に教えられたいと願っています。

1)予想外の出来事
 44節に「     」と書かれています。皆さんは、このことばからどのようなことを思われるでしょうか。「すごいな!私たちの教会もこのような反応があれば」と思われるでしょうか。私はそのように思わされます。来月は久しぶりにクリスマスライヴが行われます。一人でも多くの方が集われることを願っています。ピシディアのアンティオキアのユダヤ教会堂には、多くの人らが集ったのですが45節を見ますと大歓迎ではなかったことが分かります。不思議にも思えます。42節には「人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ」と書かれているのです。この「人々」とは誰のことかと言いますと、15節に書かれています会堂司たちと考えられます。すなわち、このユダヤ教会堂の指導的立場の人たちが、パウロとバルナバに「次の安息日にも同じことを話してほしい」と頼んだのです。それなのに、この多くの人が集った光景を見たとき、パウロとバルナバに反対し口汚くののしったのです。「何故なのか」というのを考えさせられるのではないでしょうか。
 私の勝手な想像ですが、「42節で頼んだ人たちは次の安息日を楽しみにしていたのではないか」と想像します。「今日はどのような話をしてくれるのだろうか」など、いろいろなことを考え楽しみにしていたと思います。すると次の安息日には、ほぼ町中の人々が集まったのですから、ユダヤ教会堂には入りきらないほどの人だったと思われます。これは彼らにとって予想外の出来事だったでしょう。どのようにしてこのような大勢の人が集まることができたのでしょうか。考えられるのは、パウロとバルナバは1週間何もしなかったのではなく、個人的に福音を伝え信仰に導いたと考えられます。またそれだけでなく、43節のことを通して信じる決心へと導かれた一人ひとりも、1週間の中で出会う一人ひとりに福音を伝えたり証しをしたりしていたとも考えられます。このような1週間を通して、ユダヤ教会堂には多くの人が集ったと想像します。
 しかし、ユダヤ人たちは妬みを覚え、パウロとバルナバに反対し口汚くののしったのです。何が原因なのでしょうか。幾つかのことが思い浮かべられます。1つは、「たった1週間でこんなにも多くの人が集った」ということへの妬みです。彼らも「改宗するように」とユダヤ教を伝えていたと考えられます。数年も十数年も費やしても成し得なかった成果を、たった1週間でそれ以上の成果を挙げたことに対しての妬みです。もう1つは、異邦人がそのままユダヤ教の会堂に入って来たということです。彼らは律法を重んじる人たちです。「改宗した異邦人とは違い、改宗していない異邦人に接するなら汚れる」と理解していた人たちです。自分たちだけでなく会堂まで汚されたことへの怒りもあったことでしょう。また、主よりもイエス・キリストを強調したことへの反発もあったものと考えられます。この反発は幾つかの要因があったと考えられます。

2)チャンスを逃した人々
 そのような反応に対して、パウロとバルナバはどうしたでしょうか。そのことが46節以下に記されています。パウロとバルナバは、「神のことばは…者にしてしまいます。」と語ったのです。この「あなたがた」とは、ユダヤ教会堂の指導者たちでユダヤ人に対してのものです。それは「福音はまずユダヤ人に対して宣べ伝えられることは正しい」というものです。続けて、「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちに相応しくない者にした」と語っています。この「『それを』とは何か」と言いますと、福音を信じるチャンスのことです。「せっかく信じるチャンスが与えられ、永遠のいのちを得られる機会だったのに、あなたがたはそれを拒んだ」と語っているのです。この口汚くののしった人々は、チャンスを逃した人々と言えます。福音を信じる機会は今の時代にも与えられています。その機会を見逃すか見逃さないかで、その後の歩みは大きく異なってきます。朽ちて滅びることのない新しい存在へと変えられたことに喜びと望みを抱いて歩む生き方と、朽ちて滅びる者としてこれからも歩み続ける生き方は大きく異なってきます。私たちが信じる機会を生かして、福音を信じる者とされたことを神に感謝したいものです。
 続けてパウロとバルナバは、「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と、異邦人伝道を始めることを宣言しました。そして、47節でイザヤ書49:6の後半部分を引用して語っています。この「あなたを国々の光とし」の「あなた」とは、イエス・キリストのことを示しています。ヨセフとマリアはイエス・キリストを連れて、エルサレムの神殿に行きました。すると、シメオンという人がイエス・キリストを抱いて、神をほめたたえたことがルカ2:29~32に書かれています。この32節のことばはイザヤ書49:6です。イエス・キリストは国々の光として、すなわち世界の光として誕生されたのです。ところが、今朝の箇所の47節をよく読んでみますと少し違います。それは「あなたを」ということばはイエス・キリストではなく、パウロとバルナバのこととして語られているということです。さらに言いますと、「福音を信じた人」のことです。すなわち、神はイエス・キリストを信じた人を世界の光とし、地の果てまで救いをもたらす者としてくださったのです。
 イエス・キリストだけが世界の光ではなく、そのイエス・キリストを信じる一人ひとりも世界の光とされているのです。そのようなことを聞かれますと、「えっ、こんな私が世界の光?」と思われるかもしれません。でも、私たちは世界の光とされているのです。イエス・キリストも「あなたがたは世の光です」と話されました。この「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じる一人ひとりのことです。私たちは世界の光とされているのです。何故なら、聖霊なる神がイエス・キリストを信じる一人ひとりの内に住んでくださっているからです。私たちの中にはイエス・キリストの光が輝いているのです。聖書は「その私たちを地の果てにまで救いをもたらす者とする」と語っているのです。このことばは、イエス・キリストを信じる私たちにとって厳しいことばでもあります。何故なら、もし救いを自分だけのものにしてしまうなら、それは福音を拒んでいるのと同じだからです。イエス・キリストの十字架の目的は、自分の罪が赦されたことに感謝するだけではありません。そのことに感謝しつつ、この世にあって歩み続けるため・生き続けるためです。さらに言うならば、世界の光として歩み続けるためです。私たちは、そのことを見失わないようにしたいものです。そして、その神のご計画が自分自身を通して成就することを熱心に求め続けたいものです。

3)チャンスを生かした人々
 「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と宣言したパウロとバルナバのことばによって、「異邦人たちは…主のことばを賛美した」と48節に書かれています。「次の安息日にも同じことについて話してほしい」と言われましたが、次の安息日には予想もしなかった強い反対が生じました。しかし、このパウロとバルナバの証しを通して新たな展開へと導かれていくのです。そして、48節の後半に「永遠のいのちに…信仰に入った」と書かれています。口汚くののしった人々がチャンスを逃した人々であるなら、この人々はチャンスを生かした人々ということができます。
 「永遠のいのちに定められた人たち」と書かれています。誰によって、永遠のいのちに定められたのでしょうか。それは神によってです。すなわち、神は永遠のいのちが与えられる人を定められているのです。これを「神の選び」と言います。この信仰に入った人たちが神に選ばれたのは、彼ら自身に何が良いものがあったからでしょうか。そうではありません。彼らに優れた点は何一つなかったのです。ただ一方的な神の憐れみと恵みによって選ばれたに過ぎないのです。これは現代の私たちも同じです。私たちが神を信じる者と選ばれたのも、私たちに何か優れた点があったからではありません。ただ神の憐れみと恵みによって選ばれたに過ぎないのです。ですから、私たちには自分を誇るべきものは何一つないのです。私たちにあるものはただ一つです。それは、このような私を救いへと選んでくださったことに対する神への感謝です。この信仰に入った人たちは、その神の憐れみと恵みに感謝し、日々の生活を歩み続けたことでしょう。何故なら、その生き方が神の恵みに留まるという生き方だからです。聖書はその生き方に対して、49節で「     」と語っています。ここでも、神は一人ひとりの生き方を用いられることを示しています。
 すると、50節に「     」と書かれている出来事が生じました。45節には、ユダヤ人たちが反対し口汚くののしったことが書かれています。ですが、50節には「ユダヤ人は…扇動して」と、自分たちだけでなく他の人をも巻き込んで反対する動きへと進展したのです。以前にも触れましたが、神のみわざが前進するとき、それに反対する力も強まることを改めて知らされます。その結果どうなったでしょうか。パウロとバルナバは、この地方から追い出されてしまったのです。すなわち、この町で福音宣教ができなくなったのです。そのため彼らはイコニオンという町に行くこととなりました。ピシディアのアンティオキアにイエス・キリストを信じる群れが誕生しました。しかし、パウロとバルナバはこの町に留まることができなくなり、この町を去ることとなりました。折角この町に群れが誕生したのに、その指導者が居なくなるのです。この町でイエス・キリストを信じた人たちの反応はどのようなものだったでしょうか。52節に「     」と書かれています。パウロとバルナバがこの町を去ることに深い悲しみを覚えていたのではなく、喜びと聖霊に満たされていたのです。
 この52節のみことばは考えさせられるものではないでしょうか。折角信じる群れが誕生したのに、その指導者たちが居なくなることの失意を覚えるのが自然のように思えます。しかし、彼らは失意よりも喜びと聖霊に満たされていたのです。何故でしょうか。答えは1つです。「パウロとバルナバが居なくなっても、神は私たちと共にいてくださり守り導いてくださる」という信仰です。パウロとバルナバは「神の恵みにとどまるように」と勧めました。彼らを朽ちて滅びることのない存在へと変えたのは、パウロとバルナバではなく神ご自身です。その神がこれからも共にいて群れを導いてくださるという信仰を持ち続けたからです。Ⅰコリント3:6に「     」と書かれています。これはコリント教会に語られていることですが、ピシディアのアンティオキアの群れにおいても同じです。目を留めるものはパウロやバルナバでもなければアポロでもありません。成長させてくださる神です。それこそが信じる者が目に留めるものです。

結)
 福音を信じるチャンスは目の前に置かれています。そのチャンスを逃すか生かすかは、一人ひとりの選択によってです。何よりも私たちがそのチャンスを生かし、イエス・キリストを信じられたことに感謝したいです。また、チャンスが目の前にあるのは福音を信じることだけではありません。福音宣教の前進のチャンスも目の前に置かれています。今朝の箇所は予想外の出来事が生じた箇所ですが、この出来事を通して福音宣教は前進したのです。そのことを思いますと、信じるチャンス・宣教のチャンスは目の前に置かれていることを知らされます。私たち一人ひとりは、「世界の光として救いをもたらす者とする」との神の約束を受けている一人ひとりです。あと3週間でアドベントを迎えます。私たちが世界の光として証しし続け、共に歩み続ける群れとして歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:42~43「神の恵みにとどまる」 23.11.05.

