2014年6月8日  聖 霊 降 臨 祭
ヨハネ福音書7章37〜39
「聖霊の注ぎ」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうは教会の暦で聖霊降臨祭です。ペンテコステとも呼ばれます。聖卓や聖書朗読台の掛布の色が「赤」に変わっていますが、赤い色は愛の炎である「聖霊」を表わします。およそ二千年前のこの日、イエスさまが復活してから50日目に弟子たちに天から聖霊が注がれました。そして、聖霊の力を受けた弟子たちは、イエスさまの福音を公に宣べ伝え始めたのです。それで、この日はキリストの教会の誕生日とも呼ばれます。聖霊降臨祭は、降誕祭と復活祭とともにキリスト教の三大祭の一つに数えられます。
  この日の出来事については、第二朗読の使徒言行録2章で聞きましたが、きょうの福音はこの出来事の意味を解き明かそうとしています。

  《祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい》。
  この祭りは、仮庵祭(かりいおさい)という祭りです。ユダヤ教にも過越祭、五旬祭、仮庵祭と三大祭があります。そのうちの仮庵祭は取り入れの祭りとも呼ばれます。もともとが、オリーブ・いちじく・ぶどうなどの収穫を祝う秋(9〜10月の一週間)の祭りです。パレスチナ地方は冬の雨期と夏の乾期しかないのですが、この祭りは乾期の終わりと雨期の始まりの狭間に行われる「雨乞いの祭り」でもありました。祭りの期間中に雨が降ると、それは雨期に雨が降り豊作になる前兆だと信じられていました。雨期に雨が降らなければ干ばつになってしまうのです。
  仮庵祭はこのように秋の収穫感謝祭だったのですが、ユダヤ教による意味づけが加えられました。昔、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、約束の地に入るまで、40年の間、砂漠をさまよい、仮庵すなわち天幕(テント)生活をしていました。その間、食べ物にも飲み物にも事欠いたのですが、神の計らいによって飢え渇きをしのぐことができました。仮庵祭は、この荒れ野でのテント生活と神の導きと守りを記念するという意味を持つようになりました。
  ユダヤ教の三大祭には、エルサレム神殿に巡礼するように定められていましたから、大勢の人たちが旅をしてエルサレムに集まりました。神殿では盛んに動物の犠牲が献げられましたが、一週間続く「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」には、城壁の中にあるシロアムの池から水を汲んで、それを犠牲の祭壇に注ぐという儀式があります。祭壇に注がれた水は地中深く下り、天に上って雨降りの呼び水となると信じられたのです。
  この水注ぎの儀式が行われているときに合わせて、イエスさまは立ち上がって大声で言われました。

  《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》。
  雨が降ると涸れ谷wadi がたちまち水量豊かな川と変わって、いたるところで命がめばえる。それと同じように、イエスさまが説く神の言葉に耳を傾け、イエスさまを通して神に信頼する者は、聖霊という生きた水(命の水)を与えられて、命を新たにされる。このように、イエスさまは聖霊の注ぎを約束します。
  「聖書に書いてあるとおり」とありますが、聖書のあの個所この個所に書いてあるというよりも、聖書が全体として言っていることという意味です。この祭りで大祭司が犠牲を献げたり水を注いだりすることで待ち望んでいることは、イエスさまが十字架上でご自身を犠牲として献げることと聖霊の注ぎによって完成される、とイエスさまは言うのです。

  《イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。》
  ここに“霊”という表記が出てきますが、聖霊のことです。神の霊を意味するけれども、聖書の原文に「聖なる」という形容詞が付いていない場合、聖霊と訳せないので、新共同訳では人の霊と区別して“霊”と書き表わしています。口語訳では「御霊(みたま)」と訳されていました。しかし、日本語の「御霊(みたま)」は「死者の霊」を意味するのがふつうですので、そう訳すことを避けて、“霊”としたのだそうです。
  聖霊は「もうひとりのイエスさま」であることを先々週、ヨハネ14章で聞きました。聖霊は、弟子たちと共に地上を歩んだイエスさまとは異なりますが、十字架にかかり復活して天に上って栄光のみ座に着かれたイエスさまが弟子たちと、後世の信じる者たちとに送り出されるお方です。復活されたイエスさまの霊と言うこともできるお方です。
  ですから、聖霊の注ぎは、生前のイエスさまが話しておられる時点では、まだ実現していない約束だったのですが、ヨハネが福音書を書いている時点では、すでに実現し、体験されて確証済みのことになっていました。

