Tペテロ 1章20節〜25節
| メッセージの内容を音声で聞いて頂けます |
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「私の人間関係を変える神の言葉」
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私たちの人生は自分の人生です。そうは大見得を切っても、生まれてから数年は記憶がないわけです。目線を変えて神から人生を組み立直す必要がありそうです。世界の始まりから終わりまでを仕切る神。この方の段取りの元でちょうどいい時に私たちは救われたと信じるわけにはいきませんか。わたしにとっていい時か悪い時かを問う必要はありません。神にとっていい時だと信じられれば、十分です。
と言うのは、生きていると分からないことにたくさん出くわすからです。わからないことにぶつかる度に主よ、どうしてですかと叫ぶのもいいでしょう。しかし、忘れてはいけません。分かっていることもたくさんあるではありませんか。自分が洗礼を受けたこと。信仰が与えられたこと。教会につながっていること。兄弟姉妹と巡り会えたこと。分からないことに集中するのをやめて、分かっていることだけをつないでいくときっと恵みを悟ります。
では、クリスチャンなら誰でもそうですと言える分かっている恵みは何でしょうか。具体的にどこかの教会につながっている恵みです。教会には兄弟姉妹がいますから、その中で自分は成長し、同じみ言葉をいっしょにいただく中で熱く愛し合う兄弟愛が生まれていくはずなのです。種から芽が出るように、心にまかれたみ言葉の種は私たちの考えを変えて、絶対に兄弟愛の花を咲かせるのです。
人付き合いがわずらわしいので家にいてひとりで聖書を読みます。それでは兄弟愛は生まれません。ネット礼拝だけで間に合わせます。そこにはからだでぶつかるつきあいがありません。自分の教会を大切にせず、あっちの教会、こっちの集会と飛び回るのは気楽です。しかし身近な自分の教会の兄弟姉妹との責任ある間柄は芽生えません。神様はわずらわしく、面倒くさくもある兄弟愛を、生きて働くみ言葉の力で実は足元から始めて欲しいのです。
それなら、神の言葉は他の言葉と比べて何が違うのでしょう。一言で言えば次元が違います。永遠の言葉なのです。それに比べて人の営みは、行動にしても、話した言葉にしても長い月日の中では一瞬の輝きにすぎません。抜かれてしまう草、枯れてしまう花のようなものです。これはこの手紙を書いたペテロの体験でもあります。かつて何があっても主についていきますと言っておきながら、口ばかりですぐに主を裏切った情けなさ。
ならば、私たちも同じです。自分の言葉で、がんばりで、力みで何かをやり抜こうとしても必ず行き詰まります。聖書の言葉が心の中に生きて働き、根付き、内側から根本を変えられ続けない限り。では、虚しい自慢の言葉を引っ込めるのです。聞き苦しい言い訳の言葉を控えるのです。すなおに自分の弱さと欠けを認めてぺちゃんこになってもいい。そこから私たちを兄弟愛へと導く神の言葉が生きて働き出すのですから。
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