序)
 前回はイエス・キリストは朽ちて滅びることのない方であり、そのイエス・キリストを信じる者も朽ちて滅びることのない新しい存在として生きる者へと変えられたことを見ました。そして、その知らせが福音であることも学びました。その福音を伝えられたピシディアのアンティオキアの人々の反応について書かれているのが今朝の箇所です。パウロとバルナバは、その人々に「神の恵みにとどまるように」と話しました。今朝は、その神の恵みにとどまることについて共に教えられたいと願っています。

1)人々の反応
 パウロはピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂に入り、旧約聖書が朗読されてから会堂司らによって話すことを勧められ語りました。今朝の箇所は、そのパウロが語ったことへの反応が描かれている箇所です。どのような反応が起きたでしょうか。2つの反応があったことを聖書は記しています。その1つは、42節に書かれていますように「次の安息日にも同じことについて話してほしい」という依頼です。これはパウロの話しが多くの人々に強い関心を引き起こしたことを表しています。このような箇所を読むたびに、「集会でこのような多くの人に強い関心を引き起こせるメッセージができたらいいな」と思わされます。そのように願いつつ準備をしているのですが、なかなかそのような反応に至らないことに、メッセージ作りの難しさを感じさせられています。これはルカが書いたものですから、パウロのメッセージの要約と考えられます。どのような口調や表情で語ったのか。また、これはメッセージの要約ですから聖書には書かれていないパウロの話しはどのようなものなのかなど想像します。メッセージ準備のために祈っていただきたいと願います。
 もう1つの反応は、43節の「会堂の集会が…ついて来た」ということです。「ついて来た」ということから、パウロとバルナバは礼拝のあと会堂を出て他の所に行こうとしたのでしょう。ひょっとしたら、泊っている宿に戻ろうとしたのかもしれません。しかし、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちは帰ることをしないで、パウロとバルナバについて行ったのです。「ユダヤ人と神を敬う改宗者たち」と書かれています。このことから、「会堂に集っていた人たちはユダヤ人だけではなかった」というのが分かります。ユダヤ教を信じる異邦人もいたのです。しかも「神を敬う」と書かれていることから、「ひときわ熱心な異邦人ユダヤ教信者の人たち」と考えられます。
 おそらく、自分の中にある罪に悩む中で、ユダヤ教に接し真の神を信じ、「その神が与えてくださった律法を守り行うことによって、義と認められ生きることができる」と信じ歩み続けていたと思われます。しかし、どれだけ律法を守り行っても罪の問題は解決することができなかったのです。律法を守り行い続けることによって心の中に生じるものは、「守り行えなかったとき罪に定められる」という不安です。そのような日々の生活を過ごしている中でパウロのメッセージを聞いたのです。先週の箇所には書かれていませんが、「おそらくパウロは『イエス・キリストの十字架による死は、私たちの罪の身代わりとしての神の審きであり、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって私たちの罪は神に赦される』ということも語ったのではないか」と私は勝手に想像しています。
 イエス・キリストが死から甦られ、朽ちて滅びることのない方であるから、そのイエス・キリストを信じる人も神の審きへの恐れや死に対する恐れから解放されることを知り、さらに詳しく知りたいと思ってパウロとバルナバについて行ったのではないかと考えられます。死に対する恐れからの解放。これは当時の人だけでなく、現代にも多くの方が抱いている事柄です。この問題を解決するものは一つだけです。それは死から甦られ朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストを信じることです。私たちは、その福音を神から委ねられているのです。そのことを覚えつつ、続けて福音宣教に携わっていきたいものです。

2)彼らと語り合った
 パウロとバルナバについて来た人たちに対して、パウロとバルナバは何をしたでしょうか。2つのことが書かれています。その1つは彼らと語り合ったのです。おそらく、パウロが語ったことに対して、新たに発見したことや質問などが出たことでしょう。また、パウロが語ったメッセージに対する自分の感想を伝えた人もいたことでしょう。私も講壇交換などで奉仕させていただくとき、礼拝後に近寄って来られてメッセージの感想を伝えてくださる方がおられます。これは牧師にとっては大きな励ましです。自分が準備し語ったものが、一人ひとりにどのように伝わっているのか。そして、そのことを通して今後どのように準備すれば良いのかを考えさせられる時でもあります。「教会員が牧師を育てる」ということばを耳にしますが、その一つはそのようなことです。コロナ前は礼拝後、お茶とお菓子を食べながら交わりのときがありました。その多くは雑談で終わってしまうものでした。それも悪くないのですが、私の中には「自分が語ったメッセージがどのように届いているのか」とずっと思わされていました。そのために、「分かち合いと祈りのとき」というのを礼拝後に持たせていただくこととなったのです。パウロらが彼らと語り合ったのは、まさしく「分かち合いのとき」と言えます。
パウロとバルナバは「彼らと語り合い」と書かれていますので、彼らの一つひとつの問いに答えていったと考えられます。それは語られたメッセージが一方的に語られて終わるというのではなく、一人ひとりの必要や求めにきちんと対応したということです。このパウロとバルナバの所に集まった人たちはユダヤ教信者です。ですから、まだイエス・キリストを信じていない人たちです。ですから、パウロとバルナバの所に集まった人たちにパウロとバルナバが語ったのは、その内容からイエス・キリストのことを伝えたということでもあります。すなわち、「イエス・キリストを信じることによってどのような者へと変えられるのか」ということを伝えたのです。それは、まさしく個人伝道です。
では、イエス・キリストを信じることによってどのような者へと変えられるのでしょうか。自分の罪が赦され、天の御国に入る者へと変えられることでしょうか。そのことについては先週の礼拝で学びましたですね。これはパウロの福音の中心点です。イエス・キリストにある福音は、自分の罪が赦され天の御国に入るということではありません。それは信じたことの結果であって目的ではありません。イエス・キリストの福音の目的は、死の支配から解放され、朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びることのない新しい存在として生きることです。さらに言えば、そのような者に変えてくださった神に感謝し礼拝し続ける者となるためです。もし、イエス・キリストの十字架による福音の目的が罪の赦しと天の御国に入ることであるなら、イエス・キリストを信じることによって達成されるのです。そうであるなら、「何故神を礼拝するのか」が分からなくなってしまいます。
 先月、スーパー銭湯「満天望」に行きますと、春日井栄光教会の関先生にお会いし話し込んでしまいました。その話の中に「オンラインが定着しつつある中で、礼拝をオンラインで済ませようとする方がおられることが日本の教会の課題の一つである」と話されていました。私もそのように捉えている一人でして、私の意見を述べさせていただきました。これは「礼拝に対する姿勢の問題である」と私は捉えています。私自身、オンライン礼拝を反対する者ではありません。正当な理由で教会に集うことができず、オンラインにて礼拝を献げることは良いことと捉えています。しかし、「楽だから」とか「時間がないから」という理由でのオンライン礼拝には問題を覚えます。何故なら、イエス・キリストはご自身の命を犠牲にしてまで私たちの罪のために十字架に架かられました。そのイエス・キリストの十字架を信じることによって、私たちは朽ちて滅びる古い存在から、朽ちて滅びることのない新しい存在として生きる者へと変えられました。そこには、イエス・キリストがご自身の命を献げるという大きな犠牲が伴っているからです。礼拝とは、そのイエス・キリストの犠牲への感謝と1週間の神の守りと導きへの感謝です。そうであるならば、「私たちも犠牲を負って神を礼拝する必要がある」と私は理解しています。それが「楽だから」とか「時間がないから」という理由であるならば、それは「私にとっての神礼拝は、その程度の価値しかない」という告白でもあります。時間がなければ時間を作れば良いだけのことです。それは「そのような犠牲を負うほど私にとって礼拝は価値あるもの」という神への告白に繋がります。神礼拝は、信じる私たちにとってそれほど価値があり大切なものです。

3)神の恵みにとどまる
 もう1つパウロらがしたことは、「神の恵みにとどまるように」と勧めたことです。今の聖書には「説得した」と書かれています。今までの訳ですと「勧めた」と訳されていました。「説得した」ということばの方が「神の恵みにとどまる」ことへの強い勧めであるように受け取れます。それほどの「神の恵み」とはどのようなものでしょうか。それは、先程から話しています「朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びることのない新しい存在に変えられた」という恵みです。「その神の恵みを覚えて留まるように」とパウロとバルナバは勧めたのです。
 では「神の恵みにとどまる」とは、具体的にどのようなことを語っているのでしょうか。この「とどまる」とは、「留まり続ける」ということです。継続が求められているのです。神の恵みに留まり続けるには、この世にあって生き続けることでもあります。ですから、「朽ちて滅びることのない存在へと変えてくださった神に感謝し、この世にあって生き続けるように」ということをパウロとバルナバは勧めているのです。そして、この世にあって朽ちて滅びることのない存在へと変えられ生き続けるということは、そのような者へと変えてくださったイエス・キリストの証し人として生き続けるということでもあります。何度も話していますが、イエス・キリストが十字架に架かって私たちの罪の身代わりとなって死なれ甦られた目的は、そのイエス・キリストを信じる人の罪が赦されて天の御国に入るためではありません。信じる人の罪が赦され天の御国に入ることができるのは、イエス・キリストを信じたことの結果であり目的ではありません。イエス・キリストの十字架の目的は、朽ちて滅びることのない存在に変えられたことに感謝し生き続ける者となるためです。すなわち、イエス・キリストの証し人として生き続ける者となるために、イエス・キリストは十字架に架かって死なれ甦られたのです。
 そのことがきちんと分かっていないと、「イエス・キリストを信じることによって私の罪は赦され天の御国に入ることができる」ということで終わってしまいます。そうなりますと、「何故、毎週教会に集い礼拝をしなければならないのか」という疑問が生じます。すると礼拝が苦痛になり、やがて礼拝から足が遠のいてしまいます。これは本末転倒です。イエス・キリストの十字架の目的は、このような私が朽ちて滅びることのない存在へと変えられたことに感謝し、この世にあって生き続ける者となるためです。イエス・キリストの証し人として生き続けるためです。さらに言えば、そのような者へと変えてくださった神に感謝し礼拝し続ける者となるためです。これが神の恵みにとどまるということです。
 パウロとバルナバがこのように勧めたのは、この世にあって患難に遭遇するからです。そのことを彼らはよく知っているのです。何故なら、彼ら自身も患難に遭遇していたからです。神の恵みに感謝し信じることは容易い方です。しかし、信じた後の患難との戦いは決して容易いものではありません。むしろ、そちらの方が大変なのです。イエス・キリストもそのことを御存知だから、「世にあっては苦難があります」と話されたのです。ですが、その後で「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と話されたのです。死に勝利し朽ちて滅びることのない方が共にいてくださり、守り支え導いてくださっているのです。私たち一人ひとりを「決して見捨てない」と約束してくださった方が共にいてくださるのです。患難との戦いは決して容易いものではありませんが、その神の恵みに留まり続けて生きることが真の力でもあります。

結)
 私の友人で、よく「感謝です」ということばを口癖にしていた人がいます。神学生のときは「変わった奴や」と思っていました。でもそれは「苦難を経験していない」ということではありませんでした。様々な苦難を経験されていたのです。でも、その一つひとつを神が導いてくださり、全てのことを共に働かせて益としてくださることに感謝していたのです。そのことを知ったとき、彼に対する見方が「変な奴」から「すごい奴」へと変えられました。神は私たちの歩み一つひとつの事柄を共に働かせて益としてくださる方です。私たちは、その神の恵みの中に生かされているのです。このような私を決して朽ちて滅びることのない存在へと変えてくださった神に感謝しつつ、この世にあって生き続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:32~41「朽ちて滅びない方」 23.10.22.