  さて、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とイエスさまは言っていますが、いったい誰を招いておられるのでしょうか。礼拝に集う人は、自分が霊的に渇いていることを自覚しているからこそ集うわけですが、実は「渇いている」と自覚していようがいなかろうが、現代人はみな渇いた状態にあると言えるでしょう。きょうはそのことを「聖書の人間観」にもとづいてお話しさせていただこうと思います。
  一般に人間は心身の二元論、つまり心mindと身体bodyの二区分で考えられていますが、キリスト教は霊の次元を加えて、人間は霊spirit、魂soul / mind、身体bodyの三区分で考えられています。その例として、聖書を二か所だけ挙げてみます。
  Tテサロニケ5章23《どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように》。
  創世記2章7節《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり(body)、その鼻に命の息(spirit)を吹き入れられた。人はこうして生きる者(原文は魂soul)となった》。
  人を霊と魂と体の三区分で考えることに慣れていないので、分かりにくいと思いますが、ルターの説明を聞いてみましょう。ルターは、人を家にたとえて、霊という部屋と、魂という部屋と、身体という部屋のある家だと説明します。霊は、人の最深の部分であって、人はこれによって目に見えない理解しがたい永遠の事物を捉えることができます。霊の部屋には信仰と神の言葉が内住します。魂はふつうは霊と同じと見なされますが、働きが異なります。つまり、魂は身体を生きたものとなし、身体を通して働きます。その働きは、理性が認識したり推量したりできるものを把握することです。ですから、理性が魂の部屋の光です。そして、霊がより高い光である信仰によって照明し、この理性の光を統制しないと、理性は過たずにいることは決してできないのです。なぜなら、理性は聖なるものを扱うにはあまりにも力がないからです。身体は四肢をもっています。身体は、魂が認識し、霊が信じるものにしたがって働きます。
  ルターはまた、人を神殿にたとえてもいます。身体は前庭、魂は聖所、霊は至聖所(奥の院)です。身体は可視的なものを対象として感性sensibilityを働かせます。魂は存在の理解できる法則を対象として理性reason/mindを働かせます。霊は不可視的な永遠の事物や神の言葉を対象として信仰faith/spiritualityを働かせます。
  人に霊がある限り、人は誰でも神への対向性をもっています。ですから、アウグスチヌスはこう言います。「あなたはわたしたちをあなたに向けて造りたまい、あなたの内に憩うまで、わたしたちの心は不安に駆られるからである。」(岩波文庫「告白」上巻の冒頭)。
  ところが、近代・現代人は、人間を理性と感性を持つものと見て、心の深みである霊性を無視しがちです。神の内にある平安を見失っています。「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「毎日繰り返される体験の意味は何か」「自分はなぜ病気なのか」「自分はなぜ死ななければならないのか」「死んだあとはどうなるのか」「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」などなど。人は、誰でも、元気なときでも、何かしら霊的な問いをもっています。ましてや、病気になったとき、どうにもならない困難と対峙したとき、死に直面しているときなどは、なおさら、そのような問いに霊的な痛みを感じるのです。イエスさまが、ある特定の人たちだけに呼びかけているのではないことがお分かりだと思います。
  神への対向性をもっていますから、こういった問い哲学的、学問的に答えを得ようとしても満たされることがありません。人に近づいてくださる神との交わりによってのみ満たされるのです。
  これらの霊的な問いは、日常生活で感性や理性が円滑に動いている間は眠っています。苦痛や試練が来たときも、さし当りは感性と理性をフル回転させて対処しようとします。そして自力では対処できないとなったとき初めて、聖なるものに対して受け身の態度に取り変わるのです。人の霊が目覚めたときには、受け身の信仰として現れるのです。覚醒した人の霊の部屋には、聖霊と神のみ言葉が入居してくださいます。
  人が神を信じる、イエスさまと出会うと言っても、感性で神や復活のイエスさまを見ることはできません。それでは理性が捉えることもできません。人の霊性、信仰だけが捉えることができるのです。ですから、《いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです》(Tヨハネ4章12)と言われます。神の霊から人の心に注がれたこの愛が、信徒の間で、またこの世で実現するとき、神はその存在を証ししている、と説かれているのです。
  初期のイエスさまを信じた人たちは、《聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない》(Tコリント12章3)ことを深く自覚していました。《わたしのところに来て飲みなさい》と招いてくださるイエスさまが、わたしたちを命の水をいただく喜びにあずからせてくださいますように。