ここ数年ですが、「気品」、「品格」、「品性」などという言葉をメディアや出版物の中で度々見かけるようになりました。数学者でお茶の水女子大学の藤原正彦教授の『国家の品格』(新潮新書)が昨年秋に出版され、より一層これらの言葉に対する関心は高まっているようです。
 藤原教授の言う「品格」は、日本人らしさ、日本人としての品性に関わる問題として取り上げられています。グローバリゼーションのもたらす弊害のひとつ、世界の均質化にチャレンジする勢いを日本は取り戻すべきであり、英語よりも国語をしっかりと子どもたちには教育すること、また、「武士道精神」の復活をその品格の土台とすることがこの本では訴えられています。欧米偏重の傾向や着々と進んでいる感が強いグローバル化に疑問を抱く人たちの支持を得ていることは、現在も新書ベストセラーとしてその売れ行きを伸ばし続けていることからも明らかでしょう。
 著者が取り上げている「武士道精神」は新渡戸稲造が著した『武士道』(実に多くの出版社から、英語で書かれた原文と一緒に掲載されているものや解説付のものなどが出ています)がその基礎にあります。「それでもやはり、私は新渡戸の『武士道』が好きです。私自身が推奨している『武士道精神』も、多くは新渡戸の解釈に拠っています。」
 
 新渡戸稲造の『武士道』に対する関心もここ数年衰えることを知りません。翻訳ものだけでなく、例えば、岬龍一郎著『日本人の品格』(PHP文庫)のように(副題は「新渡戸稲造の『武士道』に学ぶ」)、『武士道』の解説本とも言える内容を持つものも出版されています。クリスチャンであり、国内だけでなく、国際連盟事務局次長を務めるなど、国際的に活躍した新渡戸が書いた『武士道』には、普遍的で、時代を超えた、決して失いたくない価値観、倫理観が示されていると共感する人が多いのではないかと思われます。
 個人的な見方ですが、新渡戸がこだわったのは武士道精神の持つ普遍性で、きっと欧米の人々の共感を得ることができると考えていたのではないかと思うのです。勿論、日本を、そして、日本人、特に日本人の持つ伝統精神を世界に紹介することが執筆の目的であったことは明らかです。しかし、意図はされていなかったもしれませんが、混迷が予想される世界に対して、時代に揺るがされることのない精神、つまり、日本人らしさを超えた、人間としての品格ある生き方を提示することになったのではないでしょうか。そして、それこそが1899年に出版された本が21世紀の日本で多くの人々の支持を得ている理由ではないかと考えられます。
 
 ところで、気品や品格は外見をいかに整えたところで身につくものではありません。ブランド物に身を包むことが品性を養うことにはならないのです。残念なのは、最近の傾向が、ビジネスコンサルタントで数多くの著作を記している山崎武也さんの『気品の研究』(PHP文庫)の中で次のように書かれているとおりであることです。「着飾ったりして格好をつけるのが上手な人は多くなったが、人生に対する姿勢に関して格好をつける人は少なくなった。」「人は気品ある生き方には関心がなく、どれだけ長く生きるかばかり気にしている」というローマの哲学者セネカの言葉が紹介されていますが、古代社会から変わることのない問題であると言えるでしょう。
 品格ある生き方、気品あるライフスタイルには時代にゆるがされることのない価値観、倫理観が不可欠です。そして、その人が何を信じているか、何のために生きているかによってその価値観、倫理観は変わってきます。お金が人生の最高の目的であるなら、「金格」は育っても、品格は養われません。「利益の追求のためなら何でもやる」という考え方からは気品あるライフスタイルなど生まれるはずがないことは誰もが認めるところでしょう。
 
 聖書は品格ある生き方の土台、そして、人生の土台とすべきは「神を恐れること」であると語っています。
 
 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(旧約聖書 伝道者の書12章13節)
 
 「この世界の創造主である神を信じ、その教えに従って生きる」ことこそが真に品格のある生き方を可能にすると教えています。
 さらに聖書には
 「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判のよいこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」
(新約聖書 ピリピ人への手紙4章8節)と、気品を養うための具体的なアドバイスが示されています。
 
「人のふり見てわがふり直せ」とはよく言われますが、心に留まったことをまず身近なところから実行し、より品格のある生き方を目指したいと思います。