序)
 前回私たちは13:13~31の箇所から、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂で語ったパウロのメッセージを通して、神は約束に従ってご自身の真実さ・確かさを示され、その神の真実さ・確かさは現代も変わることなく同じであることを学びました。そして、その神が今も私たち一人ひとりに働いてくださり、導いてくださっていることを確認いたしました。今朝は、そのパウロのメッセージの後半の部分です。今朝はこの箇所から、2つの点に注目し共に教えられたいと願っています。

1)朽ちて滅びることのない方
 その1つは、「イエス・キリストは朽ちて滅びることのない方である」ということです。パウロは旧約時代の出来事と現在の出来事を通して、神は約束に従ってご自身の真実さ・確かさを示されたことを語りました。続けて、「私たちもあなたがたに」と、32節で「私たちもあなたがたに神の約束である福音を宣べ伝えている」と言って、33~37節で旧約聖書を引用しつつ語っています。まずパウロは「神はイエスを甦らせ」と語っています。この「甦り」を意味するギリシャ語は「アナステーシス」ということばです。これは「アナ」と「ステーシス」を合わせたことばです。「アナ」とは「再び」という意味を持つことばです。例えば、バプテスト教会の中でも「アナバプテスト」というグループがあります。これは再びバプテスマを授けるグループを指しています。バプテスマには浸礼・滴礼・灌水礼があります。私たちの団体は浸礼の立場です。これは「私たちの団体が執行するバプテスマは浸礼が原則である」という立場です。ですから、転入される方に対しては、私たちの団体の信仰告白を受け入れるのであれば、滴礼を受けている方も受け入れる」というものです。しかし、団体によっては受け入れない所もあります。そのため、「転入されるならもう一度バプテスマを受けていただく」という立場がアナバプテストです。「ステーシス」とは「立つ」とか「置く」という意味のことばです。これは英語の「ステーシス」の語源です。英語のステーシスは「停止」を意味します。何故そのような意味になったのかと言いますと、立っているだけで動かないからです。甦り・復活を意味するアナステーシスとは、「再び立って活動し始める」という意味を持ったことばです。ですから、この「神はイエスを甦らせ」とは、「神はイエスを再び立たせられた」ということを表しています。
これは22節の「そしてサウルを…ダビデを立て」ということばと関連しているのです。36節に書かれていますが、ダビデは神によって王として立てられましたが、やがて死んで葬られ朽ちて滅びる者となりました。これは決して否定することができない事実です。しかしパウロは、37節で「     」と語っています。同じことが34節でも語られています。「何故神はイエス・キリストを死から甦らされたのか」と言いますと、34節に「わたしはダビデへの…あなたがたに与える」という旧約聖書を引用しつつ、「それが神の私たちへの約束だからである」と語っているのです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に架かって死なれ葬られましたが、神はそのイエス・キリストを死から甦らせてくださることによって、神の私たちへの約束は成就されたと語っているのです。
イエス・キリストは死から甦られたことによって、朽ちて滅びることのない方となられたのです。それは単に死から生き返ったということではありません。そうであれば、またやがては死んでしまい朽ち滅びてしまいます。ですが、イエス・キリストの甦りは全く異なるものです。私たちが生かさています日本には「死者を拝む」という風習があります。それは神社だけでなく墓もそうです。ですが、その死者礼拝が如何に空しいものであるかをイエス・キリストの復活は示しています。死んで葬られ朽ち果てた者に、生きている私たちを救う力など全くないのです。罪と死の奴隷とされている私たちを解放し、真の自由な者としてくださる神の救い。この神の救いは、朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストによってしかないのです。へブル7:25に「     」と書かれています。イエス・キリストはいつも生きておられるから、人々を完全に救うことができるのです。これがパウロの語っているメッセージの1つです。

2)罪の赦し
 もう1つパウロが語っているのは罪の赦しです。33~37節で「朽ちて滅びることのない方」となられたイエス・キリストの復活を語って後、38節の前半でパウロは「     」と語っています。朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストによってしか罪の赦しは与えられないのです。だから、「そのイエス・キリストを信じるように」というのがパウロのメッセージの結論です。
 では、罪の赦しとは何でしょうか。皆さんは「罪の赦しって何ですか?」と尋ねられたらどのように答えられるでしょうか。「自分の罪が赦されること」と答えられるでしょうか。そうですと、「自分の罪が赦されるとはどういうこと?」と尋ねられるでしょう。或いは「天の御国に入れること」と答えられるでしょうか。そうなりますと、罪の赦しは天の御国に入ることが目的となってしまいます。そのような質問に対して、どのように答えられるでしょうか。「私には分からないから牧師に聞いてください」でしょうか。それでも良いのですが、それでは全く解決にならないのです。何故なら、他の人から同じ質問をされても同じことの繰り返しだからです。一番良い方法は、自分自身が牧師に尋ねて学ぶことです。「知り合いからこのように尋ねられたのですが、何と答えれば良いのか」と尋ねることによって答えが分かり、今度からは同じことを尋ねられても答えることができます。これは大事なことです。それをしないといつまで経っても成長することはありません。へブル5:12に「あなたがたは…必要があります」と書かれています。年数からすれば他人に教える立場であるのに、それができていないのです。13~14節に「     」と書かれています。生まれたばかりの赤ちゃんや幼子は乳や離乳食を食べますが固い食べ物は無理です。それはもう少し成長してからです。聖書は「生まれたばかりの赤ちゃんではいけない」と語っているのです。人は成長する者として誕生したのと同じように、信仰も成長するものとして与えられているのです。そのことをきちんと覚えておく必要はあります。
 話しが反れてしまいましたが、罪の赦しを一言で言えば「本来の人間に立ち返ること」です。神が本来ご計画され、創造された人間本来の在り方から罪の故に的外れな存在となっているのが、私たちの現実の姿です。いのちの源であられる神から離れて、自己中心になって勝手に生きているつもりであっても、行き着く先は墓であり朽ちて滅びてしまいます。これが私たちの現実であり罪人の姿です。そのような私たちの所に、イエス・キリストは来てくださり十字架で死なれ葬られるという経験をされたのです。それは罪の中にある私たちと同じ朽ち果てる道を歩まれたのです。まさに「どん底」と言っても良い死者の中からイエス・キリストは甦られ朽ちて滅びることのない方となられたのです。
 いや、それだけでなく「     」と39節でパウロは語っています。「イエス・キリストによって、信じる者はみな義と認められる」とは、「どん底の状態から解放される」ということです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって死なれましたが、罪と死に打ち勝たれ甦られたのです。それはイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストと一つとされ死からの甦りに与ることができるということです。すなわち、死の支配から解放されるのです。朽ち滅びる古い存在ではなく、朽ちて滅びない新しい存在とされるのです。パウロはそのことをⅡコリント5:17で「     」と語っています。この朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びない新しい存在とされることが罪の赦しなのです。罪の赦しは天の御国に入るためではありません。この世にあって、朽ちて滅びることのない新しい存在として生きるためです。
 これがパウロの語っている福音の中心点です。41節にパウロが旧約聖書を引用し語っていることが書かれています。これは欄外に書かれていますようにハバクク書1:5の引用しつつ警告しています。へブル2:3に「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合」と書かれていますように、パウロはピシディアのアンティオキアのユダヤ教の人たちに、「ないがしろにしないように」と勧めているのです。この福音は嘲る人たちには信じがたいものです。しかし、信じる者にとっては神の力なのです。

結)
 今私たちは朽ちて滅びる存在から、イエス・キリストにあって朽ちて滅びない新しい存在とされています。この希望が、この良き知らせが福音なのです。福音は「死んだら天の御国に入れる」という死後に対する良き知らせではありません。今この世にあって朽ちて滅びることのない新しい存在に変えられ、生きるために神から送られたすばらしい知らせなのです。このすばらしい知らせを、私たちが生かされています家庭・地域・職場で一人でも多くの人に伝えていけるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:13~31「約束に従って」 23.10.08.

序)
 先週は、キプロス島でのパウロらの宣教について見ました。パウロらはユダヤ教会堂に入り、神のことばを宣べ伝えました。そして、今朝の箇所でもユダヤ教会堂に入って神のことばを宣べ伝えています。先週、私たちのこのような一貫したパウロらの行動を通して、神はその生き方を用いられ、人の想像を超えた不思議な導きによって、総督が信仰に導かれたことを見ました。今朝は、そのキプロス島からピシディアのアンティオキアの町での宣教の箇所です。このピシディアのアンティオキアにおいては、パウロが語った宣教に焦点を合わせて書かれています。今週と来週は、そのパウロの宣教から共に教えられたいと願っています。

1)ユダヤ教会堂にて
 まず、13節に「パウロの一行は…ペルゲに渡った」と書かれています。この「ペルゲ」とは何処かと言いますと、地図13を見ますと掲載されています。地図を見ますと、「アタリア」の少し内陸部に位置していることが分かります。このアタリアも港町なのですが、聖書にはアタリアに寄らずにペルゲに直接渡ったことが書かれています。直接内陸部にあるペルゲの町に渡ったことに不思議に思えます。学び会のときに触れられていましたが、当時は川幅も広く、海から直接ペルゲの町に入港していたことが発掘作業で分かっているということでした。そのペルゲからピシディアのアンティオキアには「王の道」というものが作られていました。それはローマ帝国が軍を速やかに派遣できるようにするためです。ピシディアのアンティオキアは、ローマ帝国の軍事都市の一つであったと考えられており、アクロポリスが作られ、その地域の中心都市で神殿も建設されており皇帝崇拝が行われていた町です。そのような町にパウロらは行ったのです。
 そして、彼らは安息日に会堂に入ります。この会堂とはユダヤ教会堂のことです。ユダヤ教会堂がローマ神殿の前の一等地に建てられていたことが発掘作業で明らかにされています。ローマ帝国の軍事都市に大勢のユダヤ人が住んでおり、ユダヤ教会堂が神殿の前の一等地に建てられていることが不思議に思えます。ですが、ヘレニズム時代には周辺民族との戦いがあり、反シリア派の人が大勢いたため、バビロン捕囚時代にシリアを支持するユダヤ人を住まわせ、ユダヤ人にある程度の地位が認められたことを学び会で見ました。そのため、パウロの時代にも多くのユダヤ人がこの町で生活をしていたのです。ですから、ユダヤ教会堂があっても不思議なことではありません。そのユダヤ教会堂にパウロが入りますと、旧約聖書の朗読の後に会堂司によって話すことを依頼されます。今朝の箇所は、パウロの最初の説教の箇所です。
 ここで、まずパウロは「イスラエルの…神を恐れる方々」と呼び掛けています。このことばから、「イスラエル人の皆さん」とはユダヤ人のことと分かります。では、「神を恐れる方々」とは誰のことでしょうか。それはユダヤ教に改宗した異邦人です。ですから、ピシディアのアンティオキアのユダヤ教会堂には、ユダヤ人と改宗した異邦人が共にいたことが分かります。このパウロの呼びかけから、福音はユダヤ人であれ異邦人であれ、どちらにも必要なものであることが分かります。それは、イエス・キリストによる罪の赦しは、ユダヤ人にも異邦人にも必要だからです。パウロはローマ1:16で、「福音は…神の力です」と語っています。この「ギリシャ人」とは異邦人のことです。イエス・キリストの福音は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、信じる全ての人に救いをもたらす神の力なのです。

2)過去の事実から
 まずパウロは、17~22節において旧約聖書の大きな流れを指し示しています。「この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び」と、アブラハムと族長たちを選ばれたことを語っています。イスラエルの民のエジプトでの奴隷生活とその地からの驚くべき解放の神のみわざ。そして、40年間の荒野での生活における神の守りと導きの恵み。さらに士師時代から預言者サムエルを通してサウルを王とする王国が建てられ、そのサウルが退けられてダビデが王に立てられたことが語られています。創世記15:13~14には、神がアブラハムに子孫が400年の間奴隷として苦しめられるが、そこから解放されることが語られています。さらに、創世記15:18~21にはアブラハムの子孫に与えられる土地の広さが語られています。これはソロモン王の時代に制圧された地域です。神はアブラハムへの約束に従って、アブラハムの子孫を導かれたことをパウロは語っているのです。
 アブラハム~ダビデまでの約千年の間、イスラエルの民は様々な経験をしてきました。しかし、神はご自分の約束に従ってイスラエルの民を守り導かれ、ご自身の確かさを現わされたことをパウロは語っているのです。そして、22~23節で神の真実が頂点に達するイエス・キリストの出来事を示しています。22節では、サウル王が退けられたのに対して、ダビデについては「わたしの心にかなった者」と言われ、ダビデをイスラエルの王とされたことを示しています。ですが、そのダビデ王朝は息子ソロモンへと継承されますが、ソロモン死後に南北に分裂してしまいます。そして、北イスラエル王国は紀元前722年のアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前587年にバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロン捕囚として多くのユダヤ人はバビロニア帝国に連れて行かれます。
 このように見ますと、ダビデ家の子孫による王権は永久になくなってしまったように思えます。しかし、預言者エレミヤは23:5で「     」と語りますし、エゼキエルは34:23~24で「     」と、ダビデの子孫から王となって治める者が起こされることが語られています。23節では、これらの約束に従って、神はダビデの子孫から救い主イエス・キリストが送られたことを語っています。マタイ1章にはイエス・キリストの系図が書かれており、16節に「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ」と書かれています。ですから、イエス・キリストの父ヨセフはダビデの子孫です。そのダビデの子孫であるヨセフの職業は何だったでしょうか。マタイ13:55に「この人は大工の息子ではないか」と、イエス・キリストの父ヨセフの職業が大工であったことが分かります。ダビデ王家の子孫が大工という職業に就いているのですから、ダビデ家の子孫による王権復活は永久にないようにも思えます。しかし、神はご自分の約束に従って、ご自身の確かさ・真実さを現わされたのです。パウロは過去の事実から、神のダビデに対する約束は、イエス・キリストによって成就されたと語っているのです。

3)現在の事実から
 アブラハム~ダビデ、ダビデ~イエス・キリストまでの旧約聖書の証言に従って、神が真実なる方であることを語ったパウロは、続けて現在の時代からも語っています。まずパウロは、24~25節でバプテスマのヨハネの証言に基づいて、イエス・キリストが神の約束に従って送られた救い主であることを示します。26節で「アブラハムの子孫…恐れる方々」と、16節と同じことばをかけています。それは、これから語ることに注目してほしいからです。何に注目してほしいのかと言いますと、神の約束は現在も生きているということにです。だから、パウロは26節の後半で「この救いのことばは、私たちに送られたのです」と語っているのです。すなわち、「旧約聖書における神の約束は、旧約聖書の時代の人々だけにではなく、現代の私たちにもなされている」と語っているのです。
 そしてパウロは、まずイエス・キリストにしたエルサレムの人々とその教指導者らについて語っています。彼らはイエス・キリストを認めず、むしろイエス・キリストを罪人と定め、十字架刑に処して殺し墓に納めたことを27~29節で語っています。「エルサレムの人々とその指導者たち」と語っています。パウロが今いる所は、エルサレムではなくピシディアのアンティオキアです。このことばは、「あなたがたではなく、エルサレムの指導者たちの罪によって神の救いの約束は果たされなかったように思えるけれども、神はイエス・キリストを死者の中から甦らせてくださった」と30節で語っているのです。さらに、神はイエス・キリストを死から甦らせただけでなく、多くの人たちに現されたことを31節で語っています。そして、「そのイエス・キリストの証人が、あなた方の前に立っている」と語っているのです。何故、ピシディアのアンティオキアの人たちの前に、イエス・キリストの証人が立っているのでしょうか。それは、神の救いの約束はピシディアのアンティオキアの人たちにも送られているからです。
 出エジプトの時代、士師記の時代、分裂後の時代の人々は、自分たちの願いを満たすために神に対して罪を犯し続けてきました。しかし、神はそのようなイスラエルの民に対して見捨てることをされず、養い導かれることを通してご自分の愛を示されていました。そして、イエス・キリストの時代においても、ユダヤ教指導者らは自分の願いを満たすために、イエス・キリストを十字架刑に処して殺しました。それでも神は人を見捨てることをされず、むしろイエス・キリストを死から甦らせることによって、ご自分の愛を明らかに示されました。「神はご自分の約束に従って、決して人を見捨てることをされず、御手を差し伸べ続けて、ご自分の愛を明らかにされている。それはピシディアのアンティオキアの人々に対しても同じである」とパウロは語っているのです。

結)
 このパウロが語り続けている福音。神の救いの約束は、私たちが生かされています現在においても同じです。現代の私たちも自分の願いを満たしたいがために、神に対して罪を犯してしまいます。しかし、神はそのような私たちを見捨てることをされず、救いの方法を取ってくださっています。それは、自分の罪を悔い改めて神の約束を信じることです。その神の約束とは、「イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのを信じることによって赦される」というものです。神はその約束に従って、現代も一人ひとりに働いてくださっています。その福音を一人でも多くの人に伝えられるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:4~12「キプロス島での宣教」 23.10.01.

序)
 先週はパウロの伝道旅行の前文と言っても良い箇所で、どのようにしてパウロは伝道旅行を始めるに至ったのかを見ました。それはアンティオキア教会の人たちが断食をして主を礼拝している中で、聖霊の語りかけによって始まったものです。この「断食し」ということばは、別になくても不自然ではありませんが、わざわざこのことばを書き加えているということは、アンティオキア教会の人たちがどれほど備えて礼拝に臨んでいたかを教えられます。パウロの伝道旅行はこのようなアンティオキア教会の礼拝に対する備えを通して、そして神のみわざによって始まったものであることをルカは記ているのを私たちは学びました。今朝の箇所はキプロス島での宣教です。この箇所から「宣教するにおいて何が大切であるか」を共に教えられたいと願っています。

1)パウロらの生き方
 聖霊によって送り出されたパウロとバルナバは、ヨハネを助手として連れて行きます。この「ヨハネ」とは、12:15に書かれています「マルコと呼ばれるヨハネ」のことです。すなわち、マルコの福音書を書いたマルコのことです。このヨハネについては、12:12にも「マルコと呼ばれている…家に行った」と書かれています。多くの人が集まり祈るほどの家ですから、裕福な家庭で大きな家に育った人だと想像できます。また、この家は1:13以降に書かれています祈るために集まっていた家とも考えられます。彼らはアンティオキアの町からセレウキアという町に行きます。この「セレウキア」という町は、学びのときに見ましたがアンティオキアから海の方に20㎞程離れた港町です。今でも小さな港がありますが、その港はパウロらが船出した港ではないことを覚えておられることと思います。その近くに、昔あった港の形跡が残されており、発掘作業がなされる中で大きな港があったことを学びました。当時のアンティオキアの町はローマ帝国の中で3番目に大きな町でしたから、セレウキアの港も大きな港でした。その港からパウロらはキプロス島に船出したのです。パウロと同行したバルナバはキプロス生まれですから、この地での伝道は深い思いがあったのではないかと想像します。この町はイスラエルからは近い大きな港町ですから、大勢のユダヤ人が住んでいました。そのため、ユダヤ人の会堂も幾つかありました。パウロらは、そのユダヤ人会堂に入って福音を宣べ伝えたのです。それはローマ1:16に「福音は…神の力です」と書かれていますように、「ユダヤ人をはじめ」なのです。パウロらは異邦人伝道に遣わされていますが、決してユダヤ人伝道を軽んじてはいないのです。それは使徒13:46で語られているように、神のことばはまずユダヤ人に語られる必要があったからです。ですから、パウロらはどの町に行こうともユダヤ人会堂に入って福音を語ったのです。全くぶれることのないパウロらの生き方を知らされます。
 その後、パウロらは島全体を巡回してパポスという町に行きます。このパポスという町はキプロス島の中心都市です。この町には地方総督であるセルギウス・パウルスという人がいました。「セルギウス・パウルス」というのはラテン語です。この「パウルス」というのは「パウロ」です。以前の聖書では「セルギオ・パウロ」と訳されていました。「何故ラテン語の名前を用いたのか」と言いますと、学び会のときに話されていましたが「パウロと区別するためではないか」と考えられます。その町に「バルイエス」という名前の魔術師にパウロらは出会います。この魔術師は、「地方総督であるセルギウス・パウルスのもとにいた」と7節に書かれています。何か不思議な神の導きのように思えます。
 ですが、このことだけに目を向けてしまいますと危険なように私は思えます。パウロらはどの町に行こうとも、最初にユダヤ人会堂に入って福音を語りました。それは「ユダヤ人をはじめ」というパウロらの一貫した伝道方法です。おそらくパウロらは、パポスの町でもユダヤ人会堂に入って福音を語ったことでしょう。その過程で、バルイエスに出会うように神はパウロを導かれたのです。神はパウロらの一貫した伝道方法・生き方を用いられたのです。決してぶれることのないパウロらの生き方。その生き方を私たちは学ばされます。

2)バルイエス
 では、そのパポスの町で何が起こったのでしょうか。このパポスの町で2人の人物が挙げられています。それは先程からも見ているバルイエスと地方総督のセルギウス・パウルスです。まずは、バルイエスについて見てみたいと思います。6節の後半に「バルイエスという…偽預言者であった」と紹介されています。「バルイエス」の「バル」とは「子」という意味です。ですから、「イエスの子」となります。「え、イエス・キリストの子なの」と思われるかもしれませんが、「イエス」という名は普通の名前です。「イエス」とは「主は救い」という意味です。旧約聖書に「ヨシュア」という人がいます。モーセの後継者でイスラエルの民をカナンの地に導いた人です。彼の元々の名は「ホセア」でした。この「ホセア」とは「救い」という意味です。モーセは、このホセアを「ヨシュア」に改名しました。「ヨシュア」とは「主は救い」という意味です。すなわち、ヨシュアのギリシャ語がイエスなのです。ですから、当時のイスラエルにおいて「イエス」という名は決して珍しい名前ではなかったのです。
 この「バルイエス」と呼ばれていた人物はユダヤ人ですから、彼が行う魔術を通して「この人が主から遣わされた救い主である」と人々に思わせていたとも考えられます。その噂が地方総督のセルギウス・パウルスの耳に入り、バルイエスを召し入れていたと思われます。当時、キプロス島には多くのユダヤ人が住んでおり、またヘレニズム文化がどっしり腰を据え降ろしている地域です。そのような島の中で「救いの子」を意味するバルイエスによる大きな影響を人々は受けていたと考えられます。7節前半の「この男は…もとにいた」ということばから、地方総督であるセルギウス・パウルスは何かとバルイエスに寄り頼んでいたものと想像できます。ところが、聖書はバルイエスのことを「偽預言者であった」と書き記しています。すなわち、神から遣わされた預言者ではなかったということです。むしろ、神の道を曲げている人だったのです。
 このバルイエスは、パウロらが総督の所に招かれますと、「二人に反対して…遠ざけようとした」と8節に書かれています。何故二人に反対したのかと言いますと答えは明白です。彼の目的は人を神から遠ざけることだったからです。ところが、パウロらが語る神のことばによって、人が神に近づくことを恐れたからです。神のことば・神のみわざが前進しようとするとき、サタンの働きも強まることを聖書は示しています。でもそれは当然のことです。今ラグビーのワールドカップが行われています。相手チームが自分たちの陣地に入り押し込まれているとき、得点を入れられないように必死に抵抗します。それと同じです。福音が前進しようとするとき、サタンの抵抗も厳しくなります。私たちは福音がなかなか前進しないことに落胆してしまうことがあります。でも、その要因の一つはサタンの抵抗が厳しいからでもあります。サタンの側も必死なのです。
 そのバルイエスの抵抗に対して、パウロは「彼をにらみつけて」と9節の最後に書かれ、パウロがバルイエスに対して言ったことばが10~11節に書かれています。すると、バルイエスに何が起きたかと言いますと、11節の後半に「するとたちまち…探し回った」と書かれています。この情景を思い浮かべますと、パウロがダマスコ途上で経験したものと似ているように思えます。しかし違う点は、パウロは悔い改めて神に祈りましたが、バルイエスにはそのようなことが書かれていないという点です。バルイエスは自分の罪を悔い改めたのかどうかは分かりませんが、私たちは自分の罪を示されたとき悔い改めることが大切であるのをバルイエスの出来事から気づかされます。

3)セルギウス・パウルス
 もう一人の人物は、地方総督であるセルギウス・パウルスです。この地方総督であるセルギウス・パウルスについて、著者ルカは「この総督は賢明な人で」と紹介しています。調べてみますと、彼は総督になる前は川の管理官として行政に携わっていたようです。行政官時代の働きが評価されて総督に任じられたと考えられます。ですから、とても才能のあった人だったと想像できます。しかし、そのような人であっても魔術や迷信に惑わされ、欺かれてしまうのです。そのような人は現代にもおられるのではないでしょうか。とても優れた人がカルト集団に入ってしまうというのを耳にします。そのようなとき「何故そのような人が」と思わされたりもします。しかし、そこに人間の限界を見せられるのではないでしょうか。
 そのような状況下に置かれていた総督でしたが、バルイエスから解放される時が訪れました。それは神のことばです。パウロらが語っていた神のことばに「聞きたい」という思いが起こされたのです。どのようにして総督にまでパウロのことが伝えられたのかは聖書に記されてはいません。ですから、パウロらがキプロス島に着いてから、どれほどの時間が経っていたのかは分かりません。しかし、確かなことは総督にまで神のことばが届いたということです。6節に「島全体を巡回してパポスまで行った」と書かれています。パウロらの地道な働きを通して、この地方の総督の耳にまで届いたのです。このことばは「地道な働きは決して無駄ではない」という励ましを与えてくれます。「こんなことをして無駄ではないか」と思えることは多々あります。「巡回して」なのですから一つひとつなのです。その一つひとつを神は用いてくださるのです。それは現代においても同じです。何故なら、神は永遠なるお方だからです。この時代に一つひとつを用いられた神は、今の時代も一つひとつ用いてくださるお方なのです。そのことを覚えつつ、神のみわざに続けて参与していきたく願わされます。
 「神のことばを聞きたい」と願った総督に対して、聖書は「ところが」と8節で語っています。バルイエスが反対したのです。先程も話しましたように、神のみわざが前進しようとするときサタンは抵抗します。しかし、そのサタンの抵抗はもろくも崩れ去ります。パウロは聖霊に満たされ語ります。すると、たちまちバルイエスは目が見えなくなってしまいます。これはパウロの力ではなく、「聖霊に満たされて」と聖霊なる神によってであることを聖書は示しています。総督はこの出来事を見て信仰に入りました。癒しや奇蹟などを通して信仰に導かれる方がおられます。それは、その人にとっての神の導き方です。癒しや奇蹟が大切なのではありません。人を救いに導くのは神のことばです。私たちはそのことを見逃してはなりません。パウロ自身、Ⅰコリント1:18で「     」と語っています。十字架のことば・神の福音のことばこそが救いを得させる神の力なのです。導かれ方はいろいろありますが、人を救うのは神のことばなのです。私たちは、そのことをセルギウス・パウルスから教えられます。

結)
 このキプロス島での宣教を通して、私たちは一貫した彼らの生き方から教えられます。その背後には、教会と神から遣わされているという自覚です。私たちは今週も、各々の家庭・地域・職場にて日々の生活を続けます。それは主の日に共に集い礼拝を神に献げるだけでなく、この教会と神から各々の生活の場に遣わされるものでもあります。その場での証しや宣教は地道なものかもしれません。しかし、その証しや宣教を神は用いてくださいます。そのことをキプロス島での宣教を通して教えられます。各々の場でキリスト者としての証しや宣教が豊かに用いられることを祈っていきましょう。

 


使徒の働き13:1~3「みことばの広がり」 23.09.24.

序)
 先週の月曜日には東海フェスティバルが行われ、火曜日~金曜日は日本伝道会議が行われました。私と家内はその両方に参加しましたが、通いで疲れたため金曜日は休みました。多くの恵みをいただき良い交わりと祈りの時を持たせていただきました。私にとって一番感動したのは、初日の岐阜市長の挨拶でした。私は初めて知ったのですが、岐阜城の最後の城主は織田秀信という信長の孫でキリシタン大名であったということです。今の柴橋岐阜市長はクリスチャンであることを公言され、「クリスチャン市長として証しし続けられるように」と祈りの要請を出されました。さて、今日からは使徒の働きから当分の間共に教えられたいと願っています。今朝の箇所は、パウロの伝道旅行の始まりについて描かれている箇所です。この箇所を通して、神のみことばがどのように広がったのかを共に教えられたいと願っています。

1)アンティオキアとは
初めに少し使徒の働きを振り返りたいと思います。11:19~20に「     」と書かれています。エルサレムの町での迫害が強まり、使徒たち以外のキリスト者は地方に散らされたことが8:1に書かれています。その散らされた人たちのある人たちは北の方のフェニキア地方に進み、そこからキプロス島に行く人とアンティオキアの町に行く人らに分かれたのか。それとも、キプロス島を経由してアンティオキアの町に行ったのか。どちらかです。記載されている文章では、どちらとも取れるものです。ただ使徒の働きの著者ルカは、アンティオキアの町に焦点を合わせて描かれているということです。
では、アンティオキアとはどのような町でしょうか。学びでも触れられていましたが、現在はトルコのハタイ県の県庁所在地で「アンタキヤ」と呼ばれています。この町は、紀元前307年にアレキサンダー大王の部将の一人であるアンティゴノスによって作られ、その名前もアンティゴネイアと呼ばれました。彼の死後、息子で後継者のセレウコス1世によって再建されて「アンティオキア」と改名されました。紀元前2世紀になると、文化や経済の中心都市としてヘレニズム世界で繁栄しましたが、セレウコス朝は徐々に弱体し紀元前63年にローマ帝国によって滅亡しますと、この都市はローマのシリア属州となり、ローマ時代には東地中海随一、またローマ、アレキサンドリアに続く3番目に大きな都市でした。日本で言えば、東京・大阪に次ぐ名古屋のような町と言っても良いのかもしれません。なお、相次ぐ地震で何度も崩壊しましたが、その都度再建された町でもあります。記憶に新しいのは、今年の2月におきましたトルコ南部地震ではないでしょうか。この地震で町の多くの建物が崩壊した写真を見ました。学び会で見ました「ティトスのトンネル」などの世界遺産がどうなっているのかは分かりません。
学び会のとき、アンティオキアはシルクロードの終着点であり、このアンティオキアの町を中心として、現在のヨーロッパやアフリカ、イラク方面へと繋がる中心的な町でした。ですから、ローマ帝国においては、なくてはならない町でもあったことを学びました。そのような町ですから、人の往来が多い町であることは想像しやすいものです。人の往来が多いということは、いろいろな人種の人たちが集うということでもあります。ユダヤ人に限定すれば、ヘレニズム文化にどっぷりと浸かっているユダヤ人もいたということです。例えば、使徒の働き6:1に「そのころ…苦情が出た」と書かれています。この「ギリシャ語を使うユダヤ人」とは、ヘレニズム文化にどっぷりと浸かっているユダヤ人のことです。エルサレムの町でも、このような人たちが大勢いたのですから、アンティオキアの町であれば尚更のことと想像できます。ローマ帝国の三大都市のローマはイタリアですし、アレキサンドリアはエジプトです。アンティオキアはシリアです。ですから、アンティオキアの町はシリア地方の最大都市であったことが分かります。そして、その町を拠点として福音宣教が始められたことにルカは焦点を合わせて描かれていることが分かります。

2)神のことば
 その大都市であるアンティオキアの町に一つの教会が誕生しました。それがアンティオキア教会です。その教会には、「バルナバ…教師がいた」と書かれています。バルナバはキプロス生まれのユダヤ人です。また、「ニゲル」とは「黒」を意味することばですから「黒人系」と考えられます。また、クレネ人は北アフリカ地方の人のことです。そして、サウロは生粋のユダヤ人です。このように見ますと、アンティオキア教会には様々な人種の人たちが集っていた教会であったことが分かります。さらに、「預言者や教師がいた」と書かれています。このことから特別な賜物が与えられていた人たちも数名いたことが推測できます。これらの人たちを教会の指導者として、アンティオキア教会はこの地で福音宣教を続けて行ったと考えられます。
 しかし、今朝の箇所の中心の1つは、どのような人たちが集っていたのかではなく、どのような生活を過ごしていたのかです。2節の初めに「彼らが主を礼拝し、断食していると」と書かれています。彼らは共に教会に集って主に礼拝を献げていたのではなく、断食して主に礼拝を献げていたのです。この断食がどのような断食であるかは分かりませんが、私自身断食して礼拝に集ったことはありません。断食について調べてみますと、新聖書辞典には「断食は、それに伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と恐れをもって神に近づく者の熱心な祈りと悔い改めを表現しているのである」と紹介されています。この後に、聖霊が彼らに語られたことを私たちは知っていますが、集っていた人たちはそのようなことを知る由もありません。ですから、毎週このように断食をしつつ礼拝に集っていたと考えられます。前日から礼拝に心を寄せ、祈りつつ礼拝に備えていたのかもしれません。最近は耳にしませんが、私の若い頃は土曜日を「礼拝の備え日」と言われていました。ですから、「心身ともに礼拝に備えるように」と教えられていました。この「断食をしていると」ということばから、彼らはどれほど礼拝に備えて集っていたかを知ることができます。「主に礼拝を献げられるのを特別なこと」として過ごしていたことが伝わってきます。これが今朝の箇所の中心の1つです。
 当時の礼拝形式がどのようなものであったのかは分かりませんが、彼らが共に集って主に礼拝を献げていますと、聖霊の語りかけを聞くという出来事が生じました。これは聖霊が直接一人ひとりに働いて語りかけられたのか、それとも一人の預言者を通して語りかけられたのかは分かりません。どちらとも取れる表現です。しかし、確かなことは聖霊なる神が一人ひとりに語りかけられたということです。すなわち、直接であれ一人の人を通してであれ、神が一人ひとりに「神のことば」を語りかけられたのです。そして、その神のことばに一人ひとりは真剣に耳を傾けていたのです。この姿勢に私たちは学ばせられます。これは少し違いますが、私は礼拝で聖書を読むときすぐに読まない時があります。時間の制約もありますので、「全て」とは言いません。でも、それは全員がその個所を開くのを待っているからです。何故なら、聖書は神のことばです。その神のことばが朗読されるからです。私自身の中では、「語られるメッセージよりも神のことばに耳を傾ける方が重要である」と捉えているからです。
 少し話しが反れてしまいましたが、彼らは神のことばに祈りをもって耳を傾けていたのです。すると、その神のことばは「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」というものです。アンティオキア教会は、エルサレムの町から散らされた人たちの伝道によって生み出された教会です。そして、エルサレム教会はアンティオキアの町に教会ができたことを聞いてバルナバを派遣しました。11:22~24には「     」と書かれています。このことから、バルナバはアンティオキア教会の指導者であったと考えられます。そのバルナバはサウロを捜しにタルソの町に行き、アンティオキアの教会に連れて来て教え始めたことが11:26に書かれています。ですから、アンティオキア教会にとってバルナバとサウロは「中心的指導者」と言っても過言ではありません。その彼らを神は「わたしの召した働きに就かせなさい」と告げられたのです。神のことばは私たちの想像以上のことを発せられることがあるのを知らされます。

3)アンティオキア教会の対応
 アンティオキア教会の人たちは、主を礼拝している中で想像すらしていなかったことを告げられました。このことを聞いた人たちはどのように思ったでしょうか。聖書にはそのような内容は書かれていませんので想像するしかありません。おそらく驚いたことと思います。中には「何故なの!彼らは教会の中心的人物であり、この2人が抜けたら教会はどうなるの」と思った人もいたことでしょう。しかし、教会は何をしたのかと言いますと「彼らは断食して祈り」と書かれています。教会がしたのは断食と祈りです。この「断食」ということばから、教会はすぐに答えを見出だしたのではないと思われます。数日かかって答えを見出だしたものと考えられます。その間、教会の中では様々な意見が出され議論し合ったことと想像します。そのような中で、教会が出した結論は「神の召しに対して人は反論できない」ということです。
 「全てを御存知の神は、これからのバルナバとサウロを用いられご自身のすばらしさを現されるのと同時に、このことを通してアンティオキア教会の歩みも祝福してくださる」と信じたのです。ヤコブの手紙からも教えられましたが、「何に目を向けるのか」の大切さを改めて教えられます。神の約束の確かさに目を向けるのか、それとも目の前の事柄に目を向けるのか。何に目を向けるのかで、その後の歩みは大きく異なってきます。アンティオキア教会が目を向けたのは神の約束の確かさです。先程も触れましたが、そこまで辿り着くには数日かかったものと思われます。しかし、確信が与えられるまで待ち続けたアンティオキア教会の姿勢に教えられます。同時に、正しい判断をするまで待ち続けられた神の愛と忍耐をも知らされます。
 では、バルナバとサウロに与えられた働きとはどのようなものでしょうか。それは4節以降に書かれています「伝道旅行」という働きです。アンティオキア教会はエルサレム教会とは異なることが生じていました。それは11:19~26の時にも話しましたが、異邦人キリスト者が生じたという出来事です。20~21に「ギリシャ語を話す人たちにも語りかけ、大勢の人が信じて主に立ち返った」と書かれています。この「大勢の人」の中には異邦人もいたことと考えるのは自然的なことです。ですから、アンティオキア教会はエルサレム教会とは異なる神の祝福を受けていたのです。その神の祝福をアンティオキアの町に留めるのではなく、その神の祝福をさらに別の町にも広げていくことを神は求められたのです。そのことを悟ったアンティオキア教会は、バルナバとサウロの上に手を置いて祈り送り出したのです。
 このことから、神から受けた祝福は自分の中に留めるのではなく、その神の祝福を広げる大切さを教えられます。私たちはイエス・キリストの十字架によって、罪の赦しと神の審きからの救いという恵みと祝福を受けました。その神の恵みと祝福を私たちの家族や友人・知人、さらに地域の方々にも伝えていく務めを再確認させられます。そして、私たちの春日井神領キリスト教会も家族伝道や地域伝道、さらには世界伝道をも見据えた働きを続ける群れとして用いられたく願わされます。

結)
 何度も触れていますが、使徒の働きの中心は1:8の「     」というイエス・キリストのみことばです。このみことばがどのようにして成就されていったのかが使徒の働きには描かれています。それは8節の最後に書かれています「わたしの証人」です。それはイエス・キリストの証人であり神の証人です。一人ひとりが神の証し人として歩み続けることを通して、主のみことばは前進し広がっていったのです。前進するとき困難も覚えます。ですが、困難に臆することなく、続けて神の証し人として、主のみことばが広がることを祈りつつ、日々の生活を歩まされていきたく願います。

ヤコブ5:13~20「祈りとは」 23.09.17.

序)
 ずっと見てきましたヤコブの手紙ですが、いよいよ最後の箇所となりました。このヤコブの手紙は行いが重視されていますが、そこには「すでに神の恵みを受けている」という前提があってのものです。そのヤコブの手紙の締めくくりは祈りです。祈りとは神との会話であり、「霊の呼吸」とも言われています。祈りは信仰のバロメーターであり、祈りが貧弱だと信仰も貧弱になってしまいます。今朝は、その祈りについて共に教えられたいと願っています。

1)祈りとは何か
 祈りとは、先程も話しましたように神との会話であり、「霊の呼吸」とか「霊の交わり」とも言われています。祈りは、自分と神との関係の深さを表してもいます。私たちは様々な人間関係の中で生かされています。ですが、全ての人と関係の深さは同じではありません。関係が浅い人もいれば深い人もいます。どういうことかと言いますと、ある人とは挨拶程度かもしれませんが、別の人とは世間話をしたりします。さらに関係が深い人とは、相談事をする人もいるでしょう。そのように私たちは様々な人間関係の中に生かされていますが、その関係の深さは人によって異なります。
 祈りが「神との会話」であるなら、その祈りを通して神と自分との関係の深さをも表しています。その祈りが単なる表面的な祈りであるなら、「私は神とそれほど深い関係ではない」ということを表しています。ある人は「私は忙しいから深く祈る時間がない」と言われる方がおられます。しかし、それは祈る時間がないのではなく、深い祈りができないだけのことです。私たちは家族の中で何かあったとき話し合うと思います。特に大事なことは、時間など関係なく話し合うのではないでしょうか。どれほど夜が遅くなったとしても、どれほど忙しくても話し合う時間を作るのではないでしょうか。何故でしょうか。それは大事なことだからです。または、話し合うだけでなく聞くだけであったとしても、「今聞く必要がある」と思うから時間を割いてでも聞くのではないでしょうか。それは相手との関係がそれほど深いからです。時間のあるなし関係なく、親密な人とはそのような時を持つのではないでしょうか。
 ところが、祈りについては、「時間」ということばを持ち出してくるのです。そして、自分の忙しさを主張するのです。これは「長い祈りをしましょう」と言っているのではありません。祈りは神との会話です。あなたと神との関係を表すものです。表面的な祈りで済ませるのか、それとも具体的な祈りをするのかによって、自分と神との関係深さを知ることができます。祈りは私と神との関係深さのバロメーターです。
 一般的には、祈りは神への願いであり、神に訴えるものと思われています。しかし、聖書が語る祈りはそのようなものではなく、神との会話であり関係深さのバロメーターです。イエス・キリストは、マタイ6:7で「     」と話されました。「同じことばをただ繰り返す」というのは訴えです。では何故同じことばを繰り返し訴えるのでしょうか。イエス・キリストは続けて「ことば数が…思っているからです」と話されています。彼らの神理解は「訴えないと知ってもらえない」という神理解だからです。8節の中程でイエス・キリストは、「あなたがたの父は…知っておられるのです」と、「神は私たちの心の中の全てを御存知である」と話されました。主なる神を信じている人と信じていない人との神理解は全く違います。キリスト者の祈りは、決して神への訴えではなく神との会話です。
 訴えと会話の違いは何でしょうか。訴えは自分から神への一方通行です。ですが、会話は一方通行ではありません。私たちは人と会話するとき、自分の思いを伝えますが相手の思いにも耳を傾けます。相手の意見や思いに耳を傾けないなら、それは訴えとか命令になってしまいます。祈りは神への訴えや命令ではなく神との会話です。ですから、伝えると同時に耳を傾けて聞くことも必要です。ですから、祈りとは「神との霊的ことばのキャッチボール」ということもできるでしょう。

2)祈りの力
 ヤコブは14~16節で、「病気の人や罪を犯した人は祈ってもらうように」と語っています。それは、その祈りによって癒しや赦しがもたらされるからです。14節に病気の人は「オリーブ油を塗って」と書かれています。ですが、これはオリーブ油に何か特別な力があるということではありません。ここでの強調点は「主の御名によって」です。私たちは病気をしますと多くの人は薬を飲まれます。私も風邪をひきかけたときには風邪薬を飲みます。昔テレビ番組の中で専門家の方が「薬自体に病気を癒す力はない」と話されました。そして、「身体の中には病気を癒す力があり、その力を引き出すのが薬である」と話しておられました。続けて、「薬がすごいのではなく、その力を引き出すことができる身体がすごい」とも話されていました。
 神はそのような身体を造られたのです。神は薬を用いて、身体の内に働いてくださっているのです。私たちはそのような文明社会の中で生かされています。ですから、何でも科学的に解決しようとしてしまいやすくなります。しかし、科学で解決できないことも沢山あります。今月の祈り会では、家内が準備した「進化と創造」のyoutubeを見ました。私にとって新たな発見は「身体はDNAに書き込まれた情報によって組み立てられており、その情報は解読されて初めて意味がある」ということばでした。そして、「解読されなければ単なる文字の羅列に過ぎず、解読するには知っていなければできない」というのです。私は聞きながら「なるほど」と思わされました。知っているから文字を配列して文章ができます。それはDNAも同じです。知っているからDNAをきちんと配列することができ、完成した生き物を造ることができるのです。それは偶然では絶対にあり得ないことです。ところが、この創造は科学では解決できないものです。何故なら、科学を超えたものだからです。「神が天と地を創造された」ということは、「神は科学を超えたお方である」ということです。
 祈りは、その神との会話です。そして、神は私たちの祈りを聞かれ、最善の時に最善のことを行ってくださるのです。それを多くの人は「偶々」ということばで済ませようとします。この「偶々」というのは「偶然」ということです。「偶然」というのは科学で証明できるものではありません。何故なら、偶然というのは法則がないからです。法則のないものを科学では証明できません。しかし、神はその「偶然」と思えるようなものを用いることのできるお方なのです。「偶々そうなった」と思える事柄の中に、実は神のみわざがなされているのです。神は私たち一人ひとりの祈りを聞いてくださり、その祈りに対して最善の時に最善のことを行ってくださいます。その神のみわざは「偶々」と思えるような、私たちの理解を超えたものです。「信じるだけで自分の罪が赦される」というのは理解しにくいものです。また、癒しについても医学的に考えてしまいます。罪の赦しも癒しも人の理解を超えた神のみわざがなされるのです。それをもたらすものは祈りです。主の御名によって祈る祈りに神は耳を傾け、ご自身のみわざを成してくださるのです。祈りは、そのような力のあるものです。

3)祈りの実践
 ヤコブは16節の最後で、「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」と語っています。これは「正しい人の祈りは特別な力がある」ということではありません。「正しい人の祈りを神は聞かれ、みわざを成してくださる」ということです。その例として、17~18節でエリヤの出来事が書かれています。欄外に「Ⅰ列王記17:1」と書かれています。17:1の最後に、「私が仕えている…雨も降らない」と、エリヤがアハブ王に語ったことが書かれています。そして、18:1には「     」と書かれています。そして、18:41に「     」と書かれており、45節に「しばらくすると…大雨となった」と書かれています。ヤコブ5:17~18に書かれていますことは、この出来事を表しています。今朝の箇所でヤコブは、「祈りなさい」とか「祈ってもらいなさい」と、祈りを実践することを勧めています。神への祈りがどのようなものであるかを知るのは大切なことです。ですが、知るだけでは不十分です。祈りを実践することによって、初めて祈りを生かすことができるのです。
 私たちは「お金は必要なものを買うことができる」と知っています。ですが、そのお金は用いて初めて生かすことができます。もし、お金を用いなければ必要なものを手に入れることができません。お金を用いて初めて手に入れることができるのです。お金は用いて初めてその価値を発揮することができるのです。それは祈りも同じです。「祈りとは何か」とか「祈りの力」を知っていても、その祈りを実践しないなら祈りの力を経験することはできません。ルカ11:9に「     」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。御存知だと思いますが、この「求めなさい」とか「探しなさい」とか「たたきなさい」というのは、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」ということです。継続することが語られています。祈りもそうです。祈り続けることが大切です。
 16節でヤコブは「ですから…互いのために祈りなさい」と語っています。ここに書かれています「癒される」というのは病気の癒しだけはなく罪の癒しも含まれています。それには「互いに…祈りなさい」と勧められています。この「互い」ということばは重要です。「互い」とは「一人ではない」ということです。「複数の人で」ということです。イエス・キリストが天に上がられ、ペンテコステの日まで信じる人たちは何をしていたでしょうか。使徒1:14に「     」と書かれています。彼らは共に心を一つにして祈っていたのです。マタイ18:20にも「     」と、一人ではなく集まることの重要性をイエス・キリストは話されています。ヤコブ5:16の「正しい人」とは誰のことかと言いますと、文脈的には「罪を言い表し癒された人」、すなわち罪が赦された人と考えられます。ここにも共に集まって祈り合う実践が求められているのです。

結)
 キリスト者にとっての祈りは神との会話です。決して神に訴えるだけではありません。祈りは神との霊的交わりでもあります。その霊的交わりが深められるためにも具体的に祈ることが重要です。そして祈り続けることを通して、私たちは神のすばらしさをさらに深く知ることができ、祈りの力を経験することができます。私たちが神のすばらしさをさらに深く知るためにも、共に祈り合うことが大切です。何故なら、以前にも見ましたが、Ⅰヨハネ4:20の後半に「目に見える兄弟を…愛することはできません」と書かれています。ことばを変えて読みますと、「目に見える兄弟と霊的交わりを持たない人に、目に見えない神と霊的交わりを持つことはできません」とも聞こえるからです。以前にも話しましたが、コロナによって多くの先生方から「交わりが希薄した」ということばを耳にしました。聖書には「ともに」とか「互いに」ということばを多く書かれています。「ともに」も「互いに」も一人ではできません。19節の最後に「連れ戻すなら」と書かれています。連れ戻すのですから、そこにはお互いの交わりがあること示しています。霊的交わりは教会の成長に欠かすことのできないものでもあります。霊的交わりを大切にしていきたく願います。

天におられる父なる神様。祈りは神との会話であり神との霊的交わりです。私たちの群れも霊的交わりを持ちつつ、互いに励まし合う群れとして歩み続けることができますように導いてください。そして、祈りには大きな力がありますから、互いのことを覚え祈り合う群れとしても歩み続けられますように導いてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン


ヤコブ5:12「誠実に生きる」 23.09.10

序)
 あと2回で、ヤコブの手紙を終わろうとしています。今朝の箇所を読まれて、イエス・キリストが話されたことを思い出された方もおられるのではないでしょうか。今朝はヤコブ5:12からではなく、イエス・キリストが話されたマタイ5:33~37の箇所を通して共に教えられたいと願っています。

1)背景
 まずは、イエス・キリストが話された背景を見てみたいと思います。イエス・キリストは33節で「     」と、当時の教えを引用されました。実は、このようなことは旧約聖書には書かれていません。欄外の①に「レビ記19:12」と「民数記30:2」と書かれています。まず、レビ記19:12には「     」と書かれており、偽りの誓いが禁じられています。民数記30:2では「     」と、誓ったことを果たさなければならないことが書かれています。これらのことから、マタイ5:33でイエス・キリストが引用された教えは、レビ記19:12と民数記30:2を合わせたものと考えられます。そして、マタイ5:33の欄外には「申命記23:21」も書かれています。ここでは「     」と書かれており、誓ったことを果たさなければ罪に定められることが書かれています。ですから、神に対して誓ったことは、どのようなことがあろうとも絶対に果たさなければならないのです。
 そこでユダヤ教指導者たちは考えたのです。「何を考えたのか」と言いますと、果たせなかったことを考えての誓いです。誓ったけれども何らかの事情によって果たせなかったときに、罪に定められることのない誓いを考えたのです。それが天や地や都や自分の頭などを指しての誓いです。それは誓いを果たせなかったとき、「神に誓ったのではないから」という言い訳をして、罪に定められないようにするためです。そのような人々をイエス・キリストは「偽善者」と呼ばれ非難されました。

2)神に対する誠実さを
 そのような背景があることを踏まえつつ、マタイ5:33~37の箇所を見ていきたいと思います。この箇所を理解するにあたって大切なことは、5:21~48は17~20節の神を愛し人を愛することの具体例として話されているということです。何故、「17~20節が神を愛し人を愛することなのか」と思われるかもしれません。イエス・キリストは17節で「     」と語られています。「律法や預言者を成就する」とは、旧約聖書の約束を成就するということです。イエス・キリストは戒めの中で最も大切なことは「神を愛し人を愛すること」と話されました。それを成就するために、イエス・キリストはこの世に来られたのです。20節に「義」ということばが使われていますが、「義」というのは行いが伴うものです。ここでイエス・キリストは「あなたがたの行いが、律法学者やパリサイ人の行いにまさるように」と話されているのです。そして、21節以降に続くのです。ですから、そのことを意識しつつ5:33~37を読み取っていくことが大切です。
 この箇所は、イエス・キリストが誓うことを禁じられているようにも受け取れます。何故なら、34節で「決して誓ってはいけません」と話されているからです。しかし、イエス・キリストは決して誓うことを禁じられているのではありません。むしろ、「誓いとはどのようなものか」を話されているのです。神はこの世界の全てを造られました。ですから、その世界の中にある全てのものは、どれを指したとしても神に通じるものであると指摘されているのです。ですから、誓ったことは果たすようにと話されているのです。
 当時のユダヤ教指導者たちは、誓いが果たせなかった場合のことを考えて、その抜け道として神以外のものを指して誓っていたことが多かったのです。ですから、軽い気持ちで誓っていたこともあったのです。イエス・キリストは軽々しく誓うことを禁じられているのです。十戒の中に、「主の名をみだりに口にしてはならない」と書かれています。この「みだりに」というのは「偽って」とか「軽々しく」という意味を含んだことばです。また「口にする」と訳されていますことばは、以前までは「唱える」と訳されていました。そちらで覚えておられる方が多いと思います。これは誓うことを意味したことばです。ですから、この「主の名をみだりに口にしてはならない」とは、「神に対して軽々しく誓ってはならない」ということでもあります。神は偽りの誓いや軽々しい誓いを禁じられているのです。何故でしょうか。それによって、主の御名が汚されるからです。
ですから、イエス・キリストは誓いそのものを禁じられているのではなく、主の御名が汚されない誓いをすることを勧めておられるのです。民数記30章には、神への誓願について書かれています。2節の最後に、「すべて自分の…実行しなければならない」と告げられています。これは男性に対してですが、それは女性の場合は父親か夫が誓願を「無効」とした場合は赦されるからです。しかし、「無効」とされないなら実行しなければならないのです。旧約聖書もイエス・キリストも語られていることは、「軽率な誓いはするな」ということです。「自分が誓う誓いをきちんと果たすことができるのか」をよく考える。これは神に対する誠実さから来るものです。何故なら、「神との関係を大切にしよう」としているからです。神に対して誠実であることが、神を愛することでもあります。

3)日々の生活における誠実さを
 聖書は「神に対して誠実であることが、神を愛することでもある」と語っています。37節でイエス・キリストは「     」と話されました。「これはどういう意味なのか」と言いますと、「小細工するのではなく事実だけを言いなさい」ということです。すなわち「自分が出すことばに誠実に生きなさい」ということです。何故なら、誓いは果たすことで初めて成し遂げられるものだからです。このメッセージ準備をしているとき、ふと平城教会の山本圭介先生の牧師就任式のときを思い出しました。当時の実行委員長であられた湯澤先生が牧師就任式の司式をされました。そして、牧師の誓約のあとに教会員の誓約がなされました。教会員には誓約のことばが印刷され各自に配布されていました。湯澤先生は教会の方々に「誓約文を捨てるのではなく各自残しておくように」と伝えられたようです。何故なら、自分たちが何を誓ったのかを忘れることがないためです。すなわち、教会員が神に対して誓ったことを果たし続けるためです。私はそれを聞きまして「大切なことだな」と思わされました。「誓いを果たし続ける」ということは、「行い続ける」ということでもあります。そして、「行い続ける」とは生き続けることでもあります。何故なら、生きていないと行うことはできないからです。
 聖書の中に「主は生きておられる」ということばが何度も書かれています。それはⅠ列王記18:15、Ⅱ列王記2:2~6、Ⅱ列王記4:30などです。これらは「誓い」というよりも「約束」と言った方が的確かもしれません。約束は果たすことが求められます。誓いと約束の違いを調べてみますと、「誓いは自分自身の中での決め事であり、約束は相手との関係の中での決め事」と書かれていました。そして、「約束は守らなければならないが、誓いは自分の中のことであるから本人の判断による」というようなことが書かれていました。「なるほど」と思いつつ読んでいましたが、聖書における誓いは神が関わってきます。ですから、「聖書における誓いは神との関りであり、約束は人との関り」ということができるかもしれません。そうなりますと、どちらも守らなければならないものとなります。ましてや、誓いは神に対してなされるものですから、「約束よりも強いもの」と捉えることができると思います。
 私たちも「主は生きておられる」と信じています。ですから、私たちの口から出る誓いは、生きておられる神に対してもなされるものです。ですから、誓ったことは果たしていく責任があることを知らされます。そして、その責任を果たしていくことが神に対する誠実さでもあります。そのように聞かれますと、「全てを果たしていくことなどできない」と言われるかもしれません。確かに私たちは弱さを持っていますから、全てを果たしていくことなどできません。だから、イエス・キリストがとりなしてくださっているのです。そのイエス・キリストのとりなしがあることを覚えつつ、少しでも誠実に歩むように心がけることが大切ではないでしょうか。

結)
 今朝の招詞の箇所ですが、ホセア6:6に「     」と書かれています。「真実な愛」と訳されていますが、今までは「誠実」と訳されていました。表面的な生き方ではなく、誠実な生き方を神は喜ばれます。そして、6節の最後に「神を知ることである」と書かれています。「神を知る」とは、「ありのままの自分を受け入れてくださっている」というのを知ることです。何故、その神を知ることを神は喜ばれるのでしょうか。それは、ありのままの自分が受け入れられているのを知るとき、その神への感謝が生まれるからです。聖書には「感謝のいけにえを献げよ」と書かれています。私たちが毎主日教会に来て神を礼拝するのは、それが信仰者の務めだからではありません。神への感謝です。1週間、神が共にいて支え導いてくださったことへの感謝です。その神への感謝が強まれば強まるほど、その神に誠実に生きようとする思いが強められます。人は神を知れば知るほど、誠実に生きることができます。さらに深く神を知ることができるように祈っていきましょう

ヤコブ5:7~11「耐え忍ぶ者の幸い」 23.09.03.

序)
 聖書は神を抜きにした生活を非難しています。そのような生活は、目的・目標を見失っている生活でもあります。私たちが自分の罪を赦され神の審きから救われた目的は、天の御国に入るためではありません。神の栄光を現すためです。天の御国に入るというのは、自分の罪が赦され神の審きから救われたことの結果であり、決して目的・目標ではありません。それなのに当時の教会の人たちの中には、イエス・キリストを信じることによって自分の罪が赦され神の審きから救われたことによって天の御国に入れることに安心し、神を抜きにした生活をしていたのです。そのような生活は、現代の私たちの内にも起こり得ることです。「なるべく楽な道を歩みたい」と願い、「その方を選んでしまう」ということがです。聖書はそのような生活を非難し、神を中心に据える歩みを勧めています。それにはどうすれば良いのでしょうか。今朝の箇所でヤコブは7節で、「主が来られるときまで耐え忍びなさい」と語っています。楽な道を選ぶのではなく、苦しみ痛みに耐え忍ぶのです。聖書が語る「耐え忍ぶ」とは、我慢することではありません。単なる我慢は苦しいだけです。聖書が語る「耐え忍ぶ」とは、神に望みを抱いて目の前の事柄を耐え忍ぶことです。そこには望みがあります。その望みとは何でしょうか。今朝の箇所から見ますと、「耐え忍ぶ」ということばと同時に、「見なさい」ということばも繰り返し書かれています。この「見なさい」ということばがカギです。この「見なさい」ということばをカギとして、私たちが耐え忍ぶために大切な3つのことを共に教えられたいと願っています。

1)神の恵みの確かさに目を向ける
 耐え忍ぶために大切な第1は、神の恵みの確かさに目を向けることです。第1の「見なさい」は7節に書かれています。「農夫は…待っています」と書かれています。イスラエルには雨が降る時季が2回あります。時季は違いますが、日本にも梅雨の時季と秋雨の時季の2回あります。それと同じです。イスラエルでは、種を植えたあとに雨が降り、実が熟する前に雨が降ります。農夫はその雨が降るのを期待します。ですから、農夫にとって雨は恵みそのものです。その雨季の間は、種を蒔いたものが枯れないように守らなければなりません。これが農夫にとって大変の時でもあります。野菜作りをされている方はよく分かるのではないでしょうか。しかし、農夫は大変ですが耐え忍んで待っているのです。何故なら、雨季のときに雨が降り、実が実り収穫できると信じているからです。農夫は「良い実り」という希望に目を向けているから、その間が大変であっても耐え忍ぶことができるのです。もし、そこに目を向けていないなら、「辛いから」とか様々な口実をつけて怠けてしまいます。そして、何もないときに片手間に農作業をします。そのような仕事で実りの良い収穫を得ることができるでしょうか。答えは明白です。実りの良い収穫など得ることはできません。
 「私たちの生活も同じである」とヤコブは語っているのです。「神の約束」という望みに目を向けていないと、目の前の事柄に左右されてしまいます。そして、神が求めておられることよりも、「自分が嫌なことはしたくない」という、神を抜きにした生活になってしまいます。ですから、ヤコブは「農夫が収穫という恵みに目を向けて、その時その時を一生懸命励んでいるように、あなたがたの日々の生活も神の恵みに目を向けて歩むように」と語っているのです。何故なら、ローマ8:28に書かれていますように、神が全てのことを共に働かせて益としてくださるからです。ここを基盤として歩むか歩まないかで、その人の歩みは大きく異なってきます。
 ルカ19:11~27には「十ミナの譬え話」が書かれています。これはタラントの譬え話と似ていますが、違う所も幾つかあります。1つは話す相手です。タラントの譬え話は「弟子たちに」ですが、ミナの譬え話は「人々に」です。また、タラントの譬え話は能力に応じて与えられる数量は違いますが、ミナの譬え話は全員同じ数量です。さらに、タラントの譬え話は主人が旅に出るにあたってですが、ミナの譬え話は王位を授かって戻って来るにあたってです。タラントの譬え話は、与えられている賜物や能力は一人ひとり異なるが豊かに用いることの大切さが話されています。しかし、ミナの譬え話は王位を授かって戻って来ることから、イエス・キリストが審き主として戻って来られる再臨の日までのことです。それまで与えられている事柄に忠実であることの大切さが話されています。イエス・キリストはミナの譬え話を通して、「神の審きのときまで忠実であるように」と話されているのです。しかも、その話す相手は人々です。この「人々」とは異邦人ではなくユダヤ人のことです。すなわち、旧約聖書を信じている人たちのことです。それは教会で言えば「教会員」と言えます。ヤコブが語っていることも同じです。「農夫が農作業を忠実に励んでいるように、あなたがたも再臨のときまで忠実に歩むように」と勧めているのです。

2)信仰の先駆者に目を向けること
 耐え忍ぶために大切な第2は、信仰の先駆者に目を向けることです。先程、ミナの譬え話のことを話しました。1ミナを預かったけれども何もしなかった人は取り上げられてしまいました。この「取り上げられる」というのは審きの一つです。ヤコブは9節で「さばかれることが…やめなさい」と勧めています。マタイ24~25章には世の終わりについて書かれています。24:2に、「イエスは弟子たちに言われた」と書かれています。この「弟子たち」とは、「12使徒」と限定するよりも、イエス・キリストを信じている人」とも理解できます。弟子たちがイエス・キリストに、「世の終わりの時のしるしは、どのようなものですか」と尋ねたことが3節に書かれています。そこから、イエス・キリストは世の終わりについて話され25章の終わりまで続いています。ですから、この世の終わりの話しは、イエス・キリストを信じている人たちに話されたものです。25章にはタラントの譬え話が書かれています。このタラントの譬え話もイエス・キリストを信じている人に話されたものです。そして、30節に「     」と話されています。とても厳しいことばです。さらに、25:46のことばも厳しいことばです。ヤコブは「さばかれることがないように」と、暗闇に追い出されたり、永遠の刑罰に入れられることがないことを願っています。
 ヤコブは9節の中程で「見なさい」と語り、審き主なる方が戸口に立っておられることを示しつつ、10節で「主の御名によって…模範にしなさい」と勧めています。すなわち、信仰の先駆者に目を向けるようにと勧めているのです。10節の「預言者」とは、イスラエルが南北に分裂してからの預言者のことと考えられます。偶像崇拝に陥ってしまった南北のイスラエルの中で、神のことばを語り続けた預言者たち。神の御心に従って神のことばを語り続けましたが、経験したのは苦難と忍耐でした。特にエレミヤなどはひどいものでした。神は南ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされることを定められていたにも関わらず、エレミヤに南ユダ王国の人たちに神のことばを語り続けることを求められました。そのため偽預言者のように扱われ、罵られつつ多くの苦難に遭遇します。彼は自分が語っても人々は悔い改めないことを知りつつも、自分に与えられた務めを最後まで忠実に果たし続けたのです。自分の周りがどうであれ、「神に対してどうであるのか」を第1にしていたのが預言者の生き方でした。
 そのような生き方をしていたのは預言者だけではありません。へブル11:35~40に「     」と書かれています。ここには無名の信仰者たちの歩みが書かれています。彼らは様々な苦難の中で神に忠実に歩み続けた人々です。そして、12:1に「     」と書かれています。へブル書の著者は、「無名の多くの信仰者たちの歩みがあって、今の私たちの歩みがあるのだから、自分の前に置かれている事柄に対して、忍耐をもって歩み続けることが大切である」と勧めているのです。これはどういうことかと言いますと、「私たちは先駆者から『信仰』というバトンを受けているのだから、私たちも次の世代に『信仰』というバトンを繋いでいこう」というものです。それには「信仰の創始者であり…目を離さないことである」と2節で勧めているのです。へブル書の著者もヤコブも、信仰の先駆者たちに目を向けさせています。何故なら、そのような人たちから忍耐について学ぶことが多いからです。

3)神の慈愛と憐れみに目を向ける
 耐え忍ぶにおいて大切な第3は、神の慈愛と憐れみに目を向けることです。ここでヤコブは、ヨブのことを語っています。ヨブは神をとても愛し、神を恐れていた人でした。そのヨブに対する神の評価はどのようなものだったでしょうか。ヨブ記2:3に「彼のように…地上には一人もいない」というものでした。ヨブはそれほどの評価を神から受けていたのです。ところが、そのヨブは全身に悪性の腫物ができました。それでも彼は神を呪うことをせず、2:10で「私たちは幸いを…受けるべきではないか」と言った人です。ですが、そのヨブも友人たちからのことばによって、自分の義しさを主張し神に呟いてしまったのです。しかし、ヨブは神のことばによって自分と神とは対等ではないことを改めて知り、心から悔い改めたのです。その時ヨブが目を向けたのは、神の慈愛と憐れみです。
 5月の合同聖会の1日目の夜に、講師の山口先生より日本キリスト教史の講義をしていただきました。その終わりの方で、第二次世界大戦中の日本は教会を日本基督教団にまとめられ、教団代表者は伊勢神宮に参拝し、発足したことの報告をして祈願したことが話されました。山口先生のことばをそのまま拝借しますと「バアルに膝を屈める教会となった」ということです。戦後、日本のキリスト教会の多くは日本基督教団から脱退し、各々の団体を発足し活動を始めました。それと同時に、戦中にしてきたことを告白し悔い改めました。「キリスト教は悔い改めの連続である」と話されたのと同時に、「罪を告白するのと告白しないのとは雲泥の違いでもある」と話されました。そして、「日本のキリスト教会は神に滅ぼされても仕方のないものだったのに、新しい教会を生み出さしていることは神の慈しみであり憐れみである」とも話されました。
 私自身もそのように思わされています。キリスト者は「罪赦された罪人」です。自分の信仰がすばらしいからキリスト者として立つことができるのではありません。ただただ神の慈愛と憐れみによってキリスト者として立たせていただいているだけなのです。ヤコブは、その神の慈愛と憐れみに目を向けるように勧めているのです。それはヤコブだけでなく、ペテロも同じことを語っています。Ⅰペテロ2:3に「     」と書かれています。「味わった」とは「経験した」ということです。そして、私たちはその連続でもあります。私たちがキリスト者として生かされているのは、ただ神の慈愛と憐れみによってなのです。私たちは自分の生活に信仰を合わせようとしてしまいやすい者です。それでも、神は私たちを見捨てることをされず、いつも共にいて守り支え導いてくださっています。その神の慈愛と憐れみに目を向けたいものです。山口先生は最後に、「コロナ禍後、代わりゆく時代の中で『私たちが福音を証ししていくのはどういうことか、また私たちはどのように変わらなければならないか』を考えるときを歩んでいると思う」と話されました。福音の証し人として変えられていくには、神の慈愛と憐れみに目を向けることです。その神の慈愛と憐れみに目を向けることによって、私はどのように歩めば良いのかが見えてくるのではないでしょうか。

結)
 神は私たちに生きる望みを与えてくださっています。その生きる望みが与えられているから耐え忍ぶことができるのです。ただ大切なのは、「何に目を向けるのか」ということです。目を向けるものを間違ってしまいますと、間違った方向に進んでしまいます。昔、「金八先生」というドラマの中で、金八先生が「親という字は、木の上に立って見ると書く」と話し、「親は木の上に立って見て、子どもに進むべき方向を示す存在である」と話していました。ただ、大事なのは目を向けて見た方向が正しいかどうかです。間違っていたら、子どもに間違った方向に進ませてしまいます。それには、まず大人である私たちが「何に目を向けるのか」を良く知ることが大切です。